白い糸

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白い糸

「天使がいるよ」  俺がそう言うと母は微かに笑ったように見えた。 「きっとあの、天井画のお空から降りてきたんだよ」  描かれた空を指さして興奮した俺を見て、母はそうね本当に美しい人達ねと言って俺の頭を撫でてくれた。  ¨ユーリあなたは天使にだって愛される子よ。  それを忘れないで¨ 「お母さま、どうしたの?どうして……そんなことを言うの?」  ¨ユーリ、ユーリ、愛しい子……ユーリ……¨ 「ユーリ」  自分を呼ぶ声が聞こえて、俺は重い瞼をゆっくりと持ち上げた。 「もうとっくに着いたぞ。何度揺らしても起きないのだから……。ずいぶんとぐっすり寝ていたな。お勤めが始まったら寝坊なんてするんじゃないぞ」  俺の顔を覗きこむ叔父の困ったような、嫌なものを見るような顔が見えた。  周りには人が座っていたはずなのに、終着駅に着いたからか、俺と叔父以外の人間は皆降りてしまったようだった。 「……すみません。俺、一度寝るとなかなか起きられなくて……」 「言い訳はいい。先方は時間には厳しい方々だ。迎えの馬車が行ってしまう。急ぐぞ」  叔父は俺のシャツの襟首を掴んで立ち上がらせた。確かに寝ぼけている場合ではないので、慌てて鞄を持って先に歩いていく叔父の背中を追いかけた。  列車を降りると、外はたくさんの人で溢れていた。  ウェルズ国の首都であるミルズは今、好景気に沸いている。  たくさんの工場が建ち並び、地方からの労働者がどっと押し寄せているのだ。薄汚れたシャツとズボンを履いて、痩せ細った体の俺はどこからどう見ても田舎から出てきた労働者だ。  仕事が多いといっても、この人数では働き口がすぐに決まるかは分からない。同じ労働者でも、働き先が決まっているという点では俺は恵まれているのかもしれない。  俺の名前は、ユーリ・アークウェント。ここから列車で半日ほどのルピアという田舎町から、ミルズまで叔父と共にやってきた。  目的は仕事をして給金を稼ぐこと。ルピアにはほとんど仕事がなく、ミルズに住む叔父が見つけてきた働き口だった。 「どうだ、都会の空気は?懐かしいか?お前が暮らしていたのは、十歳までだったな」 「ええ、八年も前ですから記憶も曖昧です」 「あれが自動車だ。見るのは初めてだろう。貴族でも一部の方しか持てない高級品だ。これからお前が行くグレイシー伯爵もお持ちだし、次男のシオン様は製造や販売を行う会社を経営されている。………まぁ、お前が知ってどうなる話ではない。お前の役割とは関係がないからな」 「……………」  駅での喧騒を抜けて、馬車に乗り込んだ俺の隣で、叔父はやけに上機嫌だった。珍しく都会での暮らしについて語っていた。きっとまとまった額のお金が手入ることで気が緩んでいるのだろう。  賃金のほとんどは先払いだと聞いた。こちらが出した条件はお金だけなので、もちろんそれに見合った働きをしなければいけない。  膝の上に乗せたバッグは金具が壊れているし、布地には穴が空いていた。  そして、それを掴んでいる俺の手は荒れていて皮は剥けているし、カサついていてでひどいものだった。  こんなみすぼらしい自分が果たしてその働きができるのだろうか。悪路に揺られながら、不安な気持ちばかりが胸の中を占めていった。  三年も音信不通だった叔父から手紙の連絡が来たとき、俺は心配していた妹の話が聞けると嬉しくなった。  何しろ、月に一度は手紙を送っていたのに、まともに返事が来たことがなかったのだ。  しかし、手紙を開けた俺はそこに書かれた内容に驚愕して座り込んでしまった。  そこには、叔父が事業に失敗して多額の借金を負ってしまったという内容が書いてあったのだ。  俺が十歳のとき、父と母を亡くした。もともと子爵位の貴族であったが、俺はまだ幼く爵位は叔父が継ぐことになった。  俺には二歳下の妹のジュリアがいたが、叔父はジュリアだけを引き取り、俺を妻の田舎であるルピアの教会へ預けた。  