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海辺の街・リゴン
海辺にある街、リゴン。
貿易と漁業を兼ねた大きな港があるこの街は、海の向こうからもたらされる技術や交易品、海そのものからもたらされる豊富な資源によって発展を遂げていた。
街の肝である港では、今日も海の男たちが威勢の良い声を上げ、それに負けじと白い水鳥たちも猫のような鳴き声を上げている。
それに交じって聞こえてくるのは訛りが強い言葉だ。彼らは海の向こうの国からやって来た商人たちである。
西の大国の、まるで厳格な教師のような手本通りの言葉遣い。北の島国特有の早口でまくしたてるような喋り方。言葉尻が上がるのは東の遠方の国の貴人によくあるものだ。外交の途中といったところか。自国の言葉とごちゃ混ぜにして、自由勝手な文法で喋るのは南の商業国家の特徴だ。それでも伝わるのは、彼らの身振り手振りが的確だからだろう。
フードを被った背の高い男は、聞こえてくる言葉たちのふるさとをひとつひとつあらためながら歩く。
少々時代遅れな型の外套のフードからは、月のような色の銀髪が一束、零れ出ていた。丁寧な手入れを怠った故の毛先の傷みが、陽光に反射して砂浜のようにきらめいている。
――出会ってから、何日経っただろうか。
男は、前をとことこと歩く小さな背中に注意を戻し、頭の中で昨夜の月を思い出す。ほとんど満月のような小望月だった。つまり今晩が満月、だから出会ってからひと月だ。
成り行きで弟子にした少年・ティニは、高熱に魘されたこともけろりと忘れたように、すぐに体力を取り戻した。子供の自然治癒力のすさまじい。そこに輪をかけて、ティニ本人も身体が丈夫なようだ。だからと言って無理をさせる気はないが、旅に連れ歩く以上、身体が丈夫なのは何よりだ。
ティニが数歩先でまたしても立ち止まったのに合わせ、師は歩みの速度を緩めた。
人より頭二つは背の高い自分が、小さな子供を視界に置いておくというのはなかなか苦労する。師は海の底より深いため息ついた。
そんなことを知ってか知らずか、ティニは初めてだという海と港、そして市場に興味津々で、手当たり次第にきょろきょろと見回っている。
今朝水揚げされたばかりの魚の桶を覗き込み、破れた網を繕う漁師の老人の手元をじっとと眺め、そのすぐ側で魚のおこぼれに与っている猫をなで、荷箱の山の陰で干上がりかけた海星を指でつつき。とにかく興味が惹かれるままにあちらへこちらへと忙しい。
そうでなくとも、人や物が多い港や市場では、小さな子供などすぐに見えなくなってしまうというのにお構いなしだ。今日だけでもう何回見失って肝を冷やしたことか。
街に着いた当初、用事を済ませる間は後ろをついてこさせていた。当然ついてきているのだろうと思っていたが、嫌な予感がして振り返ったら忽然と姿を消しているのだ。
ティニからすれば、背が高く目立つ師を見つけるのは容易だろう。師が見える位置にいるのだから、多少離れていてもはぐれたという認識になっていない。だが、師からしてみれば、小さなティニを人混みから見つけるのは、桶いっぱいの魚の中からたった一匹紛れ込んだ特定の小魚を探すようなものだった。
それが繰り返されること数回。師は、苦肉の策として、しばらくの間弟子を好きに歩かせることにしたのだった。
「おい、ティニ」
弟子が海辺の水鳥を追いかけようと数歩駆けだしたところで、師は弟子の名を呼んだ。
ティニはぴたりと止まって振り返ると、大人しく師の隣へと駆け戻って来る。ついこの間、与えた名前はもう馴染んだらしい。
名を呼べば気が付いて戻ってくるだけ良いと思うべきか。師はやれやれと頭を掻いた。
「はい、師匠」
「あんまりうろちょろするな。そのうち海に落ちるぞ」
すぐ側の陸の端を指させば、ぱちぱちと大きな目が二つ瞬きをする間に、ティニの顔に不安が広がっていく。
このひと月、寝食を共にしたおかげか、師はようやく弟子の乏しい表情から感情を読み取れるようになってきていた。
「……海に落ちたら、どうなりますか?」
そのいかにも不安げな顔に、つい悪戯心がひょこりと顔を出す。
「そうだな、あっという間に塩漬けになって、海の底に棲んでるでっかいイカの化け物の晩飯になる」
調子に乗って「お前は食うとこが少ねえから、引っ張り合いの奪い合いだろうな」と、真面目くさった顔で言うと、見事に騙されたティニは慌てて海から距離を取った。
「イカの化け物のことを教えてやろう。名前はクラーケンだ。四つの目が暗い海の底で血のように赤く光ってな、口にはノコギリのように鋭い牙がいくつも生えてる。ぬるぬるとした足が何本も……」
腰の辺りに軽い衝撃を受け、師は口を閉ざす。ティニがしがみついていた。外套を握りしめる小さな手は震え顔のほとんどを師の腹に押し付けたまま、目は化け物の足が水面から現れるのではないかと注意深く海を見ている。
――こりゃ、来るな。
「……ししょう」
震えた声と共に、幼い両腕がこちらに伸びてくる。
反射的に不機嫌な顔になったが、自分がついた馬鹿馬鹿しい嘘のせいだという自覚がある魔術師は、騙され怯える憐れな弟子を何も言わずに抱き上げた。
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