その場のノリ、一生の

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 その場のノリというものをご存じだろうか。  勢いと流れに身を任せて生きる意味合いなんだが、具体的な例を挙げるとすれば、飲み会でコールされたから一気飲みを何度もしたり、テスト期間なのに友達の家でゲームをする。その場を楽しく生きればいいという底抜けに馬鹿な考え方のことだ。  特に学生のうちは一時の気の迷いで即断しやすい。高校を卒業して彼女と結婚したがる奴のなんて多いこと。結婚なんざ人生の墓場どころか一生引きずる棺桶みたいなものだろ、足かせにしかならない。  俺はなので高校卒業とともに結婚をしたがっていた彼女に引いてしまい、普通に別れた。その後は都内の大学へ入学し単位が足りないという一番しょうもない理由で1年留年、競争率の高い広告会社(とはいえとても小さいところだが)に100社くらい受けた結果通り、就職。3年経った現在、チラシのデザインを任されたり(既存のものに沿って作るだけ)、予定表作りも任されるまでになった。  俺の勤めている会社は従業員が50人以下で、大企業の広告の代理を外注で受ける規模の小さい会社なのでプレゼンする場はないし、黙って事務処理が多い。人前でスピーチするのが最も苦手な俺は、こういう地味で黙々としていたら終わる仕事の方が性分に合っている。なので俺はそこまでストレスなく仕事をしているのだが、もちろん性分にはまらない奴もいて。  「どうして、取引先を増やそうとしないんですか!我が社は確かに速さでは大手と競っても敵わないでしょう。でも最近ではSNSで一般の人でも活躍できるんです。我が社ももっとネットで大々的にアピールするべきです!現にA社はこのやり方で売り上げも倍増しましたし、大手の企業はいつだって足切りできるんですからちゃんとこの先の市場的動きを考えないと数年先に事実上の乗っ取りを受けて終わりますよ!」 この場の、とはいえ仕事のフロアはここ以外はたまにサボっている奴を見かける長机がちょっと置いてるだけのしょうもない会議室(全然使わないのに無駄に綺麗)くらいしかないが、とにかく最高位の部長に噛みつく女の声が轟く。部長の物柔らかな声を遮り、自分の意思をなんとしても押し通してやろうと仕掛けるこの女は、俺のたった5人しかいなかった同期の一人だ。今現在、広告事業の華やかさを夢見すぎたバカが2か月前に辞めたので4人になった。  俺は隣の同期の純也に目配せした。書類がちょっと邪魔だが俺の眼力は無事届いたみたいでよくやるよなというように首をすくめた。  「また女王様がわがままいってるよ」  俺がアリスのハートの女王を思い浮かべながらそう言った。  「まだ女王って年じゃないんじゃない?姫って感じでもないけど」  さりげなく毒を吐き、涼し気な細い目をもっと細くし、純也は目だけで笑う。その間も折り込みチラシの文字入れはやめない。隠れてスタバのコーヒーをストローで飲みつつ、イベント関係の売り上げをエクセルで割り出している俺とは大違いで非常にまじめだ。しかしそんなのより不真面目な奴がいる。それが今部長にくそ抗議をしている同期の坂崎静香さんだ。彼女は自分の力を過大評価している節がある。そのためどこか見下してくる雰囲気で俺たちと接してくるし、仕事を中断して大きな仕事を取って来いという無茶ぶりを現在進行形で行っている。じゃあ大企業に転職すればいいのに「私はこの会社に大きくなってほしいの」とほざいて逃げる。こんな俺でも入れた会社なんだからやる気なんて欠片もないだろうに、大企業に受かる気がしないだけだろう。  俺、というよりもこの会社で坂崎さんのことを好いてる人なんて非番の掃除のおっちゃんくらいだろうけど、俺は彼女が苦手だった。なぜって?新入社員歓迎会で彼女はあろうことか俺にイッキを強要したのだ。