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三
梅雨明けが発表された翌日、学校は創立記念日で休みだった。特にすることもなかったので、平日だがお店の手伝いをすることにした。
開店と同時にいつもの三人がやってきた。いつものように歌って、食べて、おしゃべりに花を咲かせていると、一人のお客さんが入ってきた。上下紺のスーツに、頭に糊をぬって固めたようなオールバック、年齢は五十歳を超えているだろう中年男性だ。私はもちろん、おばあちゃんたちも初めてらしく、新しいお客さんに店内がにわかに沸いた。
「いらっしゃいませ、当店は初めてですか。どうぞこちらへ」と、おばあちゃんがカウンターに招こうとすると、男性は「結構です」と手で制した。そして、おばあちゃんやお客さんたちを無視して私の真正面に立ち、じっとこちらを見てくる。なんとなく居心地が悪いがとりあえず「なんでしょうか」と尋ねるしかなかった。
「初めまして。君が美佳子ちゃんだね」
「そうですけど……すみません、どこかでお会いしましたっけ?」
「いや、会うのは初めてだ。僕は、君のお母さんとお付き合いしている庄司という者だ」
「え」
庄司さんはよろしく、とカウンター越しに握手を求めてきた。私はできるだけ触れないようにゆっくり手を出したが、庄司さんは思い切り握ってきた。
「うん、お母さんに似てとても小さい手だね」
感触を確かめるようにむぎゅむぎゅと握ってくる。気持ち悪くて手を引くが、解放してくれる気配が全くない。
「あの、手を放してくれませんか」
「今日は、君を迎えに来たんだ。僕と一緒にお母さんのところに帰ろう」
「へ?」
思わず間抜けな声が出た。あっけにとられたのは私だけではなく、おばあちゃんもお客さんたちも、揃いも揃って口を開けている。
「突然僕が来たことに驚く気持ちは分かる。だけど、君は未成年なんだから、親の元で暮らさなくてはいけない。それが一番の幸せなんだよ」
「いや、あの……」
「確かに君のお母さんは今まで奔放な生活をしてきたかもしれない。でも安心してほしい。僕が君のお父さんになってあげるから。死んだお父さんのことは忘れて、僕たちと一緒に幸せになろうじゃないか!」
これほどまでに喋れば喋るほどボロが出る人間なんているんだろうか。会って数分しか経っていないのに、この人には嫌悪感しかない。
「あ、あの! とにかく、手、放してください」
「いや、放さない。今日はこのまま連れて帰るよ。悪いがこの店は君のような子には相応しくない。どうせ無理やり働かされているんだろう? バイトをしたいなら僕が紹介してあげるから」
「ちょっと、いい加減にしてくださいっ」
思い切り腕を引くと、思っていたよりもすんなりと手が放れた。あれ? と思っていると、なぜか山田さんが庄司さんの肩を掴んで引き離してくれていた。
「な、何なんですか、あんたは! その手を放しなさい」
「いや、放さない。今日はこのまま帰っていただこう。悪いがこの子はあなたのような人には相応しくない」
「な……!」
山田さんの返しに庄司さんは顔を真っ赤にして目を剥いている。
「とにかく放せ! 人を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
「馬鹿にしているのはあなただろう。相手のことなど構わず自分の意見ばかりを押し付けて、しかもそれが正しいと思っている。あまりにも軽薄だ」
山田さんの声はいつものカラオケのように抑揚がない。だけど今はそれが無性に怖い。
「しかも、死んだ人間を忘れろと言っていたな。故人を思う気持ちを否定するなど人として最低の行為だ。父親になってやるという前に、まずは真っ当な人間になったらどうだ。さあ、もういいだろう、帰っていただこう」
山田さんは店のドアを開け、高級ホテルのドアマンのように腰を折って退店を促している。庄司さんは「くそっ!」と言い捨て、走って店を出て行った。
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