第九章  君と僕との物語

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第九章  君と僕との物語

「彩夏!これを見て!」  深彗は慌てた口調で駆けてくると、籠編みのバスケットを彩夏に見せた。  彩夏は籠の蓋に手を伸ばしその中身を開けてみると、中から一匹の真っ白な子猫が現われた。 「まぁ……なんて綺麗な子!」  まだ生後一か月半程の子猫だった。  彩夏はその子猫を両手で抱き上げ胸に抱えると、どうやらお腹を空かしているようだった。 「深彗君、この子どうしたの?親猫はいないの?」 「それが、来る途中の空き地に捨てられていたんだ」 「そうなの?可哀想に……お前は孤児(みなしご)だったのね。だったらうちの子になる?」  彩夏は子猫の目を見て話しかけた。 「この子はきっと幸せになれるよ」  深彗はそう言うとなぜだか眩しそうに見つめていた。 「うん、そうだね。幸せにしてあげなくちゃ」  彩夏は深彗を見つめそう答えた。  再び懐で眠る子猫に視線を落すと、子猫の姿が消えていた。  彩夏の腕の中で眠る子猫の姿は、別の者に変わっていた。  突然の出来事に彩夏は目を丸くして見つめた。  ぱっちりとした愛らしい目は、まるで宝石のように美しい空にも海にも似つかぬアクアマリンブルーと、春の息吹を感じさせるペリドットグリーンの瞳のオッドアイ。  まるで星を写したように煌めく銀髪、白皙(はくせき)の容貌を宿した天使のように美しく、まさに神秘的な男の赤ちゃんがそこにいた。  彩夏は信じ難いとばかりに深彗の顔を見上げた。  深彗は驚いた様子もなくただ優しい眼差しで微笑んでいる。  彩夏は何が何だか分からなくなり、呆然としていた。 「どうしたの?彩夏?」  深彗は不思議そうな顔をして彩夏の顔を覗き見た。 「彩夏、赤ちゃんの名前を呼んであげて」  深彗にそう言われて、彩夏は迷うことなくその子の名を囁いた。   彩夏の胸に抱きかかえられたその赤ちゃんは、彼女の声に反応すると天使のような微笑みを浮かべた。  彩夏と深彗は驚きの表情で互いに見つめ合うと、優しい眼差しで微笑みあった。 「深彗君、この子はどこの家の子?」 「僕たちの子だよ」  深彗はそう答えると、彩夏の肩をそっと抱き寄せた。    * 「……ん……。深彗君?赤ちゃん?どこ……夢?」  彩夏はおかしな夢を見た。  これまでに見たことのない夢だった。  なぜかそこには深彗もいて、玉のように輝く赤ちゃんを抱きかかえる彩夏は、幸せに満ち足りていた。 「こんな時にこんな夢を見るなんて……」 「あの、すみません。水星深彗という方はどこにいますか?」 「みずほし、しんせい……?え~と、その名前の患者さんはこの病院にはいませんね。別の病院じゃないですか?」  彩夏は病院の面会受付で深彗の病室を確認していた。 「え?そんなはずないです。三日前にこの病院に救急搬送されて入院したはずです」 「……でも、入院名簿にその名前で記載がないですね」 「失礼ですが、患者さんとのご関係は……」 「学校のクラスメイトです」 「ああ、そうですか。入院患者さんによっては、家族以外の面会を拒否される方もいますから……その場合、入院患者名簿に患者名の記載がありません。個人情報により面会を許された方以外に入院しているかどうかをお伝えすることができません」 「彼は無事ですか?それだけでも教えてください!」 「困るんですよ。先程お伝えしたようにこちらから教えるわけにはいかないのです」 「そんな……では、どうしたらいいのでしょうか……」 「一番確実なのは本人かその方のご家族に連絡して確認してみてはいかがですか」  彩夏の顔が曇る。事故で携帯端末を破損した彩夏は、あの日以来深彗と連絡をとれなくなっていた。  彩夏は深彗がどこで暮らしているのか親戚の家がどこなのかも知らなかった。 ――私、深彗君のこと何一つ知らないなんて……  深彗の容体を知ることもできず面会も叶わない彩夏は、後ろ髪を引かれる思いで病院を後にした。  