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人攫いが藪の向こうに姿を消すと、大狼は瞬く間に背の高い男へと姿を変えた。
「あー……肩凝る」
眉間に皺を寄せた不機嫌な顔で、凝り固まった身体をぐっと伸ばし、コキコキと音を鳴らしながら首を左右に傾ける。月のような銀の長髪が頭の動きに合わせて揺れ、その傷んだ毛先が木漏れ日にきらめいた。
大狼の話など、もうほとんどおとぎ話に近い伝承だったが、まだ知っている者がいたとは思わなかった。もっとも、もう会うことはないと男は安堵のため息をつく。
人の言う「大狼」というものの正体は、魔術師である。自らに術をかけ、大きな狼の姿となるのだ。
では何故そのようなことをするのか。理由は単純明快。ただの脅しだ。中にはその牙で人の喉笛に噛みつくことに楽しみを見出していた、狂気の魔術師もいたそうだが。
この大狼の真実を知る者はあまりいない。
「……師匠、なんで嘘をついたんですか?」
弟子である少年が、男の丈の長い外套を掴んで引く。感情の見えにくい瞳が、今は咎めるような色で師を見上げていた。
「熱さましの薬草があったのは、師匠があの人に教えた場所とは反対です」
どうやら教えたことは身についているらしい。不機嫌な顔のまま、師は満足そうに目を細めた。
「あいつは嘘をついていたからだ」
弟子は首を傾げ、小さく「嘘つき……?」と呟いた。
どうやら急に現れた男のことを微塵も疑っていなかったらしい。人を信じられるのは美徳だが、旅をする上では少々邪魔であることをどう教えればいいのか。師は重苦しいため息をついた。
「あれは人攫いだ。お前みたいなガキを攫って、売る悪党だ。いいか、ティニ。お前は目をつけられていた。気付かなかったか?」
問いながら、弟子の頭に優しく手のひらを乗せる。ほんのわずかにきょとんとした顔になった弟子が、師の手のひらの下で首を横に振った。
「全然……いだだだっ!」
弟子の口から問いの答えを聞くやいなや、師は手のひらの下の形の良い頭に指を立て、ぎりぎりと力を込めた。
「散々気ぃつけろっつったろうが! この馬鹿弟子!」
「ごめんなさいっ」
反省しているらしい弟子の声に、師は指の力を抜いた。これで当分「おつかいにいきたいです」なんて言い出したりはしないだろう。痛みを和らげてやるように頭を撫でると、しょんぼりとしていた弟子は心地よさそうに目を細めた。
終わりの合図にぽんと頭を叩くと、目を開いた弟子は男が去った獣道の向こうに視線を向けた。
「師匠、あっちには何があるんですか?」
「あ? 人食いの樹だ」
弟子の動きが固まった。あまり動きのないその顔が、心なしか青くなっていく。
遠くから、男の叫び声が聞こえた気がした。
「……来年は満開だろうな」
ぽつりと呟いた低い声に反応して、弟子が不安げな顔で師を見上げる。その顔は、例の男への同情というよりも、単純に恐ろしい植物への恐怖といったところだろう。
「……来年、見に来ますか?」
「なんだ、見たいのか」
問われた弟子は、首を大きく横に振った。
「あんまり」
だろうな。師はそう内心で独り言つ。
たとえ弟子が見たいと答えても、花見に来る気はなかった。
人食いの樹は、まるで天上の植物のように清楚で優美な花をつける。だがそれは、数いる生物の中から人間を選んで養分にしたときにだけ咲く。悪趣味すぎて、どう考えても子供に見せるような代物ではない。
ただし、可愛い弟子を狙った悪党の始末に使うには丁度いい。
「……師匠」
「あ?」
不意に呼ばれて見下ろすと、弟子が両腕を伸ばしているのが見えた。
――不安になるとすぐこれだ。
ため息をついた師は、弟子を抱き上げる代わりに、彼のお遣いの成果を抱え上げる。弟子が静かにがっかりした顔になった。
それを見てさらにため息を零すと、空いた方の手で弟子の小さな手を掴む。
「甘えるな。馬鹿弟子」
突き放すような言葉とは裏腹に、ひどく優しく穏やかな声だった。
木漏れ日が茜色に染まる中、手を繋いだ師弟は今晩の宿へと歩き出した。
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