もう一人の女性で同期である石田さんが愛想が良くて八方美人(いい意味で)なのを利用し、彼女と一緒に俺を囃し立てたのだ。石田さんはその後謝ってくれたので別にいいが、坂崎…さんはそんなことあった?とくそ腹正しいきょとん顔でとぼけやがったので俺はもうその瞬間から苦手な人の分野に彼女を投げ込んだ。彼是3年経つがその確執は一歩的でそしてずっと解けていない。たまに同期でお昼を取るがその時も坂崎さんの対角線上に座ることを心掛けているし、彼女が毎日作ってきている弁当をすごいとも思わない。石田さんが作っていたら偉いと思う。  そうして悪意を持って人に接してはいけないと俺のよく行くセミナーの教師は言うが、やはり無理なものはある。  坂崎さんはどうやら自身で制作し家でコピーしてきたらしい資料を片手に10分ほど戦闘したが遂に敗訴し、立つ瀬もない部長になんとも見事な、ファッションショー並みのUターンを見せつけ、自身の席へ渋々腰掛けた。  部長はもう後には引けない自身の頭頂部を撫で、白熱したせいか冷房の温度を下げたがった。俺らに暑くない?と尋ね、賛同がそこまで得られなかったので仕方なく坂崎さんの資料をうちわ代りにして仰いだ。  「坂崎さん、転職すればいいんじゃないかな」  俺はコンビニののり弁をすくった状態で固まった。休憩室で同期で和やかに昼を取っていたのに突然爆弾を投入するな、と目の前の瑞貴に苦笑いした。瑞貴は180cmという高身長に加え、顔が今流行りの人気俳優に似ている、つまりかなりのイケメンということになる。それに加えて物腰も柔らかく、おばちゃん連中はキャーキャーだ。俺たち同期で女子は2人だけで、石田さんはわからないが坂崎さんはなんか俺らよりも瑞貴と話したがるし、多分好きなんだろう。坂崎さんは急に名前を挙げられ頬を赤らめ、自作だろうタコさんウインナーを箸から落とした。  「転職ってどういうことです?私はここで頑張りたいんです」  坂崎さんは年が下でも同じでも敬語を使う。石田さんがくだけてほしいと言っていたが、頑なにしない。ちなみに俺にだけ石田さんは敬語を使う。  「今日も部長になあなあにされていたから、ならいっそもっと意見を聞いてくれる会社に入ればいいんじゃないかな。多分、ここはずっとこのままだよ、向上心はないけど、安定があるってだけだから」  瑞貴は達観した物言いをするが、俺もそうだと思う。小さくて半ば下請け会社に近い扱いで、従業員もそんなに多くなくてもそこそこの利益を出せているんだから上の人たちは冒険なんてしたくないんだろう。部長であそこまでやる気ないなら社長にまで話が行くわけない。俺が心の中で何度も頷いていると、坂崎さんはオレンジリップを塗っている唇をへの字に曲げた。  「でも…ここの技術はきっと大きなことができると思うんです。確かに印刷代も嵩むし、外注先から批判が来るかもしれないですけど…数は受けれませんけど個人とのやりとりでしたら、大手よりも私たちみたいな少し小さめの会社の方が親身になって対応できると思うんです。もちろん管理することも増えて大変になると思うんですがでもそうすればうちも強みができて大手とも張り合えるようになるじゃないですか」  だから大きなことをしたくないんだって。俺はのり弁の2枚重ねの一枚を口に含み坂崎さんに訪ねる。  「坂崎さん律儀だよな、なんというか世話になってるからってだけで辞めないんだろ?わかんないけど独立してデザイナーになればいいんじゃね?」 俺の意見に、坂崎さんは一瞥をくれるだけだった。なんで?俺なんかした?石田さんは返事をしない坂崎さんに代わり答えてくれた。いや、自分で話せよ、なんだよこの女は。  「陸さん(俺の名前)の言うことは確かにそうなんですけど、静香ちゃんはこの会社が好きで、いや会社というより一人…」  静香さんが石崎さんに咳ばらいをしつつ別の話題で遮った。  