海辺の街・リゴン

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 ドアが開く音に続いて、どたどたとした足音が入ってくる。後ろに控えるティニがますます怯えたように師のフードをきゅっと掴み、ユーダレウスの首元が少し窮屈になった。  店内に現れたのは三人。中年の男とそれより年嵩の女、そしてその二人の後から不満そうな顔のミアが渋々ついてきた。 「……おかえり、ユーダレウス」  女の方がそう言って、挑戦的に、にやりと微笑んだ。低く結いまとめている栗色の髪には白髪が混じるが、生き生きと輝く瞳は彼女を実年齢よりも若く見せていた。 「ただいまとは言わねえぞ、マーサ。旅の途中でちょっと寄っただけだ」 「相変わらずの根無し草ってわけね、あんたは」  ユーダレウスが当たり前のように頷くと、マーサは仕方なさそうにやれやれと首を振った。  その後ろで、目を三角にしたメアリが男に詰め寄っている。 「ちょっと、トレバー。乱暴にしないでって言ってるでしょう。ドアが壊れちゃうじゃないの。こないだは窓を修理したばっかりなのに」 「悪い、メアリ。ついだよ、つい、急いでたからよ!」  言い訳をする男の声に、腰に手を当てたマーサが後ろを振り返った。 「いいんだよ、メアリ。今度壊れたら修理費はそこの馬鹿息子の酒代から出すからね」 「う……悪かったって母ちゃん……」  妻と母親に同時に責められ、トレバーと呼ばれた男は、悪戯がばれた少年のように小さくなった。  日に焼けた肌に、短く刈り込んだ髪。がっしりとした体格は船乗りにも見えるが、身に着けた白いシャツとエプロンが彼がこの店の料理人であることを示していた。 「久しぶりだな、トレバー」 「ユーダレウスぅ!」  ユーダレウスの声に、助かったとばかりにトレバーは目を輝かせた。 「かー、懐かしいなあ!」  二人から逃げるようにのしのしと近寄ってきた男は、がしっとユーダレウスの肩を掴む。そのまま、気難しい表情のユーダレウスの顔を一通り眺めると、もともと柔和な目元をさらに緩ませて大きな声でがははと笑った。  背後の弟子が声に驚いてびくりと反応した。ユーダレウスがじろりと目の前の男を睨むと、トレバーは母親に似た表情でにやりと笑った。 「おうおう、ユーダレウス、その悪人面も相変わらずだな!」 「うるせーな。昔みてーに魚にすんぞ、トレバー」  意味深に指を揺らして「それとも、今度はイカでどうだ?」と言って挑発すると、トレバーは弱ったように苦々しく笑った。  後ろのティニが小さな震え声で「イカ……?」と呟いた。どうやらさっきのイカの化け物の話を思い出してしまったらしく、ユーダレウスは、しまったと人知れず冷や汗をかく。  厨房でやかんに水を汲んでいたマーサが声を張った。 「そりゃあいい! 今晩出すメニューにイカ料理でも追加しようかね! マリネか、それともニンニク入れてソテーにしようか」 「勘弁してくれよ、母ちゃん!」 「それが嫌ならさっさと晩の仕込み始めな!」 「げ、いっけね、もうそんな時間か!」  トレバーは「また後でな」とユーダレウスの肩を叩き、駆け足で厨房に入った。  イカは現れないとわかったのか、ティニがフードを握る力を少し緩めた。同時にユーダレウスもほっと息をつく。 「悪いねぇ、騒々しくて」 「いや、懐かしくていい」  入れ替わりで戻ってきたマーサがからりと笑う。  記憶と変わらぬ賑やかさに、ユーダレウスは力の抜けた表情を浮かべた。同時に、記憶の中と比べて一人足りないことにも思い当たる。 「マーサ。ロブはどうした」  一番離れた壁際のテーブルを整えるふりをして、こちらを注意深く観察していたミアが、ユーダレウスの言葉にぴくりと反応した。  それを視界の端に捉えたユーダレウスがそちらに視線をやると、ミアはわざとらしく顔を逸らし、父の後を追うように厨房へと消えた。  ロブはマーサの夫である。ユーダレウスが知る限り、人が良すぎて苦労する質の男だった。トレバーの姿はまさしく生き写しだとしみじみ思いながら、マーサに向き直ると、彼女は古傷の痛みを堪えるような顔で静かに微笑んでいた。 「まさか……」 「ああ。一昨年の秋に。病気で」  黙って眉間の皺を増やしたユーダレウスに、マーサがなんでもないことのように首を振った。 「暇があるなら墓参りにでも行ってやっとくれ。あの人もあんたに会いたいだろうから」  さらりと言ってのけたマーサだが、その目には哀しみの色が浮かんでいたのをユーダレウスは見逃さなかった。  