彩夏は逸る気持ちを抑えきれず駆けだした。      プッ……プッ……プッ……プッ……  規則正しい電子音は止まることなく一定のリズムを刻み、モニターに表示される基線はその形を変えることなく、直線と波形からなる形を繰り返し描いている。  一定のスピードで滴下する滴は、窓から差し込む陽光に乱反射し煌めきを放っている。  美しく澄んだ瞳は長い睫毛に覆われ、青白く整った美しい顔立ちは人形の如く微動だにせず、ただそこに横たわっている。   「後藤先生、深彗君の連絡先を教えて欲しいのですが……」 「何だ?どうした?葉月」 「深彗君の連絡先を、親戚のお宅がどこか教えていただけませんか?」 「しん、せい?」  担任の後藤は怪訝(けげん)な面持ちでその名を復唱した。 「先生、どうしたのですか?転入生の水星深彗君です……」 「転入生?みずほし?誰だ?うちにはそんな生徒はいないぞ。葉月、大丈夫か?お前こそどうした、事故の後遺症じゃないか?病院で診てもらった方がいいぞ」 「え?何を言っているのですか?おかしいのは先生です!クラスの皆に聞いてください」 「ね、ねえ、由実、深彗君のことだけど……」 「しん、せいって誰?」 「嘘でしょ、何言っているの、由実まで冗談はやめて……」 「あ、村田さん!村田さんは深彗君のこと覚えているよね」 「その人は誰?葉月さんの知りあいか何か?」 「え?村田さんまで……ね、これって、悪い冗談かなんか?もう皆やめて……」 「……葉月さん本当に、どうしちゃったの?あんな事故の後だから……無理しないでね」 ――皆、どうしてしまったの?一体全体、何が何だか……  彩夏は隣の席に目を向けた。最初からそんな者は存在しなかったかのように、主のいない空っぽの席がポツンとそこに置かれていた。  だが、確かに三日前までは彼はそこに存在していた。  しかし、深彗のことを覚えている者は誰一人居ないかった。    彩夏はこれまでの奇妙な出来事を振り返った。  だが、どれだけ考えたところで解決には至らなかった。  ただ家に戻りたくなかった彩夏は銀杏地蔵へ向かうことにした。  広場のブランコに腰を下ろすと銀杏の大木を見上げた。  ついこの間まで黄金色に輝く銀杏の大木は冬木(ふゆき)に姿を変え、足元は辺り一面黄金色の葉が敷き詰められ、ふかふかとしていた。 ――深彗君……あなたは今どこに行るの?私たちはここで初めて出会ってからいつも一緒だったよね…… 「彩夏……」  すると突如、銀杏地蔵の大木の裏から深彗が姿を現した。 「深彗君!どうしてここに居るの?病院に入院しているのではなかったの?ああ、無事でよかった。やっぱり皆私を騙していたのね」  彩夏は深彗のところに駆け寄った。  深彗は今にも泣き出しそうなとても悲しい顔をして彩夏を見つめた。 「君は、知らないんだね……」  深彗は冬枯れの寂しい銀杏の大木を見上げながらそう言った。 「知らないって、何のこと?」 「……彩夏、少し話そう……」  深彗はそう言うと暫く黙り込んでいた。 「そうだ、君が八歳の時のことを覚えているかい?」 「八歳?」  ……八才の君は、近所の幼馴染と遊んでいるとき友達の家の敷地に猫の骸を見つけた。  友達は気持ち悪がりその場を去っていった。  だが、君だけは違った。  その猫のことが気の毒に思った君は、その骸を抱えると銀杏地蔵の川べりに埋めてあげた。 『猫さん成仏してください』  君はそう言って自宅からこっそり持ち出した線香をたて猫のために祈った…… 「ああ、そんな事があったな……なんだか、懐かしい……」 「その猫は君の優しい気持ちが嬉しかった。そして、その猫はね。 『次生まれ変わるならば、また君に会いたい……』そう願ったんだ」 「そう……君はいつだって優しい……」 「中学一年生の時のことを覚えているかい」  君は……新年を迎えた夜、家族で地域の氏神様に初詣に出かけたね。  