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第29話・プリンス・チャーミング
「こん車のエンジン音、ちょこっと変わっちましぇんか?」
わずかな沈黙のヒトトキも妙にコラエがたくて、万寿夫は、思いつきのままささやいたものの、ミャクラクのないバカげた自分の問いかけが恥ずかしくなり、余計にソワソワとした気分に陥るだけだった。
だが、薫は、思いのほか興を示した。
「へぇー、この往年のボクサーサウンドに気付いてくれるなんて。マスオ君、車スキなの?」
「いやぁ。仕事で、仕入れん時ちょこっと乗るくらいで。……ボクサーサウンドっち、なんですか?」
「水平対向特有のエンジン音でね。水平対向エンジンってさぁ、エンジンそのものの整然としたシンメトリーのビジュアルを、こう……タイトでフェアなバランス性能が具現化しているような……シンボリックなアプローチを感じない?」
「す、すいまっしぇん。……私には、いっちょん、分からないですたい」
薫は、小さく肩をすくめながらも、コリずに同意を求めた。
「でも、シリンダーブロックの対面響音って、けっこうシビレるでしょー?」
「は、はぁー? どげんでしょう……?」
「このエキゾーストの高音部の響きって、どことなく飛行機のエンジン音と似てる気がするんだよねぇー。ほら、スバルって昔は戦闘機つくってたメーカーだし、飛行機のエンジンも水平対向だから、あながちマトハズレでもないと思ってるんだけど。どう思う?」
万寿夫は、一瞬ポカンとしてから、くすくす笑い出した。
「意外に子供っぽいところのあっけんねぇ、薫しゃんは」
「そうかなぁ……?」
薫は、フロントガラスを向いたまま、すべらかな頬に微笑みを返した。
前方のワゴン車との車間がつまってきたので、ウインカーを出してからゆるやかにハンドルを切り、追越車線を加速する。
「僕、けっこう好きなんだよね、飛行機って」
数台の車を追い越して、再び本車線に戻る。
万寿夫は、端麗な横顔にひとりでに見惚れながら、尋ねた。
「飛行機に乗るんを好いとーですか?」
「ううん。乗るより、見る方が好きなんだ。羽田のターミナルにも良く行くんだよ、用もないのに1人で。展望デッキに立って旅客機の離着陸を眺めるのが好きでね。日中から夜の閉場時間までボーッとしてることもあるし……いろいろ行きづまった時なんかにね」
「薫しゃんでも、行きづまるなんてこつ、あるとですか?」
「そりゃもう、しょっちゅうだよ。ミエッパリだから、あんまり顔には出さないんだけどね」
と、薫は、素早いウインクで一瞥をよこした。
万寿夫は、またドキドキと胸をザワつかせながら、なにげない様子をとりつくろった。
「私は、飛行機に乗るんの苦手ですばい。体の宙に浮いとるん、どげんにも落ちつかんです」
と、いかにも柔和な印象をあたえる甘やかな顔つきを、オオゲサにしかめてみせる。
「そいに、飛行機に乗り込むまでん手続きの、ややこしかー! コッチでキップ見せて、ソッチで荷物ば預けて、飛行機に乗るんなアッチって……旅に出る前に迷子になりそーですばい」
「たしかに。ヤヤコシいよねぇ……」
薫は、笑い声をあげて、
「よかったら、出発ゲートまで見送らせてもらっていいかなぁ?」
と、さりげなく搭乗手続きのエスコート役を買って出た。
「あ、ありがとうございます」
万寿夫は、照れくさそうに小さく頭を下げた。
その仕草がイタイケな小動物を思わせて、薫の興趣をそそった。
「なんだか……ちょっとヤケてきたなぁ」
「は? な、なんのこつやろか?」
万寿夫は、困惑して首をかしげてから、急に思い当たってオズオズとつぶやいた。
「……ひょっとして、薫しゃんな、小百合しゃんこつをまだ好いとぉとですか?」
「まさか。小百合さんとのことは、もう、とっくに心のケジメがついてるよ」
「そーですかぁ」
万寿夫は、心底ホッとしたようにホーッとタメ息をついた。
薫は、その横顔を視界のスミでのぞきながら、スッと目を細めた。
「マスオ君は、小百合さんのことを愛してるの?」
「な!? なななな、なんですかぁ、急に!?」
「だって、お見合いだったんでしょ? 恋愛結婚と違って、そのヘンどうなのかなぁーと思って。タダの好奇心」
「わ、私は……」
万寿夫は、アタマのテッペンから湯気が吹き出そうなほどに上気しながらも、
「私は、小百合しゃんば、心から愛しよるとです」
と、キッパリ言い切った。
薫は、自嘲的に頬を和ませた。
「そうかぁ。……やっぱりヤケちゃうなぁー、小百合さんがウラヤマしくて」
万寿夫は、ワケがわからずポカンとした。
「は?」
「まったく……僕が本気で好意を持つ相手っていうのは、どうして、こうも鈍感なコばかりなんだろ」
と、薫は、口の中でヒトリゴチてから、軽やかに話題を転換した。
「羽田から福岡空港っていうと、……運がよければ、アレに乗れるかなぁ」
「アレっちな、なんですか?」
「僕が一番気に入ってるジャンボジェットなんだけどね……」
薫は、大事な宝物を打ち明ける子供のように、蜜色の透き通った目を輝かせた。
万寿夫は、ナビシートにもたれてくつろぎながら、その優雅な横顔の造形にじっと魅入っていた。
……やがて、関越から外環に抜ける手前の辺りの路肩に、高速に乗った直後に2人が見かけた赤いフェラーリ348スパイダーが停車していた。
点灯する赤ランプを乗せた黒いマークXが後ろにピッタリ停まっていたから、覆面パトカーにスピード超過で捕まえられたらしいことは一目瞭然だった。
「あららー……クモがネズミ捕りに引っかかっちゃったみたいだね」
アクセルをゆるめることなくチラリと横目で一瞥だけして、薫がつぶやいた。
自分の店のワンボックスカーの車種さえ見分けがつかない万寿夫には、その軽口の意味は通じなかったが、からかうようなイタズラっぽい声音につられて、なんとなく笑ってしまった。
はじめは、初対面の人間……しかも、自分の妻の前夫とのドライブでは、さぞや気疲れするだろうと気が重かったのだが、羽田に着くころには、もう少し空港が遠ければいいのに……と、本気で願っていた。
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