叔父には息子が一人いて、後々爵位を巡っての争いになることを避けたいということだった。ジュリアは令嬢として大切に育てるからと言われ、女子の寄宿学校での教育を約束されて、俺は頷くしかなかった。  田舎の教会というのは貧困しかない場所だ。わずかな村人からの施しを受けて、自給自足での生活。  寒さや飢えに耐える暮らしをジュリアにはさせたくなかった。  何度かやり取りした手紙では、ジュリアは勉学に励み、友人達と楽しく過ごしていると書かれていた。  俺はいつか成長したジュリアに会える日を夢見て、教会での暮らしを続けていた。  しかし、それも叔父からの手紙で脆くも崩れてしまうことになった。  借金のせいで妻も息子も働きに出ていて、ジュリアもその必要があるが、ジュリアができることなど限られている。  このままだと、ジュリアは娼館に売るしかないと書かれていた。  そして、今まで教会へ多額の寄付をしてきたのだから、俺にも負債の一端を担う必要があるだろうと書かれていた。  慌てて叔父に連絡をしたら、いい話があってジュリアを娼館へ売らなくてもいいかもしれないということだった。  しかしそれには、俺に働いてもらう必要があるということだった。  断れるはずなどない。俺は叔父になんでもしますと言ってお願いをした。  寒さや飢え、孤独にも耐えて生きてきた。筋肉がなくて、力仕事には自信がないが、過酷と言われる石切場でも漁船でもなんでもやるつもりだった。  そんな俺を迎えに来た叔父はこう言った。  簡単な仕事だ。  金持ちの貴族の世話係、つまり慰み者になるのだと教えてくれた。  それを聞いても拒否することなど出来なかった。俺は下を向いたまま、はいと言って叔父の後に付いて列車に乗り込んだのだった。  □□ 「こうやって見ると本当にお前はアリアに似ている」  外を眺めていたら、俺の顔を見ていた叔父が嫌そうな顔で呟いた。 「兄さんが市井の女と結婚するという時、俺は反対したんだ。その通り、あんなことになっただろう。おまけにお前は男だというのにアリアにそっくりだ。まぁ、だからこそ、こういう仕事も選べるのだから、それは母に感謝するべきかもな」 「……………」  こういう嫌みはもう何百回と聞いてきた。だから、いちいち傷ついたり怒ることもない。俺が顔色ひとつ変えないので叔父はますます気に入らないようだった。 「実はまだ仕事は本決まりではない。まぁ、遊ぶ方にも好みがあるからな。屋敷へ着いたら色々と聞かれたり見られるだろう。多少薄汚れているが、容姿はアリアに似ているから、何かあったら使えると思っていた。ジュリアを売りたくないのなら、誘惑してでも選ばれて、せいぜいお二人を楽しませて飽きられないうちになるべく多く金を積んでもらうんだな」 「…………はい」  窓ガラスには確かに記憶にある母と似たような顔が映っていた。黒い髪は手入れが悪く長くてボサボサだ。不健康そうな青白い肌に、アイスブルーの瞳は暗く淀んでいた。  母と似ているかもしれないが、記憶のある母はこんな顔はしていなかった。  俺の母はかつて、ミルズの歌劇団で活躍したトップスターだった。ウェルズに咲く白ユリと呼ばれて、たくさんの男性からの求婚が絶えなかった。そんな母は、奥手で声がかけられなかった父からの手紙に心を打たれ、手紙を交わし合って、会うようになりやがて結ばれた。  母に似た容姿で今まで良いことなどなかった。村人から女性に間違えられて襲われたこともある。仕事の内容はとても理解できないが、この容姿のおかげでジュリアを助けることができるなら、俺としてはもうそれで良かった。  馬車の中で叔父は仕事の詳細を語りだした。雇い主の名前は、ミラン・グレイシー。昨年父親を亡くして伯爵となった。  そして屋敷には彼の弟である、シオン・グレイシーも住んでいる。シオンの方は父親が手掛けていた事業を継いで、若くして成功してミルズだけでなく周辺の地域でも名前が知られているそうだ。  地位があり成功している彼らの元には、たくさんの人間が近寄ってくる。縁談も星の数ほどあるそうだ。