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甘えたい夜もある
コテージに戻って来たのは、予定よりも早い時間だった。管理棟へ戻った事を伝えると支配人はにっこりと迎えてくれて、早めに食材を運び込む事を申し出てくれた。
有り難く申し出を受け、一緒にそこで売っているケーキとワインを買った。今日は魚料理だからワインは白、ケーキはシンプルなショートケーキを選んだ。
そうして戻り、着替えて一度汗を流し終わった頃に食材も届いて、ゼロスは慣れないエプロンをつけた。
「大丈夫なのか?」
「大丈夫だって……多分」
正直、まだ自信はない。だが、練習の成果をここで見せずにどこで見せるのか!
届いた食材を見ると、魚や貝類は既に下処理が終わっていた。おそらく材料を見ただけで厨房の人間が何を作るか分かったのだろう。魚も綺麗に半身におろされている。
実に有り難い。実はここが一番の難関だった。どうしてランバートもコンラッドも一匹まんまの魚をあーも鮮やかに捌けるのか。何が驚いたって、第三師団の三人も綺麗に魚を三枚におろせる。さすがは海軍だ。
貝はアサリとムール貝。これらを擦り合わせてもう一度綺麗に洗い、ミニトマトは半分に、パプリカ、マッシュルームは食べやすい大きさに切る。気持ち大きめだ。
まずはオリーブオイルにニンニクを入れて火に掛けて香りを移し、そこに魚を皮面から入れて焼き色をつける。少したっぷりと入れたオリーブオイルのお陰でくっつかずにどうにかできる。これをフライ返しで返したら、身の方も焼いてもう一度ひっくり返した。
これができたら白ワインを入れて、まずはアルコールを飛ばす。練習の時に揺すったら火が付いて驚いた。ランバートに「フランベは素人には早い」と言われた。下手をすると火傷や前髪が焦げるらしい。
じっくりと待てばアルコールは飛ぶ。貝、ミニトマト、マッシュルーム、パプリカを入れて蓋をすればひとまず一段落だ。
「いい匂いがする」
匂いに誘われてクラウルが隣にきて手元を覗き込む。当然のように腰に手を回されて。
「手が込んでるな。誰に習ったんだ?」
「ランバートとコンラッドに。他の奴も試食を手伝ってくれた」
「なるほど、あいつらは上手いからな」
「ある意味プロだよ」
「そのせいで、ファウストはかなり舌が肥えたな。昔は串焼きの蛇でも美味しく食べていたのに」
想像できるから嫌だな……。
「……クラウルも」
「ん?」
「クラウルの舌も、肥えるか?」
このままもう少し料理を頑張ったら、この人は喜んでくれるだろうか。
不意にこめかみに触れた唇に驚いて見上げた。その先で、この人は甘く甘く微笑む。とても嬉しそうに。
「嬉しいが、もう一つ我が儘を言いたい」
「なに」
「隣に並んで、一緒に作ってみたい」
「!」
……それは、誘惑が強い。
ふと想像するのは、休日の朝二人で立つキッチン。いい匂いがして、クラウルの真剣な横顔とかを見ながら料理をする穏やかな時間。
「今度、そうしよう」
「教えてくれるか?」
「俺がアンタから教えられる事になると思うが」
「大丈夫だ、お前は覚えがいいから直ぐに俺を抜く」
「期待が過剰だ! これだって何回か失敗したんだ」
主に、魚をおろすところでボロボロになった。
程よく煮えて貝の口も開いたのを見て、ゼロスは蓋を取った。途端に広がるいい匂いは食欲をそそる。あとはパセリとバジルを適当にちぎって散らせば完成だ。
「アクアパッツァか」
「パンは焼きたてを入れてもらったから。少し早いけれど」
時刻はまだ夕方五時前、夕飯にしては早い。だが、クラウルは嬉しそうに笑った。
「その分、夜の時間がたっぷり取れる」
「うっ、そう、だな」
よし、しっかり精を付けておかなければ。
