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弟子と大事なもの
春の日なたはぽかぽかと温かい。
目の前を通り過ぎる小さな蜜蜂を見送った少年は、黄色い花を一輪摘むと、反対の手に持った花の束に足した。白い蝶々が少年の曇天色の髪に一度止まったが、すぐに羽の音も立てずにひらひらとどこかへ飛んで行った。
少年は立ちあがり、天を仰ぐ。
見渡す限り真っ青な空に、小さな雲が二つ。まるで仲間に置いて行かれたように、ぽつんぽつんと寂しく流れていた。深く呼吸をすれば、若草の青い香りが鼻腔を満たす。
***
高熱で床に伏せっていた少年が、師に外に出るのを許されたのは五日程前のことだった。
「洗濯してくるから――」
「手伝います、ししょう」
少年に「師匠」と呼ばれた男は途端に渋い顔をした。後ろでひとつに束ねられた月の色の髪が、陽光にきらきらと光る。その片腕には大きなたらいに入れた洗濯物を抱えている。
駆け寄ってきた少年を見る顔は「熱がぶり返したら面倒だから留守番をしていろ」と言わんばかりだが、少年が男のその顔をがじっと見つめると、諦めたようなため息をついた。
「……上着、持ってこい」
その言葉が許可だった。少年は駆け足で上着を取りに戻る。
この小屋での留守番は嫌いだった。しんとした森の中、寂しい小屋の中に独りきり。まるで世界から取り残されたようで恐ろしかった。
師の後について外に出た少年は、久方ぶりに直接浴びる日光に目を細める。
――どこなんだろう、ここ。
小屋の中も外も、少年には見覚えがなかった。いつここに来たのかまるで覚えがなかった。
ただ、少年がそれを不安に思うことはない。熱を出して寝込んでいるときのことだから、きっと忘れてしまったのだろうと、そう勝手に納得していた。今までも馬車の中で眠って、起きたら知らない土地にいたなんてことはしょっちゅうだったので、少年にとっては別段驚くようなことでもなかったからだ。
ふと気付けば、随分と先を歩いていた師を少年は慌てて追いかける。木こり小屋の周りには井戸がない。水汲みや洗濯をするには川のあるところまで歩かないといけないのだ。
その道すがら、小屋の裏手に二つの土の山があるのが目についた。掘り返して何か埋めたばかりのようなしっとりとした土の山だった。
存外すぐ近くにあった川のへりで、少年は小屋の裏のあれは何かと師に尋ねた。すると、シャツの腕をまくっていた師は、短く「墓だ」と答えた。
「墓」とは何かと尋ねると、どこからともなく出した手桶でたらいに水を張っていた師は「死んだ人間が身体を休める場所だ」と答えた。
ではあれは誰の墓かと聞くと、石鹸を小刀で細かく削ってたらいに落としていた師は、少し考えてからぶっきら棒に「知らん」と答えた。
師匠が知らない人ならば、自分にも関係はないのだろうと思って、弟子はそれ以上質問はせずに洗濯の手伝いを始めた。
師は、これ以上墓についての話をしなかった。
けれど、少年にとっては墓の中身が誰なのかについて、とうに興味を失っていた。それよりも師に洗濯の腕前を褒められることの方が何倍も重要だったからだ。
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