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後々調べると、犠牲者の数は多いものの、神の生贄として捧げられたのは一人なのだそうだ。当たり前だ。たかだか100年と少し前のことで、生贄が何人も何人も出ていて黒船もびっくりのもはやファンタジーレベルの村社会だ。
だが、江戸の終わりというならあの小学校もすでに寺子屋として存在していた時期だ。あの呪いの木も、きっとあそこに存在していた。
だから、あの木が伸びているその地続きの、しかもそう遠くない場所で、記録に残るような大きな治水工事のために人柱が存在していた。
人柱なんて馬鹿げている、などとは思っていなかったのだ。思っていたかもしれないが、命を捧げるくらいそれは大事な考え方の一つではあったのは間違いない。
この大河に感謝して育つ私たちはその犠牲の上に豊かな生活ができていることを、小さい頃から刷り込まれている。
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