しかし、二人はまだ結婚するつもりがないらしく、適当に遊ぶこともあるが、リスクの少ない方法を求めている。  叔父は下の世話係だと言って笑った。女だと妊娠する可能性があるので、男を探しているということだった。 「この世話係は定期的に変わっている。お二人とも飽きっぽいんだろう。それに契約には秘密を保持することが求められている。下劣な趣味があるんだよ。死体が出たって話は聞かないし、しばらく我慢すれば手切れ金ももらえる。悪い話じゃない」 「ネル叔父さん……、ジュリアのことは、約束していただけますか?」 「分かっている。寄宿学校はそのまま通えるようにする。いい縁談も用意するさ。持参金にもできるだろう」 「分かりました」  叔父はまだペラペラと話していたが、それきり俺は口を閉ざして窓の外を見続けた。相手がどんな人間でも、俺がやることは変わりない。ルピアののどかな景色とは違う、人も多くたくさんの建物が続いていた。  この道の先に俺の希望はない。だが暗闇が待っていたとしても進むしかないのだ。  ざわざわと騒ぐ胸を押さえながら、灰色の空を見ていたのだった。  □□  行きの馬車の中で、叔父は散々頭のおかしい悪趣味で贅沢な金持ちだと言っていたが、グレイシー邸は予想よりも落ち着いていて質素に思えた。  金や銀の装飾が施された屋敷を想像していたからかもしれない。確かに敷地は広いが、屋敷自体はそこまで大きなものではなかった。  もちろん、俺の暮らした世界とは違いすぎるが、なんというか色がないのだ。  壁や天井、家具類、どこを見渡しても落ち着いた色調のものばかりで、確かに高級感はあるがどこか寂しい感じがした。 「ユーリ・アークウェント様。アークウェント子爵のご親戚にあたるとか……」 「兄の子です。早くに親を亡くして、私が後見ですが都会は嫌だと我が儘を言いましてね。妻の田舎で遊んで暮らしておりましたが、田舎は仕事はないので私に紹介して欲しいと泣きついてきて、ファンデール商会の商会長から仕事の話を聞きまして……この話を甥に紹介したのです」  叔父は外向きの笑顔を作って、ペラペラと勝手な嘘を並べた。否定してどうにかなるものでないので、俺は静かに口を閉じて下を向いていた。  背が高くビシッと燕尾服を着こなしているのは、グレイシー家の筆頭執事である、ジェイドという男だった。  屋敷に到着してまず通された部屋で、ジェイドに質問を受けていた。  銀縁の眼鏡の奥から穴が空くような鋭い視線を感じて、俺は身を小さくした。 「本来ならば、子爵家のご子息に当たるような方がお求めになる仕事ではないのですが、色々とご事情がおありのようですね」  ジェイドにがさがさの手を見られているようで、俺は思わず膝の上で両手をぎゅっと握りこんだ。 「……いいでしょう。身元は確かなようなので、いつもは私が検査をしますが、今日はミラン様が直々に担当されるそうです。子爵様は別室にてお待ちください」  叔父とジェイドが退室して、俺は部屋に一人残された。まさかいきなりご当主に会えるとは思わなくて、緊張で背中にじんわりと汗をかいてきた。  ここで断られたら俺はどうなるのかとずっと考えていた。力仕事ではたいして稼げないだろう。きっと叔父は似たような話持ってくるか、俺が娼館に売られてしまうかもしれない。  伯爵はなかなか部屋に来なかった。使用人希望の男を待たせることなど、なんとも思っていないのだろう。  俺はずっと下を向いていた顔を上げて窓の外に目を向けた。  草木が生い茂る庭が見えた。手入れはされているようだが、ここからだと咲いている花が見当たらない。緑だけのやはり、質素で寂しい庭に見えた。  静かすぎて、風に吹かれてさわさわと揺れる草の音まで聞こえてきた。  ふと自分の人生とはなんだろうとぼんやりと考え出した。  両親に代わって、託された妹を幸せにしたい。その気持ちはずっと変わりない。  そのために体を売ることくらいなんでもない。なんでもやってやると思っていた。  しかし、この部屋は静かで余計なことまで頭に浮かんできてしまうのだ。 