君の白猫は家族が留守の間こたつの中で電気コードをおもちゃにして遊んでいた。  猫は誤って電気コードを噛んでしまい感電してしまった。  帰宅した君はその異変に気づき救い出された猫はなんとか一命をとりとめた。  だが猫は感電したショックで瀕死の状態だった。  猫の口腔内は焼きただれ、自力で食事をとることも排泄することすらできなかった。  それはすなわち死を意味していた。  獣医から、時間の問題だと死の宣告を受けた時、君は声を上げて泣いた。  その悲痛な叫びを聞いて猫も死を覚悟した。  だが君は諦めなかった。  死んだのも同然だった猫を、君は何とか助けようと必死だった。  君は獣医にアドバイスをもらい、来る日も来る日も昼夜問わず猫の看病をした。  時間ごとに砂糖水や塩水、ミルクなどスポイトを使って懸命に飲ませ、排泄の世話もしてあげた。  学校に行かなければならない君は、自ら学校に事情を話し昼休みは必ず帰宅すると、猫の看病をして再び登校した。  長期にわたる看護は決して楽なものではなかっただろう。  それでも君は、雨の日も雪の日も嵐の日だって愚痴一つ零さず、猫のために献身的に看護した。  だから猫も君に応えようと生きたいと必死に願った。  君の献身的な看護の努力は実を結び、ついには奇跡が起きた。  猫はとうとう自力で立ち上がることができた。  君はその綺麗な瞳を潤ませながら『頑張ったね』と猫の頭を優しく撫でその 胸に抱きしめた。  猫は君に応えたかった。その笑顔が見たかったから。  君の看護のおかげで、猫は少しずつ時間をかけて回復していった。  猫は願った。  今度は君を守ってあげたい。  君を幸せにしてあげたい。  ずっと君の傍でその笑顔を見ていたい。  何度生まれ変わっても君に巡り合いたいと。  強く、強く、願ったんだ。  それは、猫の儚い夢でもあった―― 「……あの時、ミィが生きていてくれて本当に嬉しかった。でも……今回はどうすることも……どうしてやることもできなかった……。ねぇ、深彗君、どうしてその話を知っているの?誰にも話したことのないその話を、どうしてあなたが……ねぇ、どうして?」 「君が高校一年生の三月のあの日……」  草木は芽吹き野原では色とりどりの花が咲き乱れ春の訪れを歓迎しているようだった。  自宅に隣接する広い空き地で白猫ミィは日中を過ごすことが多かった。  ミィは花の香りを嗅いだり、ひらひらと舞う蝶々を追いかけたり、小鳥を狩る遊びをしながら君が帰宅するまでの時間を過ごしていた。  ミィが動くたびに、首に巻かれた鈴の優しい音色が辺りに響き渡った。  また、うららかな春の陽だまりの中で、誰にも邪魔されることなく微睡(まどろみ)みながら夢うつつに君を想った。  太陽がてっぺんから傾きあたたかな日差しが弱まった頃、眠っていたミィは突如宙に浮き何者かに抱きかかえられた。  次の瞬間ミィの目の前で重厚な鉄の扉が大きな音をたて閉まり、空間に閉じ込められたミィは慌てふためいた。  そこには君の母親もいて、こちらを見ていた。  大きな音とともに振動しやがて空間は動き出した。  見たこともない景色が流れるように目まぐるしく変わっていった。  ミィは恐怖を覚え、外に出ようと必死に空間の中を右へ左へと駆けては辺りを見回したが脱出することができなかった。  君の母親はそんなミィを見て大声で怒鳴りつけた。 『ちょっと!危ないじゃない!馬鹿猫!』  ミィはその声に煽られパニック状態に陥った。  どのくらい経ったのだろうか。  再び重厚な鉄の扉が開かれたその瞬間、ミィは脱出することに成功した。  ミィは君のもとに帰りたい一心で駆け出した。  遠くから大きな騒音が響き渡り、こちらに近づいてきた。  次の瞬間、衝撃音とともにこれまで感じたことのない激痛に全身包まれた。  ミィはトラックに跳ね飛ばされ道路わきの茂みの中に転がり落ちた。  息をするのも苦しく、その場にうずくまった。  