海辺の街・リゴン

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 昼食の時刻も過ぎ、人々が一息入れようとする昼下がり。  街の中央にある時計塔の鐘が鳴った。互い違い音階で鳴るそれは、賑やかな人の声にも負けず街に響きわたる。飲食店などは夜のかき入れ時のために仕込みを始める頃合いだ。  小さな弟子を抱えた魔術師は、とある大衆食堂の前にいた。  茜色の屋根が清潔感のある白い壁が映える。屋根と揃いの色のドアは、植物の蔦を思わせる、趣味の良い装飾に彩られていた。ぶら下がった食事処を表す看板は古びており、この店が長く客に愛されてきた歴史を感じさせた。大きな窓から店内を覗くと、使いこまれた風情の飴色のイスとテーブルが行儀よくいくつも並んでいるのが見えた。  中は薄暗く、がらんとしており、一人の若い娘がひとつひとつ丁寧にテーブルを拭いていた。 「師匠、もうお腹空いたんですか?」 「飯食いに来たわけじゃねえよ」  師は心配そうな顔をする弟子の背をとんと叩く。  そのまま準備中の看板がぶら下がっているのにも構わず食堂のドアを開いた。カランコロンと可愛らしい音を鳴らしたドアベルに反応して娘が振り返った。 「いらっしゃいま、せ……」  入ってきた男を見るなり、娘は言葉を詰まらせる。  営業時間外であることを無視して店内に入ってきただけでも不審なのに、その男はフードで顔を隠し、やたらと上背があり、その腕には綺麗な顔立ちの子供を抱いている。極めつけに、その子供はまるで怯えているかのように表情を凍らせていた。  娘が怪しさを感じるには十分である。  しかし、生来、勝気な質なのだろう。娘は怯むことなく、厳しいまなざしを師に向けた。 「すみません、まだ準備中なんです。表に看板かかってませんでした?」  刺すような視線を感じながら、師は腕に抱いたティニをおろす。不穏な空気を感じとったティニが、身を隠すように師の腰元に引っ付いた。 「知り合いを訪ねて来たんだが」  言いながら、ばさりとフードを脱ぐ。  その下から現れた珍しい色の髪に驚いて、娘は一瞬だけ目を見開いた。しかし、またすぐに警戒するように眉をひそめる。髪と同時に現れた顔は、男らしく整ってはいるが、目つきがどう見ても悪事に慣れた悪党だったからだ。  それを察した師は「別に悪さをしに来たつもりはないんだが」と内心で悲しく独り言つ。しかしそれを口に出すことは決してしない。さらに怪しまれるだけだからだ。  師はひっそり肩を落としつつ娘の顔を伺い見る。すぐに何かに気が付いて、眉間に寄った皺をわずかに薄くした。 「……あんた、マーサの若いときによく似てるな。目の色は違うが」 「マーサは祖母ですが。何の御用ですか」  低い声で「なるほど、どうりで」と呟いた男に、娘は人馴れしていない猫のように、顎を引いて身を固くした。  娘からしてみれば、目の前の男は二十代も半ばで、どう見ても祖母の若い頃を知っているような歳には見えなかった。 「マーサはいるか。トレバーでもメアリでも構わん。ユーダレウスが来たと言えばわかる」 「……わかりました。ここで少々お待ちください」  険しい顔をしたまま、娘は早足で逃げるように店の裏口から出て行く。  不審者が来た時にまず身内に声をかけるような娘であればいい。最悪の場合、まっすぐ警察を呼ばれるだろう。  もし警察を呼ばれたら、どう切り抜けるかと思案しながら、師は手近な椅子を引いて勝手に腰かける。すかさず、ティニが師の外套の袖を引いた。 「師匠、ユーダレウスって何ですか?」 「俺の名だ。実際はもっと長ぇけどな」  アラキノ・ユーダレウス・コバルディア  長ったらしい名前を口にすれば、ティニは小さな口をぽかんと開けた。大きく見開かれた瞼からは、ガラス玉のように青い瞳がこぼれそうになっている。 「……師匠、名前あったんですか」 「当たり前だろうが、馬鹿弟子」  あまりにも間の抜けた物言いに呆れ、師は渋面を作る。