「……お母様。俺は……本当に……」  トントンというノックの音がやけに大きく響いて、俺はビクリと体を揺らして急いで立ち上がった。  ガチャリとドアが開けられる音がして、入ってきた人を見て、俺の目は釘付けになってしまった。  寂しいくらい色がなかったこの屋敷は、主の存在を際立たせるためだったのかもしれない。  金糸を思わせる光に透き通るような美しい金髪に、深い森の奥に迷いこんだような魅惑的な深緑の瞳。陶器のような白い肌は髪と同じく透き通っていて、キリリとした眉と涼しげに細められた瞳に高い鼻梁、すべて計算して作られたような美しい男性だった。  思わず大天使が現れたかと思って口を開けたまま動けなかった。  そして、この感覚がなぜか懐かしく思えて、胸はざわざわとして頭は混乱していた。 「待たせてしまってごめんね。君がユーリ・アークウェント?」 「…………はっ!……はい」  まるで宗教画の大天使が喋りだしたので、一瞬幻でも見ているのかと思って返事が遅れてしまった。 「ずいぶんと薄汚れているなぁ……。これじゃ道に捨てられた猫だ。俺達はもう少し肉付きが良くて、元気なのがいいんだけど……」  大天使ミランは美しい顔を大袈裟にしかめて、両手を上げた。完璧な作りが冷たそうに見えてしまうが、見た目と違って明るい人なのかもしれない。 「………グレイシー伯爵の前でこのような汚い格好をお見せしてしまい申し訳ございません」  俺は恥ずかしさと申し訳なさでミランの顔が見れずに、下を向いて唇を噛んだ。 「ここに来る子はさ、みんな着飾ってとびきり綺麗な格好で来るんだけど……。そうか、それほど困っているのか……。慈善事業は貴族の嗜みだからね。可哀想だから拾ってあげるよ」 「えっ………」  相応しくないからお帰りいただこうと言われるのかと思っていた俺は、予期せぬ言葉に驚きの声を上げてしまった。 「えって、断られるかと思っていたの?シオンにはまたうるさく言われるだろうけど、俺は気まぐれだからさ、ちょっと変わったものが好きなんだ」  ちょっと変わったものと言われて、ますますぽかんとしてしまった。  どうやら、ここに置いてもらえるみたいなので、慌ててよろしくお願いしますと頭を下げた。  軽く話しただけで忙しそうなミランは、じゃ後でねと言い残して部屋から出ていってしまった。  入れ替わるように、すぐにジェイドと叔父が入ってきて契約の話になった。  自分のことではないからか、叔父は契約書をほとんど読まずに、何枚も書類にサインをした。  そして、差し出された厚い封筒をご機嫌で懐に入れて帰っていった。  帰り際、俺は叔父にお願いしますと頼んだが、叔父は軽く手を上げただけだった。 「前金で三十万ルビー、これがどれだけの価値か分かりますか?」  ジェイドの言葉に俺は下を向いて首を振った。自給自足の生活で自分でまともに買い物すらしていなかった。 「無知であることは恥ではありません。ここにいる間によく学ぶことです。基本的にはご兄弟の言われる通りにして、反発したり余計なことはしないように。契約書にもありますが、ここで見聞きしたことは他言無用です」 「……はい」 「では、まず浴室へ参りましょう。そのままでは歩いているだけで、砂と埃が落ちてきそうです」  ジェイドの言葉にあまりにひどい格好だったと恥ずかしくなった。そのまま使用人が使う浴室へ案内され、香りのよい石鹸と柔らかいブラシで体を洗われて、お湯が張ったお風呂に入れられた。  子供の頃はお湯を使ったお風呂に入っていたが、田舎にいた時は近くの川で水を汲んできて簡単に流すだけだった。久々のお湯は俺の体と凍りついていた心まで温めていくようだった。  お風呂から出て着替えようとしたら着てきた服も、鞄に入れていた服もみんななくなっていた。  代わりに用意されていたのは、パリッとした上等なシャツとズボンで、これを着ていいのかすら分からず、とりあえず髪を拭いてタオルを腰に巻いたまま、浴室から顔を出してジェイドの姿を探した。  辺りには人影もなく静かで、長い廊下にも誰の姿も見えなかった。 