弓張月の下で

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弓張月の下で

 夜更けの森は、静かなようでいて案外そうではない。夜に息づくもの達の生命の音がするのだ。  月の色の髪をした男は、赤々と燃える焚火から目を逸らし、天を仰ぐ。  綺麗に半分に割ったような月が、裂いた綿のような雲の隙間から見え隠れしていた。ふーっと長く息をつき、そのまま目を閉じる。  虫の声。風が草木を揺らす音。焚火にくべた薪が爆ぜる音。  そして、背後からは衣擦れの音。  目を開いて振り返れば、子供はもう寝る時間だというのに、毛布に包まった小さな弟子がテントから顔を出す。その顔つきには眠りそうな気配が微塵もない。 「ティニ、寝ろっつっただろ」  すっかり馴染んだ名を口にすれば、ティニは俯き、毛布の角をいじった。 「すみません師匠。その、気になることがあって」  手持ち無沙汰に焚火を枝で突いていた師は、ついにきたかと眉間の皺を濃くする。  あの小屋を出てからというもの、洞窟や山小屋に泊まっていたから、今宵が初めての完全な野営だった。  昼間、大狼の姿を見せた時点で、弟子が何か聞きたそうに、そわそわしていた事には気が付いていた。極めつけは、今日はここで寝ると告げてテント一式を鞄から取り出したことだろう。  普段、師が腰に着けている小さな鞄からずるずると出てくる大きなそれに、ティニはさらに興奮したようで、その人形のような無表情な顔は心なしかキラキラと輝いていた。  これまでも細々とした魔術は適宜使っていたが、流石に普通ではありえなさ過ぎるものを立て続けに見て、幼い好奇心は大いにくすぐられたのだろう。  食事中も、寝る仕度をする間も、相も変わらぬ無表情だというのに、質問攻めにしたいというのがひしひしと伝わってきていたのだから、かなり我慢した方だろう。  まだ質問の許可を与えていないが、沈黙を許可だと捉えたのか、毛布に包まったティニは師の隣に座って小さくなった。寒いのかと引き寄せるつもりで伸ばしかけた手を不自然に下ろし、師はきまり悪そうにそっぽを向いた。 「あの、師匠のかばんは魔術で作ったんですか?」 「……厳密には、これはただの鞄だ。この中の空間を、ここではない別の場所に繋げてある」  弟子は首を傾げた。どうやら難しかったらしい。無理もない。  大人でも理解の範疇を超えているらしく、説明しても大抵は考えるのを放棄する。魔術のまの字も知らない者にとっては「空間を繋ぐ」という概念そのものがないのだから。  そして、子供の場合は自分で考える気のない「なんで? どうして? どうやって?」の質問攻めが待っている。いくら説明を重ねても、考えることを放棄しているに等しいそれの相手はただひたすらに地獄だ。  ――きっと来るだろう。  半分観念しつつ、もう半分はどうやって寝かしつけるかを考えながら、焚火の炎を見つめていると、弟子が静かに口を開いた。 「つまり、師匠のかばんに入ったら、別なところに行くんですか?」 「……まあ、そういうことだ」  ――そうくるか。  師は素直に感心していた。この弟子は、ぼーっとしているように見えて、意外にも柔軟な考え方を持っているらしい。  焚火の明かりに照らされた青い瞳が、好奇心を浮かべて師の鞄をじっと見ている。嫌な予感がした師は、さっと鞄を弟子から遠ざけた。 「間違っても入るなよ。絶対に戻れねえからな」  例えうっかり入っても戻る手立てはあるのだが、結構な手間なので、少々大袈裟に釘を刺しておく。素直な質の弟子は、びくりと肩を震わせ真面目な顔つきでこくこくと首を縦に振った。  夜がもたらす優しい沈黙の中、ぱちぱちと薪のはぜる音だけが聞こえる。  弟子はまだまだ聞きたいことがありそうな様子で師の横顔をちらちらと窺っていた。  