「そういえばそろそろボーナスが出ますけど、皆さんは何か買う予定なんてあるんですか?私は圧力鍋を買おうと検討しております」  急に鍋の話題を出されても、と思いつつ石田さんは口を滑らせてしまったことに気づき自身から発表した。高級メロン!  全員が喧々諤々とボーナスに何を買うか、また何故それを買おうと思い立ったのか論争を続け、これが意外と白熱し俺たち全員時間ギリギリに着席する羽目になった。誰が悪いってそれはこんな盛り上がってしまう話題に挿げ替えた坂崎さんだろう。俺はきっと澄ましてタイピングしているだろう顔を思い浮かべ腹を立てた。それにガン無視を決め込まれたのだ、これで苦手いや寧ろ嫌いにならない人間が存在するだろうか。そんな聖人様がいるんだったら俺はその面を拝んでやりたい。腹正しさを会社の備品であるキーボードにぶつけ発散していると純也が話しかけてきた。画面を一点に見つめブラインドタッチを続けて純也はさっきの昼休憩の話題を掘り返す。  「お前スキューバダイビングってなんなんだよ、沖縄旅行に行きたいでいいじゃんか」  ニヤニヤと面白がって言うので俺は少し八つ当たり的に「いやでも純也の育毛剤ってなんだよ、反応に困るだろ」と僕が言うとあれは冗談だと読めない顔で言うので俺は少し呆れてしまった。そんな意味のない冗談があってたまるか。しばらく延長で他の人の仕事の邪魔にならない程度(空調がまあまあうるさいので多少は大丈夫)の音量で喋りふと純也がこんなことを言った。  「坂崎さん、好きな人いるんだな」  「え」  思わず手が止まってしまった。ただでさえ仕事が早い方ではないのに。  俺の動揺に気づいた純也は何故かまた目を細め、俺に顔を向けタイピングの手を止めずにチャシャ猫みたいに細めた目を三日月にした。「石田さんのあの口ぶりは、明らかに気になる人がいるから会社にいるってニュアンスだろ。あのわがまま女王様のハートをわし掴んだナイト様の顔を、俺たちは毎日拝んでいたんだな」  純也の顔に俺はちょっと笑ってしまったが、うまいこと返せなかった。坂崎さんが誰を好きだろうと(多分瑞貴だが)どうだっていいんだが、そうなんだとしか言えなかった。断じて好きとかではない、本当に彼女のことは苦手なんだ、あの後も話そうとしてこなかったし。じゃあなんで動揺したのかと問われると、わからないとしか言えない。  空調の音が両耳を覆い俺は手を動かした。仕事に集中していれば妙なことに気を取られないで済むからだ。純也の顔は見ていないが、まだニタニタ笑いを浮かべているのだろうか。    日本の国柄である残業を終え、目を擦り栄養ドリンクを煽った俺は急に催し、トイレに行くために立ち上がった。純也はもう定時に近い時刻で帰っており、今頃は彼女と仲良くデート中だろう。あぁ、俺も彼女が居ればと、疲れ目の状態で俺は薄暗い廊下を歩く。目がシバシバしていたからか、間違えて会議室のドアを開けて中に居た人を驚かせてしまった。「うわ」と目の前で坂崎さんが半ステップで扉から後ずさった。薄暗い廊下とは違い会議室は蛍光灯で真っ白になっていたので俺も目を閉じ扉から離れた。  「坂崎さん?な、なにしてんの?」  坂崎さんは手に何か白い…布巾か?を持ちテーブルに寄りかかっている。またサボりかと一瞬思ったが、そういえば彼女は自分の仕事はキチンと終わらせえていた。本来ならもうタイムカードを切っていてもおかしくない。  「あ、いや…別に」  エリカ嬢みたいなことを言い布巾をさっと坂崎さんは隠した。俺は彼女の露骨な態度にうんざりしそうになったが、持ちこたえて本当に何をしていたのか知りたいとちょっとしつこく聞いた。すると、別にはぐらかし続けても面白くないと思ったのか坂崎さんは割と素直に答えた。恥じらって答えるその姿は、不覚にも可愛いと思ってしまった。  「そうじです」  「そうじ?ここの?会議室の?え?