第十章  親愛なる君へ

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第十章  親愛なる君へ

「今、ご気分はいかがですか?早速ですが、あなたの名前を教えてください。ここが何処か分かりますか?私たちは何をする者か分かりますか?今は何年何月ですか?」  佐伯と名乗る三十代の担当医師と数人の看護師にとり囲まれながら尋問のように次々と質問された。  彩夏は人見知りしつつも一つ一つ質問に答えていく。 「意識レベルは問題ありませんね」 「事故に遭われた時のことを覚えていますか」  医師からの質問に彩夏は記憶を呼び起こした。 「道路に飛び出したところまでは覚えています。その後のことはよく覚えていません」  その後も運動機能の検査を行い医師から異常なしと説明された。  そこへ、両親と祖母が駆け付けた。  祖母は彩夏を見るなり泣き崩れ、父は彩夏を一瞥すると床を見つめていた。   母は彩夏を見ることなく医師に挨拶すると、家族はどこか別の場所に案内されその場からいなくなった。  彩夏の心の内は複雑だった。家族にどう接していいのか分からなかった。    そこへ突如警察の人がやってきて事情聴取された。  トラックの運転手は彩夏が自殺を図ろうと道路に飛び出したと説明したという。  どうして深夜に家を飛び出したのか、どうして自殺を図ろうとしたのか、あの日何があったのか警察に質問された。  彩夏は自殺を図ったのではないとあの時の状況を追って説明した。  すると警察から「他にも何かあったのではありませんか」と鋭い質問がされた。 「あなたが小学生の低学年の頃、虐待の可能性があると警察に通報が入りあなたを保護するために警察が向かったことを覚えていますか?」  警察に本当のことを話してしまったら、これまでの暴行、虐待の事実があかるさまとなり、両親が逮捕される可能性だってある。彩夏はどう答えていいか逡巡した。  彩夏が幼いあの時も今回のように酒に溺れた父に暴力を振るわれた。なぜか警察が駆けつけ彩夏の保護を求められたが、母が夫婦喧嘩をご近所さんが勘違いしたのだろうということで揉み消されたことがあった。 「本当のことを話してくれませんか。これはあなたのためでもあるのですよ」  警察は彩夏に詰め寄った。 「……」  夕暮れ時の空のように心が次第に暗く沈んでいくのを感じた。 「あなたは幼い頃から両親から虐待を受けていたのではないのですか?」 「……」 「あの日一緒にいた少年は、何も答えてはくれませんでしたが」  彩夏はハッとして顔を上げた。 「一緒にいた深彗君は、彼は、どうなったのでしょうか。怪我は?無事ですよね!」 「あの少年はあなたを庇った際一緒にトラックに跳ねあげられました。あれだけの衝撃を受けて打撲と擦過傷で済んだんだ。奇跡としか言いようがない。彼は道端の植え込みに着地し無事だった。あの少年がいなかったらあなたはおそらく死んでいたでしょう」 「そうでしたか……深彗君が無事で……無事で良かった……」 「だた、あなたのご両親は、あなたがあの少年にそそのかされて家を飛び出し事故に遭ったと話されていましたが……それは本当ですか?」 「え!そんなことはありません!私が勝手に家を飛び出しました!深彗君は何も悪くありません!悪いのは私です、私が彼を巻き込んでしまったのです!」  恐れていた最悪な事態となっていた。 「そうですか……もしそれが本当だとしたら、その少年は気の毒ですね。そう思いませんか」  自分を探し出し助けてくれた深彗にこれ以上迷惑をかけるわけにはいかなかった。 「……あの日……」彩夏は本当のことを語ろうとしていた。  そこへ説明を聞き終えた両親と祖母が病室を訪れた。  病室内に緊張感が張り詰めた。 「それについては、私が話します」  母が口挟んできた。 「今、娘さんにお話を伺っているところですが……」  母はまた今回のことを揉み消そうと目論んでいるようだった。 「全ては……私が悪いのです……私は長いことこの子を苦しめて参りました……」  母の意外な言葉に彩夏は驚きを隠せなかった。 「私はダメな母親です。娘は……私の子と思えない程いい子です。ええ、親馬鹿だと思って聞いてください。この子は実に素直で、誰に対しても思いやりがあり、優しくて、人を疑うことを知らないほど純粋で、正義感が強く、時に勇敢で、我慢強い子です。弱い私は、そんな娘に甘えていたのです。この子は、どんなにきつく当たろうが、冷たくあしらおうが私を嫌うことなく信じてくれていました。完璧な子なのです。私はそんな我が子に劣等感を抱きました。私はこの子に見透かされているようで怖かった。お前はダメな母親だと言われているような気がして……この子はとても繊細な子です。私は傷つくとわかっていながらも、この子を精神的に追い詰めることで自分の心のバランス保ってきました。それがいけない事だとわかっていながらも、やめられなかったのです。私は酒に酔った夫を利用しこの子を幼き頃から虐待してきました。それなのに、この子はお母さん、お母さんと私を慕い追いかけてくる……。大きくなっても逃げることなくこんな私を庇うのです。