日も沈み辺りがすっかり暗くなった頃、自分の名を呼ぶ君の声がどこからともなく聞こえてきた。  ミィは君のもとに帰りたかった。  動物の本能で自宅を目指した。  起き上がろうとしても全身の激痛でどうにもならなかったが、それでもミィは立ち上がり、渾身の力を振り絞り歩き始めた。  よろよろと数歩進んでは倒れ、また起き上がると歩き出す。  君と離れ離れになったのはこれが初めてだった。  君が待っている……  いつものように君を迎えてあげなければ……  君を守ってあげなければ……  ミィは己を奮い立たせた。  君に会いたい……  君のもとに帰りたい……  君の温もりに触れたい……  君の笑顔が見たい……  だがその思いも虚しく、とうとうミィは力尽きその場から動くことができなくなった。  そこを自転車で通りかかったとある少年が、瀕死の状態のミィを発見し保護した。  その少年は背中のリュックの中身を空にしてミィを入れると動物病院へ急いだ。 『すみません!道で猫がうずくまっていました!診てください!』 『ああ、これは酷い……交通事故に遭ったに違いない。もう助からないかもしれない』 『苦しんでいます!何とかしてあげてください。首輪もしています。きっとどこかで飼い主がこの子の帰りを待っているはずです。お願いします!』 少年は頭を下げながら、獣医に必死に訴えかけた。 『そこまで言うのならば、わかった……できるだけのことはしてみよう』 『ありがとうございます』  少年は深々と頭を下げた。  処置する間少年は待合室で待機していると、看護師に声をかけられた。 『まだ時間がかかりそうだから帰っても構いませんよ』 『連絡先だけこちらに記入してください』 「ミィは病院を受診したのね……それで、あの子は今どうしているの?」 「瀕死のミィを心優しい少年が救出したが既に手遅れだった。ミィは君に再会することなく息絶えた」 「……そう……そう、だったのね……可哀想なミィ……傍に居てあげられなくてごめんね……私が悪いの、私がミィを不幸にした……私と出会ったりしなければ……深彗君、私の知らないミィの最期を教えてくれてありがとう……」  プッ……プッ……プッ……プッ……プッ…… 「先生、この子は今どんな状態でしょうか……」 「事故で受傷した部位は回復しつつあります。レントゲン、CT、 MRI、心電図、脳波、血液検査等できる限りの検査をした結果、これといった異常は見られませんでした」 「そうですか、ではよくなりますよね。それと、この子は今薬で眠っているのですよね」 「否、そのような薬は一切使用していません」 「え?どういうことですか?もう二か月もこの状態ですよ!先生!この子はいつ目を覚ますのでしょうか?」 「……それなのですが、よくわからないのです」 「それは、どういうことですか?」 「患者は今植物状態とも言えますが、植物状態に至る要因をこれまでの経過まで追って探りましたが、分かりませんでした。先程述べたように新たな検査結果からもこれ程までの昏睡状態に陥るような異常な所見は全く持って見当たりませんでした」 「じゃあ、この子は……」 「患者は既に覚醒していてもおかしくないということです」 「では、この子はどうして目を覚まさないのでしょうか……」 「それなのです……これは、あくまでも私一個人の憶測にしか過ぎないのですが……患者自身の潜在意識の中で、ある種の心理状態が作用し覚醒を妨げているのではないかと。何か思い当たる点はありませんでしょうか。場合によってはこのまま目が覚めない可能性もあります。これにおいては精神科に依頼しましたので後日担当医から説明があるでしょう」 「そんな事って……」 「――やか……彩夏……」  朦朧とする意識の中、自分の名を呼ぶ優しい声音。  薄っすらと目を開けると、視界には澄んだ夜空に星が(またた)いているのが見えた。  彩夏は起き上がろうとするが、全身に激痛が走って思うように身動きが取れなかった。  