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始発の下りはいつも空いている。
私はニ両目のいちばん前のドアから乗車する。
隣り駅までの短い通勤電車。
ドアの隣の座席に座る。
うつむいてドアが閉まるのを待つ。
車内にはいつも見掛ける乗客が私をのぞいて三人。
左奥にある三人掛けの座席には居眠りをしているサラリーマン。
車両の真ん中には釣り革に掴まっている学生風の男性。
そして、私の前に座る栗色の睫毛をした女性。
いつも膝のうえに文庫本を広げていて、うつむきがちな顔の両側には肩で切り揃えた髪が垂れている。
電車が動き出した。
私は少しだけ視線をあげて彼女を見る。
最初に視界に入ってきたのは文庫本のタイトル。
肩胛骨は翼のなごり。
聞いたことがない本。
それを支える彼女の白くて冷たそうな指。
電車が速度を増す。
彼女の背後で朝の景色と陽光が流れ去る。
車内に音はない。
隣の駅まで七分間。
もう何十秒も失われてしまった。
心を鼓舞して視線をさらにあげる。
淡い青のブラウス。白くて可愛げなボタンが並んでいた。控えめに開かれた胸元。そのさきにある、滑らかな顎。
そして栗色の睫毛。
隣の駅まで七分間。
トンネルも踏切もない静かな七分。
もう何分失われたの。
陽光に洗われた新緑が彼女の背後を走り去る。
ずっとこのままならいいのに。
次の駅になんて着かなければいいのに。
栗色の睫毛が少し揺れた。
私は怖くなって目を伏せる。
遠くから踏切の警告音が聞こえてきた。
次の駅の先にある、赤いまばたきをしている、あの踏切。
七分間がもうすぐ終わる。
また一日がはじまる。
あの一日がはじまる。
目を伏せながら、頬に流れる熱さに気がついた。
もし明日、彼女がいなかったら。
もし二度と、彼女が現れなかったら。
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