清掃員の人がやってるんじゃないの?」  「私もそう思っていましたが、経費削減のために使わない部屋の掃除は出来ないんだとぼやいていたんですよ担当者が。ですのでまぁその…」  「自分がやっていたというの?」  ショートカットの髪が揺れ、顔を俯かせる。驚いた。使用していないとはいえ、会議室の掃除ができないくらいうちはカツカツだったのか。そしてそのことを知っていたのは坂崎さんぐらいだったのか。  人のことを一つ嫌いになると芋づる式に脳が決めつけ嫌いになるように誘導するらしい。俺もまんまとそれにはまっていたのかわからないが、彼女の為すことにいちゃもんを付けていたような気になってきた。遥かに小柄で努力家で、会社のことを誰よりも考えていた彼女のことが急に可愛く見えて仕方なかった。  俺はそんな彼女に聞きたいことが浮かび上がってきた。歓迎会の時に、何故一気飲みをしろと囃し立てたのかである。あの時二桁いってたかもしれないレベルで飲んだので何も覚えていないがおぼろげな記憶の中で彼女ががんばれと囃し立てていたのだ。俺がそれとなく聞くと彼女はバッと顔を上げ、断言した。  「イッキ強要なんてしてません」  少し上ずったがちゃんと俺に話しかけてきた彼女に、俺は坂崎さんの切り揃えられた前髪や鼻先を見るのをやめ彼女の瞳とちゃんと向き合った。茶色がかった瞳は意外と大きく、ドキリとした。  「あの時一気飲みの最中に全て飲み切ったら結婚してくれと、言ったから、応援しただけです」  耳どころか顔中赤くして坂崎さんは堂々と俺に爆弾を投げつけた。その場のノリ、頭に浮かびあがった。それと同時に心拍数が高まる。  「酔いの場の、つまらない冗談だとはわかっていました。なんの意味もないことだってわかっていました。でも…でも私は胸が躍りました。すごく、う、うれしかった。だから…だから私ここで働くのがとても楽しいんです」  「それってつまり、お、お、俺のこと、すすすすす、すすす…す、」  「好きです」「好きって……え!?」  顔に熱が集中していくのがわかる、今現在進行形でとんでもない事態になっているのもわかる。ひとつわかったのは彼女はなんにも悪くなかったのだ、勝手に彼女を悪者扱いして、ひどい男だ、それなのに俺を好き?嘘だろ?  「すみません、それでも応援はするべきじゃなかったですよね」  「い、いやまぁ悪いのは俺だし…。え、あのさ、そういえばその一気飲みって結局どうなったの?」  あくまで冷静を装う彼女に、俺も務めて冷静なままで尋ねる。顔を赤らめたまま彼女は部長にしてやった時みたいに、強気の声で言った。  「全部、飲み切りましたよ」  では、ここで改めてその場のノリとは何か確認しよう。それは時に人生の決断を大きく変えるきっかけにもなるし破滅にもなる、一種の気まぐれだ。でも、そこに人生が詰まっているのかもしれない。  慎重に生きようが、自分らしく生きるにはやはり素早く決断する方がいい。何故なら、ウダウダ悩んでいても何も変わらないし、その一歩を踏み出せばー  就活でコーナーにやってくるかもしれない大学生に話す内容をベッドで寝転んで考える。ここから先が思い浮かばない。気分転換も兼ねて、俺は元坂崎さんに随分と勘違いをしていて申し訳ないが、なぜあんなに露骨に俺を避けていたのか伺った。そのせいで俺の嫌悪感は増して勘違いのループに陥っていたとも言えるのだ。隣で寝ていた元坂崎さんは口をモゴモゴさせて呟いた。  「だって…変なこと口走ったら怖いから」  確かにそうだ…そうか?と俺は彼女の薬指で光る指輪ごと握りしめた。その一歩を踏み出せば人生はもっと実りあるものになるだろう。セミナーの講師の言葉を少しパクったが、俺はそう思う。実際にそうなのだから間違いないしな。  
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