冷たいアスファルトの上に視線を移すと、その先に横たわる深彗の姿があった。  深彗は真っすぐに彩夏を見つめていた。 「彩夏……」  深彗はアスファルトの上を這うように少しずつ彩夏の方に移動しているようにも見えた。 「深彗、く、ん……」  彩夏は肩で浅い呼吸をすると、か細い声で返答するのがやっとだった。   彩夏は薄れ行く意識の中で、深彗が自分を庇い共にトラックに跳ね上げられたことを思い出した。 「ダメ、だ、よ……深彗、君……動いちゃ、ダメ……」  深彗のその姿を見て、彩夏も痛みを堪えて地面を少しずつ這いながら移動する。 「彩夏……ごめん……」  深彗の手が彩夏に向かって伸ばされるが、その手は彼女に届かない。  彩夏も痛みをこらえて手を伸ばすが深彗の手を掴むことができなかった。  歯を食いしばりながら体を(よじる)ように地を這った。  互いの指先が触れると深彗は彩夏の手を強く握りしめた。  深彗の陽だまりのようなぬくもりが彩夏に伝わってくる…… 「彩夏……守ってあげられなくてごめん……」  深彗の悲しげな表情に彩夏の胸は締め付けられた。  彩夏は、そんなことはないと大きくかぶりを振ってみせた。 「……深彗、くん……謝ら、ないで……わ、るいのは、私、ごめん、なさい……」  ミィを失った絶望感と深彗に怪我を負わせてしまった罪悪感が彩夏の繊細な心に重くのしかかり、深淵のような深い悲しみにのみこまれていった。 「彩夏……これ、覚えているかい……」  深彗はポケットからあるものを取り出すと彩夏の目の前で見せた。 「そ、れって……」  彩夏はあまりの驚きに、夢でも見ているかのように感じられた。  繊細な音色が耳の鼓膜を伝って心の奥底まで響いてくるようだった。  ……リーン、シャラリーン……  それは彩夏がミィの首輪につけた鈴だった。 「そうだよ、君が、ミィにつけた鈴だよ……」 「どう、して、ハァ……そ、れを……深彗が……ハァ……」   彩夏はミィの首輪にそっと触れると、潤んだ瞳から温かな滴が零れ落ちていった。 「実は……」深彗がそう言いかけたその時だった。 「ゲホッ!ゴホッ!」  彩夏は突如むせ込み深紅の薔薇のような血を吐き、真白なシャツを赤く染めていった。 「彩夏?彩夏!彩夏――!!」  悲鳴にも似た深彗の悲痛な叫びは瞬く夜空に吸い込まれていった。  愛する人が自分の名前を呼ぶ声は、薄れゆく意識の中で遠く、遥か彼方に霞んで消えていった。  ここは……どこ?深彗君?  暗く冷たい海の中  彩夏は手繰(たぐり)寄せるように手を伸ばしその温かな手を探した  どこ?どこにいるの?深彗君……  深い 深い海の底へ  どこまでも どこまでも果てしなく沈んでいく  ああ このままずっと永遠に 独りぼっちの私……  でも、これでいい……これで……いいんだ……  暗く冷たい海の底  彩夏はただ一人 その瞳をゆっくり閉じた 『それと、これ、お持ちになりますか?』  それは、処置のために外されたミィの首輪だった。  その首輪には白い鈴がついていて、その鈴の音はこれまでに聞いたこともないほど美しく、心に染み入る優しい音色を響かせた。  少年はその首輪を受け取とるとその動物病院を後にした。  その首輪の鈴は揺れるたび、繊細な音色を響かせた。   もしも願いが叶うならその願いはただ一つだけ  もう一度 君のその笑顔を見てみたい  それは、白猫ミィの儚い夢だった。  心残りだったミィの魂は銀杏地蔵に救いを求めた。  それは何の前触れもなく訪れた。  ミィが事故に遭い息絶えたその頃、なんと不幸にもミィを保護してくれた少年が突如、心肺停止状態に陥った。  その少年の魂が肉体を離れた時、入れ替わるようにミィの魂は少年の肉体に宿った。  しかし、皮肉にも少年(白猫ミィ)は、そのすべての記憶を失っていた。  それでも、少年に生まれ変わった白猫ミィは再び君に出会うことができた。  出会った頃の君は、悲しみの沼に沈んでいた。  