テントに戻って寝る気はないらしいとため息をついた師は、小難しい話をすれば寝物語の代わりにもなるだろうと渋々口を開く。 「……魔術とは、精霊の力を借りることだ」 「せいれい?」  弟子が大きな瞳をぱちくりとさせる。その声に一つ頷いて返すと、師は傍らに置いていた杖を取り上げる。カンテラが揺れて焚火の光を反射した。 「やつらはそれぞれ、居心地の良いところをねぐらにする。ここにはふたりいる」  そう言って、カンテラを指で軽く弾く。すると、二つの光の玉が、すい、と飛び出した。  温かな黄金色の光と、清らかな白銀の光の玉だ。  細かい光の粒子を遺しながら、二つの玉は二重螺旋を描くようにティニの周りをくるりくるりと回る。 「わぁ……!」  降り注ぐ金銀の光の欠片に、弟子は目を輝かせた。 「微妙に黄ばんでる方がサソレアツール・セラ。古い言葉で陽光の精霊という」  黄ばんでいるという言われように怒ったのか、温かな黄色の光の玉が師の頭目掛けて突撃していく。それを片手で受けとめた師は、からかうように光の玉に軽く口づけた。手を開くと、淡い黄金色の光の精霊は満足したように師の肩の上の辺りに留まった。  師は続けてもう片方に指をさす。 「そっちがアラキノツール・セラ。同じく、古い言葉で月光の精霊という」  白銀の玉はまるで挨拶をするように子供の柔らかな頬にそっと触れた。  心地よい冷たさを感じるそれに無意識にすり寄りながら、弟子は「さそ……? きの……?」と戸惑った顔で呟く。精霊たちの長い名前はどうやら覚えきれなかったようだ。  もう一度訊いて覚えるつもりなのか、弟子が師の顔を期待を込めて仰ぎ見る。子供らしく、難しい、つまらないと放棄してくれればいいものを。予想が外れたことにどことなく面映ゆさを感じ、師は弟子から顔を逸らす。 「覚えんでもいい。陽光、月光と呼んでも怒ったりはしねえよ」 「でも、師匠がつけた名前なんですよね?」  師は否定の意味で首を振りながら、自身の長い髪を束ねている紐を解いた。傷んだ毛先がばさばさと肩や背中に散る。 「精霊としての総称だ。犬だったらジョンだろうがポチだろうが、そいつの名を知らなきゃ犬って呼ぶだろ。それと同じだ」  言いながら、後頭部をがしがしと掻く。ひじの辺りが突っ張る感覚がして、そちらを見ると弟子が服の袖を掴んでいた。 「名前、つけないんですか?」  月光の精霊の白い光に照らされた人形のような弟子の顔は、どこか哀しげに見えた。  眉間の皺を深くした師は、焚火に薪を一本くべる。陽光の精霊が形が変わった炎を見て楽し気に揺れる。 「……普通、魔術師は精霊に個別の名前をつけない。犬猫みたいに飼っているわけじゃないからな」  焚火のパチンという音に反応した陽光の精霊が、揺らぐ焚火の炎と戯れだした。  ティニを観察するように寄り添っていた月光の精霊が、ふわふわと主の下に戻ってくる。挨拶代わりに主の傷んだ髪に触れると、一足先にカンテラへと戻っていった。  それを追いかけるように、陽光の精霊もカンテラへと戻っていく。  銀の瞳でそれらを見送った師は、細い枝を片手で半分に折って焚火に放り込む。 「精霊に気に入られなければ、魔術は使えない。こいつらに気に入られて、契約をすれば魔術師はその精霊が得意な魔術を使うことができる。だが、契約の解除は向こうの気分次第で打ち切られる。それが魔術だ」  弟子は急に始まった授業に面食らったように、師を見つめて動きを止めた。  師は精霊たちが戻った杖を地面に置き、右手の中指に嵌めた大ぶりな指輪を左手でなぞる。指輪についた青みがかった白い石が、焚火の明かりに照らされて不思議な色に光った。 「名前を付けると、精霊はその名に縛られる。そうなると、奴らは好きな時に契約解除できなくなる。そうなった精霊は弱って、ある日突然消える。それが精霊にとっての死だ。