普段は変化に乏しい顔に手を伸ばし、小さな鼻を指先で柔くつまんで放すと、ティニは拗ねたように頬を膨らませた。 「だって、教えてくれませんでした……」 「お前だって聞かなかっただろう」  子供じみた屁理屈をこねれば、白い頬がさらに膨らんだ。思わずそれを片手でつかむと、ぷしゅぅ、と空気が抜ける。人形のように無表情なまま頬を潰され唇を尖らせているティニの顔が滑稽に見えて、師、改めユーダレウスは喉の奥でくつくつと笑い声を上げた。  あまり良い意味で笑っているわけではないことがわかったのだろう、ティニは不機嫌そうに眉間に薄い皺を刻んで師を見つめた。  意地の悪い笑みの余韻を顔に浮かべたユーダレウスは、弟子の頬から手を放す。そのまま幼い眉間に寄った皺を人差し指の関節でさすって伸ばした。  皺がなくなると同時に機嫌が直ったのか、猫のように目を瞑っていたティニは師の腕を両手で掴む。 「師匠。師匠の名前、もう一回教えてください」 「あー、はいはいわかった。後でな」  せがむように腕を引っ張り、ゆさゆさと揺らす弟子の腕をおざなりに取り払う。残念そうに眉を下げたティニの頭にぽんと手を乗せ、一度だけ乱暴にかき混ぜると、ユーダレウスはにわかに賑やかな声が聞こえ始めた裏口の方に顔を向けた。 「――だって『ユーダレウス』って言ったんでしょ? その人は」 「いやそうだけど……でもね、お母さん、絶対あの人怪しい! 怯えた顔の子供連れてるのよ?! 可哀想に、きっと攫われて――」  相当な声量でやり取りをしているのだろう。母子の会話は店の中まで丸聞こえだ。「そんなに心配しなくたって、大丈夫よぉ」と言うのほほんとした声に、ユーダレウスが「メアリは相変わらずだな」と苦く笑った。警戒されすぎるのも問題だが、彼女には昔から警戒心というものがなさ過ぎる。  言い争っているような声に反応したティニが、急いで自分の後ろに回る。それをユーダレウスが視界の端に捉えると同時に、厨房の向こうにある裏口のドアが開いた。 「ああもう! なんで開けるのよ! 私、知らないからね!」 「はいはい。そうだミア、向こうに行くならついでにお父さんにも声かけて頂戴」  ミアと呼ばれた若い娘は、自分の言い分をまともに受け取っていないらしい母親の態度に歯噛みすると「お父さん、お父さぁん!」と叫ぶように父を呼びに行った。  店内に入ってきたのは四十をいくらか過ぎた年頃の女だった。  髪をきっちり結い上げ、清潔感のあるシャツとスカートに淡いブルーのエプロンをかけている。不機嫌そうな顔で腰かけている銀髪の魔術師の姿を見つけると、彼女はぱっと少女のような笑みを浮かべた。 「まあまあ! 本当にユーダレウスだわ! 覚えてるかしら、メアリよ。いったいいつぶり? 最後は確か、私が二十になるかならないかの頃だから……」  メアリはしばらく虚空を見つめ、過ぎ去った年月を数えていたが、すぐに面倒になったのか、考えるのをやめ、何事もなかったかのように、にっこりと微笑んだ。 「ま、いいか。本当にちーっとも変わらないのねえ。お母さんが言ってた通り」 「……相変わらずだな、メアリ」  あまりのマイペースさに、ユーダレウスは肩の力が抜けるのを感じた。この手の、独特なペースで生きる人間は、気にする方が無駄に苦労をする。 「さっきはミア……ああ、娘なんだけど、ごめんなさいね、あの子失礼なこと言わなかった?」 「いや、何も。怪しまれんのはいつも通りだしな」  ユーダレウスが自嘲気味にひょいと肩をすくめる。メアリは申し訳なさそうに曖昧に笑ったが、ユーダレウスの後ろに引っ付いている少年に気が付くと、興味を惹かれたように身体を傾けて覗き込んだ。 「その坊やは――」  その時、バン、と乱暴にドアが開く音がした。
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