大きめの鍋で湯を沸かしつつ、ゼロスもクラウルも席についた。真ん中にはアクアパッツァと焼きたてのフランスパン。果物はクラウルが切ってくれた。グラスにはワインが注がれている。
「俺達の門出に」
「乾杯」
飲み込むワインは少し酸味が強いが、とてもいい味をしている。
クラウルが取り分けてくれて、二人で食べる夕食は静かだが笑顔が多い気がした。この旅行の間、ずっとクラウルは自然な表情をしている。よく笑い、話し、甘えたように近づいてくる。それは珍しくて、同時に嬉しくもある。
こんな日常も、いいものだ。
「クラウル」
「どうした?」
「アンタが騎士団を引退したら、またこうして旅行がしたい」
ふと出て来た言葉にゼロスが驚いた。ハッとして見ると、クラウルは少し困ったように笑っていた。
「すまない! こんな話」
「定年まではまだ長いな。三十年くらいある」
「……え?」
「結婚記念日の今日、毎年二人で出かけるというのはどうだ?」
「え……」
それは、願ってもない話だった。
でも、甘えすぎている気がして言わなかった言葉だ。
「そのくらい、許してくれるだろ?」
「それは、俺は勿論で。でもクラウルはいいのか?」
「特に問題がなければ構わない。遠出は無理でも近場で。俺も、またこうしてお前と二人で過ごす時間が欲しい。それが三十年後というのは、少し遠すぎる」
この人も安らいでいる。ゼロスもこの時間がとても愛しい。こんな時間が来年もまた訪れるのかと思えば、嬉しいという言葉以外は出てこない。
「俺も、そうしたい」
「では、決まりだな」
「あまり俺を甘やかさないでくれ」
「嫁を甘やかすのは旦那の特権じゃないか?」
「ダメになる」
「ならないさ。この位でダメになるならとっくの昔になっている。むしろ、少し頑固がすりずぞゼロス。もう少し……せめて二人だけの夜は甘えてほしい」
甘い声には誘惑もある。ダメだ、この旅行の間ずっと意識している。側にいるのに、触れるのに、それは愛しさを伝えるばかりで欲望を伝えない。もう、限界かもしれない。
その時、湯を沸かしている鍋の蓋がカタカタと鳴って現実に引き戻された。
「食べてしまおう! 〆が一番美味しいんだ」
「……そうだな」
苦笑はそのまま「残念」なのだろう。でも余裕なのは、この後いくらでも時間があるからだ。
二人で綺麗に平らげたあと、ゼロスはパスタを茹でている。少し塩味を抑えて茹でたパスタを温めておいたアクアパッツァのオイルに絡めていく。魚介の旨みと野菜の旨味が十分に出たオイルまで美味しく頂くこの〆が絶品なんだと、ランバートもコンラッドも豪語した。
実際、この〆を食べてゼロスはこの料理を覚えたいと申し出たくらいだ。
「美味い!」
クラウルも驚いて、次々と口に運んでいく。これを見て、ゼロスは嬉しく笑った。料理をする人間の気持ちが少し分かった気がする。こんな風に食べてくれるなら苦労しても価値があるものだ。
綺麗に平らげたあと、二人でケーキを出した。ホールは食べきれないから、ワンピースずつ。それでも美味しそうだ。
「ケーキ入刀はないが」
「いらないよ、派手な演出なんて」
二人で囲う食卓に、ささやかな贅沢。それで十分だ。
ケーキは甘い。とても上品な甘さがある。そして目の前の人もとても甘い顔をする。これを食べ終わったらゼロスは風呂に、その間にクラウルが片付けを申し出てくれた。だが条件もある。慣してくるなと言われたのだ。
下準備はしてあるが、ある程度慣すのが癖になっている。それをしないというのもまた恥ずかしい事だ。つまりはクラウルがやりたいということだ。
「顔が赤いぞ」
「……やっぱり自分で」
「ダメだ」
「……」
ここは頑固に譲らないらしいのだ。
「俺がしたいんだ、ゼロス。俺の手で、お前を沢山乱れさせたい。ダメか?」
「ダメじゃないが……恥ずかしいというか」
「今更じゃないか?」
「それは! そう、なんだが」
もう、反論の余地もない。