こいつらは自由であることが何よりの生きる糧だからな」  弟子の顔には見るからに「むずかしい」と書いてあり、師は思わず噴き出した。  今はわからなくても構わない。もし魔術師を本気で志す気概がティニにあるのなら、そのうちわかるようになるだろう。 「契約した精霊が一度でも死んだら、二度と魔術師には戻れない」  己は優れているのだと驕り、精霊を縛った魔術師たちの末路を思い浮かべ、師はその無愛想な顔に皮肉な笑みを浮かべた。弟子が見慣れぬものを見たような顔でまじまじと師の顔を見上げる。 「悪い噂の方が広まるのが早いってのは、人間も精霊も同じだな」  師は誰にともなく呟くと、ティニの頭にぽんと手をのせ、口を閉ざした。揺らぐ炎の先を目で追いながら、静かな夜の森の音を聴く。  人間が精霊を自力で見られなくなってから、どれ程の年月が経っただろう。彼らの声を聴かなくなってから、どれくらい。  不意に、弟子が「ししょう」と呟いた。振り返れば、弟子はさっきよりも背を丸めてゆらゆらと揺れていた。ようやくやって来た眠気と戦っているようだ。  もう一押しかと思いながら「なんだ」とおざなりな返事をすると、弟子はまつ毛をしきりに上下させながら、普段よりも舌足らずに話し出した。 「……まじゅつって、なんでも、できるんですか?」 「契約した精霊によって違う。この鞄にかけてある別の空間同士を繋ぐという魔術は月光の精霊の得意分野だ。あいつは気性は穏やかだが、変わり者でこだわりが強い」  月光の精霊は自分で決めたルールを破ると機嫌を損ねる。  だからこそ、あの鞄に入って別の場所に移動することはできない。鞄にかけたのは「倉庫と鞄の中の空間を繋げる魔術」であって「移動用の通路」ではないのだ。  人間にとっては「たかがそんなこと」と笑いたくなるような微妙な差異でも、精霊には通用しない。おそらく契約破棄はしないだろうが、しばらく拗ねて力を貸してくれなくなるだろう。 「ししょうは、できないこと、ありますか?」 「ないな。大概なんとかなる」  ただ、実際にすべてを魔術で片付けるかどうかは別だ。手作業でやるということに意味がある場合もある。この男は手のかかる作業を自らの手でやることをそれなりに好んでいた。  聞き取れるかどうかも危うい音量で「すごい」と呟いた直後、曇天色の頭がかくんと大きく揺れる。衝撃で一瞬だけ起きた弟子が慌てて頭を起こした。  今にも瞼がくっつきそうなくせに、必死に閉じるのを堪えている様子が可笑しくて、師は誤魔化すように曇天色のつむじの辺りを指でかき混ぜた。 「いいかティニ、忘れるな。魔術は万能だが、決して全能ではない。そして、魔術が成り立つのは魔術師の力ゆえではない」  わかっているのかいないのか、目を瞑った弟子は曖昧に「はい」と頷いた。  ――もう落ちる寸前だな。  喉の奥で押し殺すようにくっくっと笑った師は、誤魔化すように振り返ってテントの入口の布を片手でめくり上げた。 「ほら。話は終わりだ。さっさと寝ろ」 「はい……おやすみなさい、ししょう」  のそのそとした動きでこちらに頭を下げ、ティニはテントに戻ろうとする。その頭を最後にもうひと撫ですると、子供らしい細く柔らかな髪が指をくすぐった。  横になった弟子がしっかりと毛布に包まったのを見届け、テントの幕を閉じる。空を見上げれば、高く昇っていた半月は先ほどよりも少し傾いていた。  焚火の薪がはぜる音と、風が草木を撫でる音を聞きながら、師は自問する。  ――ティニは、魔術師になれるか。  ティニは思ったよりも賢い子供だ。考えることを放棄しない上、思考は柔軟だ。知らぬことを学ぼうとする意欲もある。精霊も少なからず興味を持ったらしい。  しかし、答えはあの日と変わらなかった。
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