笑うことを忘れ、夢も希望も見出すことができない君は失望の日々を送っていた。  だから少年は君を守ってあげたかった。  傍で君に寄り添ってあげたかった。  君の苦しみを取り除いてあげたかったんだ。  いつしか君に心惹かれていく少年は、君に恋をした。  そんなある日、少年はこれまでの記憶が蘇りそのすべてを思い出したんだ。 「深彗君、あなたはどうして私の知らないミィのことを知っているの?私しか知らないことまで……」 「あなたは一体何者?」 「僕は……」 「ひょっとして……深彗君、あなたは……」 「……やっと……気づいてくれたんだね。そうだよ、僕は、深彗(ミィ)だよ……」  「深彗君が……深彗(ミィ)?」 「そうだよ……僕はミィなんだ……」 「嘘みたい……ミィ……私、あなたに……ずっと、ずっと会いたかった……」 「僕もだよ……彩夏……」  プッ……プッ……プッ……プッ……  規則正しい電子音は止まることなく一定のリズムを刻む。  モニターに表示される基線はその形を変えることなく、直線と波形からなる形を繰り返し描いている。  一定のスピードで滴下する滴は、窓から差し込む陽光に乱反射し煌めきを放っていた。  美しく澄んだ瞳は長い睫毛に覆われ、青白く整った美しい顔立ちは人形の如く微動だにせずただそこに横たわっている。  その手をとるとあたたかい。  互いの指を絡めるように手を繋ぐと両手で包み込み、祈るように額に押し当てた。  シーツの上にポタリ……ポタリと銀色の雨が止めどなく降り注いでいく。 「目を覚ますんだ……彩夏……」 「彩夏……」 ――自分の名を呼ぶ懐かしい声 「彩夏……どこ?」 ――優しい声音は私を探している 「どこだ?どこにいる?隠れていないで出ておいで」 ――ふふふ。かくれんぼしているみたい 「見つけた!」 『深彗君?どうしてここがわかったの?』 「僕は君がどこにいようとも見つけ出すことができる」 ――そうだった。あなたはいつだって私を見つけ出してくれる…… 「彩夏、そんなところで何しているの?早く出ておいで」 『うん……でもね……』 「彩夏、僕たちが初めて出会った時のことを覚えているかい?」 『銀杏地蔵で深彗君を痴漢と間違えて蹴飛ばした……』 「そうだったね、あれはあれで酷かった……君との出会いはいつだって衝撃的だ……」 『酷いことして、ごめんなさい……』 「彩夏……銀杏地蔵の昔話を覚えているかい?」 『覚えているよ。深彗君が創作した、とても悲しい物語』 「そう……とても悲しい……君と僕との物語……」 『どういうこと?』 「信じられないかもしれないけれど、僕は何度も何度も生まれ変わり君に寄り添ってきた」 『ああ、やっぱり……あの夢は……本当だったのね……』 「夢?」 『うん、あなたの夢……雪降る寒い夜、凍える私をあなたはあたためてくれた』 「……でも、君を救うことはできなかった……」 『ううん、そんなことないよ。ちっとも寂しくなんかなかったもの……』 「あの豪雨の日……濁流の中、僕は君と出会った。僕は生きながらえることができた……君の命と引き換えに……」  君との初めての出会いは……・辛い別れでもあった。  その後、僕は何度も何度も輪廻転生し、君のもとへやってきた。  君が寒さで凍えている時、僕は君を温めた。  君が悲しみに打ちひしがれている時、僕は君に寄り添った。  君が食料に困り飢えてしまいそうな時、僕は食べ物を運んだ。  そして君が一人ぼっちでこの世を去る時、君が寂しくないように最期を看取った。  だけど、君は何度生まれ変わっても悲しみの中にいた。  だから僕は君の幸せを心から願った。  君を幸せにしてあげたい……そう願った。  いつしか僕は君に恋をした。  実らない恋だとわかっていた。  それでも僕は君を想い続けた。  永遠に叶うことのない願いだということもわかっていた。  それでも僕は君のことが好きだったから。  君だけをずっと見つめてきた。  君の幸せだけを願って。  