「……どうしよう。これ……着ろってことだよね」  しかし他人の家で、物を勝手に使うはどうも気が引けて、とにかくジェイドの姿はないかと近くを歩いてみることにした。  腰にタオルを巻いたままでうろうろするのは、見苦しいと怒られても仕方がない。とにかくジェイドはいないかと、廊下のつきあたりまで来たところで、向こうから歩いて来た人とぶつかってしまった。 「もっ…!申し訳ございません!!」  激しく当たったわけではなかったが、半裸の男がぶつかって来たらびっくりするだろう。俺は慌てて謝って顔を上げた。そこで目に飛び込んできた人を見て心臓が激しく揺れたのが分かった。 「グレイシー伯爵……?」  そこには先ほど面会をしたミランと姿がそっくりな人が立っていた。金髪に深緑の瞳から顔の作りに仕立てのよいスーツも同じだ。しかし、何故か違和感を感じた俺は、その人の口許にある小さなほくろを見つけて、もしかしたら別人なのかもしれないと気がついた。 「あ……違う……。貴方は……誰?」  俺の言葉にミランと同じ顔をした男は驚いたように目を開いた。  そして、珍しい生き物を見るかのように興味深そうな目で俺のことを見てきた。 「へぇ……。ミランのことは知っていて、俺は知らないのに違いが分かるのか?というか、お前こそ誰だ?ここは俺の家だ」  その言葉を聞いて俺は頭の線がやっと繋がった。ミランが二人いるかのような錯覚に陥ったが、彼こそが弟のシオンなのだろう。ここまで似ているなら双子に違いない。そんな話は聞いていなかった。当たり前すぎて、誰も話さなかったのかもしれない。 「……シオン様ですか?」 「そうだ。こんな所で廊下に水を落としながら、裸で何をやっている?」  足元にできた小さな水溜まりに俺は青くなった。雇われて早々に屋敷を汚すなど言語道断だろう。 「申し訳ございません!お風呂をお借りしたのですが、着替えが見当たらなくて……その……ジェイドさんは……?」 「ああ?ジェイドだって?」  シオンが眉を寄せた瞬間、シオン後ろの廊下の向こうからジェイドがのんきに現れた。 「ユーリ、裸で出てくるなんてはしたないですよ。着替えは置いておいたでしょう」 「あっ……あの、勝手に着ていいのか分からなくて……、確認してからと思いまして……」  恥ずかしくて消え入りそうな声しか出せなかったが、ジェイドは言い忘れていましたねとこれまた、のんきに返された。 「ユーリの服はここで相応しいものではなかったので、部屋のクローゼットに入れておきました。服は無償で支給されますので、こちらで用意したものを着てください」 「は……はい。分かりました」  そんなこと言われなくてもみんな理解するから、ジェイドはいちいち言わなかったのだろう。俺は自分の要領の悪さが悲しくなった。 「……風邪をひくぞ。分かったらさっさと着替えてこいよ」 「はい……!」  シオンが変な生き物を見るような目で見てきて、俺は慌てて踵を返した。早く着替えてから廊下を掃除しないと行けない。  そう思って急いで着替えたが、戻ったときに廊下はすでに綺麗に拭かれていた。  俺は何をしているのだろうかと、一気に疲れが出て立ち尽くしたのだった。  □□  案内された部屋はなんと個人部屋だった。教会では、大部屋で他の子供達と雑魚寝だった。  自分のものという概念はなく、あるものは全てみんなが使うものだった。  ベッドには柔らかい布団が敷かれていて、その手触りに感動していたら、ドアがノックされて可愛らしい女の子がぴょこんと顔を出した。 「あなたがユーリさんね。私、アリン。ここでメイドをしているわ。支度を手伝うように頼まれたの」 「ユーリです。支度ですか……。もう着替えはすませていますが……」  年齢的にはジュリアと同じ年くらいだろうか。栗色の髪と瞳まで、ジュリアとよく似ていて、ジュリアと再会したみたいで胸が熱くなってしまった。  つかつか部屋に入ってきたアリンは、俺の頭を指差した。 「はいはい。そこに座って。その鳥の巣みたいな頭じゃまるでお化けよ。