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第40話・修羅場・ラ・バンバ(前編)
その晩、わたしは、研修医仲間である敦司さんを、郊外にヒッソリたたずむ小さな居酒屋に誘った。
つい先日、福岡の実家から家出した幼い息子を、彼の家で一晩あずかってもらったお礼を兼ねて、お互いのハードな研修医生活への慰労と激励を交わしたかったのだ。
「ずいぶん雰囲気のいい居酒屋を知ってるんだな、五代」
敦司さんは、そう言って先にカウンター席に腰をおろしてから、トナリの椅子を引いた。
ノレンをくぐって入るとき、わたしが店先の喫煙スペースのケムリでムセていたのを気にしたんだろう。
少しでも喫煙所から遠ざけるように、カウンターの一番奥の席をわたしに自然とエスコートしてくれたのだ。
それを優しさと呼ぶならば、敦司さんは、とても優しい男性だ。
でも、わたしは、彼の生来の賢さからくる機転のよさにすぎないと感じている。
いずれにしても、臨床医になるには素晴らしく有利な気質にちがいない。
瓶ビールで乾杯してから、黒霧島をボトルで注文し、彼はロック、わたしはソーダで割った。
敦司さんは、
「変わった呑み方するな」
と、ツヤのある低い声で言うと、切れ長の目を面白そうに細めた。
わたしが「福岡で人気のローカル局の旅番組で、出演者が芋焼酎を炭酸で割って呑んでいるのをいつも見ているうちに、影響されたの」と言ったら、
「意外な一面があるんだな」
と、あかるい笑い声をあげた。
おかまいなしに口を開けて笑ってみせても、この人の顔の造形は、端正なままでスキがない。
いったいどういうシカケなんだろう。
わたしのイチオシのダシ巻きタマゴと手羽ギョーザを美味しそうにつまんで、満足そうにグラスを重ねる。
病院では「王子様」と異名をとるノーブルな容姿にくわえて、その一挙手一投足にも毛並みの良さが明らかに分かるのだが、当人にはまるで気取りがない。
それが、かえって「お忍びで庶民の生活をくつろいでいる」という設定付きで「王子様」の異名にリアリティを与えてしまうのだから、たいしたものだ。
白衣を脱いで着替えた彼は、シャレっ気のない洗いざらしの無地のTシャツとジーンズ姿。
それでも、スタイルのいい引きしまった長身は、ナニゲない服もシグサもファッション誌のグラビアみたいに錯覚させることがたやすい。
自分のグラスには手酌で無造作にボトルをつぎたしながら、
「博多のオンナは、底ナシなんだろ?」
なんて軽口を言って、わたしのグラスが空くたびに目ざとく丁寧に新しいソーダ割をつくってくれる。
もしも、わたしがまだ未婚のウブな女のコの当時だったら、病院の他の若い女性職員たちと同じように、この王子様に夢中になっていただろう。
でも、わたしには今すでに最愛の夫がいるし、それ以前にも夫と呼んでいたボンクラのスケコマシがいたのだが、そのボンクラのスケコマシも周囲から「王子様」などと仇名されていたボンクラのスケコマシだったために、「王子様」と呼ばれる男には、すっかり懐疑的になってしまったのである。
そのせいで、敦司さんに対しても、常に少しサメた観察眼を抱いてしまうのだが、当の敦司さんは、それをかえって気に入って、わたしに一目置いてくれているフシがある。
わたしに「底ナシ」だなんて言いながら、自分こそ顔色ひとつ変えないまま、ほんの少しだけいつもより饒舌に、
「博多にいく機会があったら、五代の実家のモツ鍋屋に寄らせてもらうよ」
「あら、モツなんてオクチに合うかしら?」
「オレをなんだと思ってるんだ」
「G大病院の王子様でしょ?」
ナニゲなく言った、わたしのその戯れ言が、もう1人の王子様を招き寄せる言霊となってしまったのだろうか……
店の引き戸がカラリと開いて、
「こんばんは。……カウンターひとつ、空いてるかな?」
アンニュイな春のそよ風を思わせる、ふわりとした声。
聞き覚えのあるその声にギョッとなって、わたしは、店の入り口を振り返った。
「あれ? 偶然だなぁ、小百合さん! ……と、まさか、真司くんのお兄さんも一緒?」
アカぬけたサマーニットに、コナレた麻のパンツ。
くやしいけど……ハッと目を引く綺麗な容姿も、ニクタラしいくらいのセンスのよさも、あいかわらず健在で。
わたしは、心の内でギリギリと歯ギシリをしながら、前夫の名前を呼んだ。
「薫……!」
「嬉しいなぁ。まさか、ここで会えるとは思ってなかった」
「なんでアンタがここにいるのよ!?」
「なんでって……僕の家、ここから歩いてすぐだもの。知ってるくせに。昔は一緒に暮らしてたんだから」
「く……っ」
ウ、ウカツだったわ……。
「今夜は、なんだか寝つけそうになくってね。ここに来てみてよかった」
とか言いながら、薫は、敦司さんの横にさっさと腰をおろしてしまった。
わたしは、アタマに血をのぼらせた。
「ちょっと、薫! カウンターは空いてるんだから、もっとアッチに座りなさいよ! わたしたちの視界に入らない席に」
「いいじゃないかぁ。こんな偶然、めったにあるもんじゃないし」
のほほんと答えながら、わたしたちの黒霧島を勝手に手に取り、
「先日は、僕の息子が、すっかりお世話になっちゃって」
と、敦司さんのグラスに透明な液体をタップリつぎたす。
わたしは、敦司さんの胸の前に顔を突き出して、叫んだ。
「欧介は、わたしの子よ!」
「そんなぁ。ひどいよ、小百合さん……」
おどけたように肩をすくめながらも、カラになった黒霧島を店員の女の子に渡して、ヌケメなく新しい黒霧島と自分用のグラスをオーダーする。
さらなる怒りをブツケようと再びクチを開きかけたわたしより先に、敦司さんが、意外なくらいにソフトな口調で薫に言った。
「こちらこそ、オレの真司が、いつも世話になってます」
「え……?」
"オレの"真司、って聞こえたけど……聞き間違いかしら? それとも、敦司さんの言い間違い?
"オレの弟"って言おうとしてたのよね。きっと、そうよね……
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