抱えきれない程の愛を。  精一杯の愛を。  その全てを惜しむことなく君に奉げた。  僕には願いが一つだけあった。  幸せそうな君の笑顔を見てみたいと……  ただ、それだけでよかった…… 『深彗君……あなたは長い間私を助けてくれていたんだね。今までありがとう……無償の愛を与え続けてくれて本当にありがとう。こんなにも幸せだったのに、なぜもっと早くに気づかなかったのかな……でも、もう遅いや……』 「遅くなんかない。僕は君を迎えにきた。さあ一緒に帰ろう……」 『ダメなの、私には居場所がない。私は母に愛されていない……そんな私は誰からも愛される価値がないの。私なんかいなくなったって、悲しんでくれる人なんかいないの』 「彩夏……思い出してごらん。いつも君を見守っている人達のことを……君のおばあちゃんだって、クラスメイトの本田由実さんや、村田佳奈さんだって皆君の味方だよ。そしてこの僕も……君のまわりには、こんなにも君を愛している人達がいる。君は一人じゃない……それを忘れないで」 『ずっとそうだった……これまでもずっと、ずっと独りぼっちだった。愛されないのは自分が悪いの。愛されたければ言いなりになるしかないの。そうするしかなかった。そう、生きるために……でも、ここに居ればもう苦しむことはないから……』 「可哀想に……きっとあまりにも辛い前世の出来事がトラウマになってしまったに違いない。君は、潜在意識の中で自身に暗示をかけてしまっている。人は自己イメージの範囲内で生きていこうとするから、君自身が思っているイメージのままにとどまろうと潜在意識が認識してしまうんだ」 「彩夏……未来のなりたい自分を想像してみて。そしてそれはきっと実現する。未来の自分はこうありたいと、強く、強く願うんだ。まずは自分を信じる勇気を持って、その一歩を踏み出してごらん」 『なりたい自分?こんな私でも夢を抱いてもいいの?』 「いいんだよ……君は幸せになるために生まれてきたのだから……」 『私、幸せになれるの?』 「なれるよ。自身にかけた呪縛を解くために心を開放してごらん。そしたら、君は新しい自分に生まれ変わることだってできるんだ」 『でも怖い……また傷つくことが怖いの……だから、もういいの……これでいい』 「彩夏……君がこんなにも僕のことを思っていてくれたことが本当に嬉しかった。僕は君に出会えて幸せだよ。僕は君のことが好きだ。これからもずっと君を守るから……君の傍でずっと笑顔を見ていたい……だからお願いだ、彩夏……」  深彗の両手が彩夏に向かってさし伸ばされる。 「さあ、勇気を出して……奇跡を起こそう」  彩夏は暗い海の底から深彗の声のする方を見上げると、恐る恐る手を伸ばしジャンプするようにその一歩を踏み出した。  彩夏は暗い海の底からゆっくりと浮上する。  深彗は彩夏の手を掴むと引き寄せ、そして彼女をきつく抱きしめた。  二人は互いにきつく抱き合い、溢れる涙は輝く虹の泡となって二人の進むべき道を照らしていた。 「彩夏……ありがとう……もう、二度と君を離さない」 『深彗君……』      彩夏は突如目も開けられない程の眩しい光に包まれた。  遠くから小鳥のさえずりと聞きなれない電子音が聞こえてくる。 「ん……」   とても長い夢を見ているようだった。  目を開けると見たこともない真っ白な天井が視界に広がった。 「ここは……?」  よく見ると身体からコード類やチューブのようなものがいくつもつけられていた。  起き上がろうとしても体に力が入らず思うように動けない。  なんとか起き上がろうと奮闘しているところに突如白衣を来た女性が現れ、目が合った。  女性は、目をまん丸に見開き、口をパクパクさせながら声を上げた。 「だ、誰か、来てー!早く!家族に連絡を!」 「深彗君どこ?どこにいるの?」  目覚めた時、深彗の姿はそこにはなかった。
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