顔なんてほとんど見えないじゃない……。ちゃんと髪用の石鹸を使った?ゴワゴワじゃない!しょうがないわねオイルを使って……」  椅子に座らせた俺の髪をアリンは遠慮なく、ハサミでジョキジョキと切り落としてしまった。髪なんてどうでもよかったが、久々に視界が開けて、俺は眩しくて目を閉じた。 「あら……切ってみると違うわね。ユーリは、ずいぶんと綺麗な顔をしているのね。鼻はそんなに高くないけど小ぶりで可愛らしいし……唇も何も付けていないのにほんのり赤いし……」  間近で顔を解説されるのが恥ずかしくて、やめて欲しいと思って目を開けたら、アリンはわぁ!と驚いたような声を出した。 「綺麗な瞳の色ね。水晶?ガラス玉?とにかく綺麗だわ……。こんな宝石を隠しているなんてもったいない」 「あの……恥ずかしいので……。人に見られるのは慣れていなくて……」  俺が真っ赤になって、手で顔を覆ったら、アリンは今度は可愛い可愛いと言い出したので、布団の中に隠れたくなった。 「ユーリ、ミラン様とシオン様がお呼びだ。支度が出来ているなら行きなさい」 「は……はい」  部屋の外からジェイドの声がした。主人のお呼びとあればすぐに行かなくてはいけない。  アリンが残った髪をはらってくれたので、慌てて部屋から出ていくと、待っていたジェイドはほぅと声を出して、眼鏡を人差し指で押し上げた。 「それなりに見られるようになりましたね。お二人から仕事についての話があると思いますので……、心して向かってください」  どうやら、ジェイドは付いて来てくれないらしい。玄関からの位置だけ教えてくれたので、まず玄関に行ってから指示された部屋へ向かった。  迷いながらも指定された部屋の前まで着いて、ドアを叩こうと手を上げたところで、中の声が聞こえてきて思わず手を止めてしまった。 「また、拾い物をしたのか。あれはしばらくいらないはずしゃなかったのか?」 「いいだろう。俺だって楽しみたいしさ。ちょっと希望したのとは違ったけど、大人しそうだからちょうどいい。うるさいのは嫌いだろう、この前みたいな……」 「………俺は参加しないからな」 「えー……、シオンが一緒じゃないと……」  ドアを叩くタイミングを逃してしまって、手を上げたまま固まっていたら、ガチャリと音がしてドアが開いてしまった。  中から出てきたのは金色の髪と深緑の瞳の男で、一瞬どちらか分からずに、俺より頭一つ分高い顔を見上げて惚けたように見上げてしまった。 「なんだ、変な格好をして……。お前、さっきの男か?」  シオンの特徴だった口許のほくろを見つけた俺は、慌てて手を下ろして姿勢を正した。 「お……遅れて申し訳ございません」 「はあ?」 「ああ、俺が呼んだんだよ。この子が新しい猫のユーリだよ。少しは綺麗になっ………」  シオンの後ろからひょこりとミランが顔を出した。二人が揃うと口許の小さなほくろ以外は、全く同じだということが分かる。完璧なまでの美しさが違うことなく並んでいることが驚きで、同じ人間とは思えないほどだった。  しかもご丁寧に同じ格好をしているので、ぱっと見ただけでは区別がつかない。 「わぁお!俺の目に狂いはなかった!ずいぶんと綺麗になったじゃないか!検査もしないで引き受けちゃって、まずかったかと思ったけど、これは良かった」 「あ……あの、お風呂を使わせていただきました。服までいただいてありがとうございます」  二人の神々しさにまともに目を合わせることもできなくて、下を向きながらお礼を言うと頭の上でクスリと笑う声がした。 「まぁ、中に入ってよ……。色々と話したいし」  顔を上げると、妖しげに微笑むミランと、目線をそらして不機嫌そうなシオンの姿があった。  まるで神々の世界へ通じる扉のようだった。ここをくぐったらもう元の世界には戻れないような気がした。  ごくりと唾を飲みこんだ俺は、眩しいくらいの輝きに吸い寄せられるように足を踏み出したのだった。  □□□
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