ケーキの上に乗っている苺をフォークに刺したクラウルが此方へと差し出してくる。見ればそれ以外は綺麗に食べ終わっていた。
「クラウルのだろ?」
「やる」
「でも」
「少し味見ができればそれでいい」
そう言われてガンと動かないクラウル。流石にここで意地を張ってもしかたがない。ゼロスは差し出される苺に口をつける。酸味がいいアクセントで、とても美味しい。
「どうだ?」
「美味しい」
「では、味見をしてみようか」
「っ!」
近づいて腰を取られて手を取られたらお約束の如く唇を奪われる。そういう味見か! と色々言いたいが、直ぐに余裕はなくなった。
舌を絡め、弱い所を擽るキスは既に臨戦態勢が整っている。最初から欲情を煽るそれにゼロスの体は震えた。
膝から力が抜けそうになる。与えられる快楽に頭の中がぼんやりとする。これは反則だ。
ゆっくりと唇が離れていき、近い距離で視線が合う。黒い瞳のその奥が、欲しいと訴えているように思える。
「風呂、行っておいで」
耳元で囁かれ、トンと肩を叩かれる。それで椅子に座りなおしたが……今風呂に入ると逆上せそうだ!
クラウルは食べ終わった食器を運び、片付け始めようとしている。その背中はキビキビと動いていて無駄がない。
……風呂に行こう。
少し離れて落ち着く時間も必要だ。そう、思えてきてゼロスは立ち上がった。
コテージの風呂は大人の男が二人も入れば狭く思えるだろう。これが体格のいいクラウルとゼロスでは流石に狭い。結果、風呂はそれぞれで入る事に昨日決めた。
湯をかけて念入りに体を洗い、ほんの少し温まる。その後は溜息が出た。
とにかく体が暴走気味な気がする。いや、理由は分かっている。ここ数日寸止め状態が続いたからだ。なんとなく求めているのに与えられなかったからだ。それでも我慢できたのは旅行で浮かれているのと、あちこち見て回ることでなんとなく発散できていたから。
それがここにきて、確実にこれから抱かれると分かると無意識に欲している。
今夜、とんでもない痴態を晒すのかもしれない……。
いや、いいんだ別に! 新婚初夜なのだから多少乱れたって……普段もだいぶ乱れている気がするが。いや、それなら尚のこと今更だ。あの人を相手に余裕でいられるわけがないんだ。
「……恥ずかしいのは変わらないよな」
問題は、理性が飛ぶまでがひたすら恥ずかしいということなんだ。
「逆上せる」
ここで倒れる事だけは許されない。早々に風呂を上がってローブに着替えて出ていくと、クラウルは丁寧に皿を流して伏せている。
背中だけでもいい男だよな……。ふとそんな事を思う自分の緩みに、ゼロスはハッとしてパンと頬を叩いた。
「! どうした!」
「いや、ちょっと」
本当の事は言えない。何故ならまだ素面だから。
「片付け有り難う」
「この位大したことではない。美味しい夕飯のお礼だ」
「結婚指輪の前金だろ?」
「俺が貰いすぎている」
「大げさだ」
まだ濡れているゼロスの髪をくしゃくしゃとクラウルが拭く。なんとも毒気のない顔で。
「クラウル」
「ん?」
「……今日は、優しいのがいいんだが」
伝えてみると、クラウルはとても驚いた顔をする。いや、普段も優しいのだが今日は特にそういう気分だというか。
ふと、真剣な顔をしたクラウルの唇が額に落ちる。瞼に、鼻先に、そして唇に。次にはふわりと男の色気をダダ漏らしにして笑うのだ。敵わない。
「うんと、優しくすると約束しよう」
「頼む」
「あぁ」
嬉しそうにするのはきっと、普段こういうことを言わないからだ。「今日は……」なんてゼロスから言った事はあまりない。いつもクラウルに任せっぱなしで、流れに合わせている感じがある。
でも、今日はそれではいけないと思ったんだ。彼の伴侶として、此方も求める意志を見せたかったのだ。
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