長い瞬きの合間に哀しみを奥に仕舞ったマーサは、陽だまりのような明るい表情を浮かべた。 「それで? そっちの坊やはどうしたんだい。あんたの子ってわけじゃないだろう。これっぽっちも似てないもの」  マーサが言うや否や、厨房にいた三人も気になっていたのか、わざわざ手を止めてティニを見つめる。  その場の全員に見つめられ、急に話の中心に置かれたティニが戸惑ったように「ししょう」と呟く。いつものように両手を伸ばすのを我慢している代わりに、さっきから掴みっぱなしの師のフードを引く手にあからさまに力がこもった。 「……どこで攫ってきたの、ユーダレウス?」  口元を手のひらで隠し、ひそひそと悪戯っぽく言うマーサに、襟元に指を差し込んだユーダレウスは眉間の皺を濃くした。 「馬鹿、人聞きの悪いことを言うな。弟子だ、弟子」  ユーダレウスは頭の後ろに手を回し、弟子の手からフードを取り上げた。そのままティニの手を引き、自分の前に立たせる。 「ティニ。挨拶」 「え? は、初めまして、師匠の弟子のティニエトです。ティニと呼んでください」  戸惑いながらもしっかりと自己紹介をして、仕上げに手を前に揃えてぺこりと行儀よく頭を下げたティニに、マーサの顔がほころんだ。  これでいいのかと不安そうに振り返る弟子に、ユーダレウスは満足そうに鼻を鳴らした。 「あらまあ、可愛らしい子じゃないかユーダレウス! あたしはマーサ。この店の主人さ。よろしくね、ティニ」  ティニを手招き、その肩を優しい手つきで抱いたマーサは、厨房に向けて指をさす。 「あっちのおじさんがトレバー。一応うちの料理長だ」 「よろしくな、坊主!」  トレバーが大ぶりのナイフをひょいと持ち上げにかっと笑った。直後、マーサに「刃物を振り回すんじゃないよ!」と厳しく叱られ、しゅんと肩をすぼめる。 「全く……あのおじさんの隣の美人さんが、メアリ。おじさんの奥さんだ」 「もう、お母さんたら! よろしくねぇティニちゃん」  メアリがティニに向けてひらひらと手を振る。義母の誉め言葉に照れているのかその頬は少し赤い。  最後にマーサは厨房の最奥で野菜の皮むきをするミアを指さした。 「そして、あのお姉ちゃんがミアだ。おばちゃんの孫」 「……よろしく」  興味がないと言いたげな顔で、少しだけティニを見たミアはすぐに視線を手元に戻した。 「えっと、みなさん、よろしくお願いします」  ティニが全員に向けてもう一度お辞儀をすると、柱時計が定刻の時報を鳴らした。 「来たばかりで疲れてるだろう、ユーダレウス。今お茶でも淹れるからゆっくりしてな」 「悪いな」 「ティニは何がいい? 好きなの言ってごらん」  マーサの問いかけに、ティニは後ろのユーダレウスを振り返る。師が頷くのを確認すると、もじもじとしながら口を開いた。 「えっと、ホットミルクが好きです」 「はいよ。トレバー……は手一杯みたいだね。メアリ、頼めるかい?」 「ええ、もちろん。そうだ、蜂蜜あるのよ。入れてもいいかしら?」  メアリの問いかけに、ティニはぱっと顔を上げた。ガラス玉のようなブルーの瞳は、心なしかきらきらと期待に輝いている。 「ありがとうございます……!」  それは、ほんのわずかな変化だった。  ティ二の、人形のように変化のない表情が、ふわりと解けた。  たったそれだけ。しかし、その控えめな笑顔によって、この場の母性が根こそぎ仕留められた音がした。 「あらまあ! 甘いホットミルクが好きなんだねぇ、ティニは」  緩みきった顔をして撫でてくるマーサの手をくすぐったそうに受けながら、ティニはこくりと頷いた。ミアは先ほどよりも向こうを向いていた。皮むきの手を止め、口元を抑えて何かを堪えるように震えている。  マーサに撫でられるティニをにこにこと変わらぬ微笑みで見ながら、メアリが足早に裏口へと向かう。 「ちょっと蜂蜜と牛乳、買いに行って来ます」 「おいおいメアリぃ。どっちも間に合うくらいあるぞ?」 「止めないでトレバー、私、きっと一番良い品を買ってくるわ。あの子の笑顔が見たいの」  いつも通りと見せかけて、完全に魅了されてしまっている妻を、トレバーが慌てて止めに入る。  ティニがあまり笑わない子供なせいか、それとも特別な何かがあるのか。弟子の笑顔の効果がもたらしたものを、ユーダレウスは面白半分に観察していた。  ちなみに、あの微笑がティニの全力の満面の笑みであることを知っているのは、ユーダレウス一人であった。
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