そんな娘を見ていると罪悪感に苛まれました。この子への罪悪感は別の形となって大きく膨れ上がり、あの日も私たち夫婦は娘に暴力を振るいました。私は娘から全てを奪いました。この子が大切にしていたものを全て。心も踏みにじり傷つけました。あの日それに耐えきれなくなった娘は家を飛び出したのです。そうです、私があの子を追い詰めました。これが真実です」  母の衝撃的な告白に彩夏は言葉を失った。 「彩夏さん、今の証言は本当でしょうか」 ――母に愛されたかった私は、結果的に母を追い詰めていた 「……今後両親はどうなりますか」  警察は両親を逮捕するつもりなのだろうか。一度は許せないと憎んだ母。  だが、こんな人でも母親には変わりなかった。母の本音を聞いた今、なんて可哀想な人なのかと、ただそれだけだった。 「もし真実であれば、暴行罪、傷害罪で処罰されるでしょう……」 「……」  それをきいて彩夏は何も答えることができなかった。 「間違いありません」母は項垂れるように頷くと「私は罰を受けて罪を償います」涙ながらにそう言った。  両親は振り返ることなく病室を後にした。  母は病室の入り口で足を止め振り返った。「今まで苦しめてごめんなさい。こんな私を許さないで……」  これまでの母とは別人のようだった。母がとても小さく見えた。これが本当の母の姿だと、そう感じた。  これまで辛い思いをした日々は忘れ去ることは出来ない。  だが、母もまた別の苦しみの中にいた。  彩夏は顔を上げ、母を真っすぐに見つめると、「お母さん……」と言って続けた。 「あなたは私にとってただ一人のお母さんだから……」   彩夏のその言葉に母はその場で泣き崩れた。父も泣いているようだった。  彩夏はこう続けた。 「あの日も、これまでも虐待なんてなかった」 「あなたは両親からの報復を恐れているのではありませんか」 「私は何も恐れてなどいません」  彩夏は警察にきっぱりと言い放った。  警察は両親を冷ややかな眼差しで睨みつけると「実にいいお子さんだ、さぞかし自慢の娘さんでしょうね」そう言うと病室を後にした。  愛は見返りを求めず与えるもの  見返りを求める愛は奪う愛  与える愛と奪う愛  愛は欲しがるものでも奪うものでもない  欲しがるだけの愛は時として残酷で  奪うだけの愛は心貧しくなるばかり  見返りを求める愛は不満を抱く  ただ相手の幸せだけを願う愛は  見返りを求めることのないその愛は  許し許される中で育むその愛は  見放すことのないその愛は  自己犠牲をもいとわないその愛は  究極の自己実現という名の 無償の愛  無償の愛は  与えられし者に  愚かであったと気づきを与えた 「ねぇ、おばあちゃん、私目が覚めないほうがよかったのかもしれない……」  彩夏は悲しげにそう呟いた。  祖母は彩夏を強く抱きしめながらこう言った。 「そんなことは言ってはいけないよ。皆あなたが目覚めることを願っていたよ。あなたはこれから幸せになるの」 「おばあちゃん……」 「それにね、あの男の子、深彗君だっけ?毎日面会に来てくれてね……あなたに話しかけてくれていたわよ。なんていい子かしらね……ふふふ」  祖母は柔らかな笑顔で彩夏を見つめた。 「深彗君が面会に来てくれたの?」 「そうよ……」  そこへ受け持ち看護師が訪床し会話が聞こえていたのかその話題となった。 「彩夏さんは眠っていたから知らないでしょうけど、あのイケメン君は毎日面会終了時間まであなたと過ごされて帰るのですよ。ひょっとして彩夏さんの彼氏さんですか?」  彩夏はその言葉に反応し頬はわかりやすいほど紅潮すると視線を泳がせた。 「水星君でしたっけ。彼は凄いわね。家族や看護師がいても気に留めることなく、あなたの手を握って沢山話しかけていたわよ。そしてね……これ話しちゃってもいいのかな……帰り際に必ずあなたの額や頬にキスしていくのよ~。も~見ていてこっちが恥ずかしいくらい。覚えてないなんてもったいない~!彼、今日も来るわよ~彩夏さんを見たらさぞかし驚くでしょうね~」  彩夏は穴があったら入りたい心境だった。 「それだけど……深彗君はもうここには来ないよ。なんでもお父さんが体調崩したとかで急遽アメリカに帰国することになったそうよ……昨夜あなたに会ってから帰ったのよ。あ、そうそう、それでね、手紙を預かったの。あなたが目覚めたら渡して欲しいって。この手紙だよ」  なんという運命のいたずらだろうか。二か月ぶりに覚醒したというのに、二人は会えずして離れ離れになってしまった。  彩夏は、祖母から手紙を受け取った。  その時、彩夏は強い頭痛を覚えた。 「大丈夫ですか?覚醒したばかりなのに頭を使い過ぎたのかもしれませんね。医師に報告してからお薬を用意して参ります。少しお休みください。その間何かあったらナースコールしてください。では失礼します」  看護師はそう言うと足早に病室を退室していった。 「無理をしないで少し休みなさい」  深彗の手紙の内容が気になったが、言いつけ通りに少し休むことにした。  彩夏は再び覚醒すると、病室の窓辺から煌々と差し込む月明りに包まれていた。  月の光はなぜか太陽のようにあたたかく感じられた。  彩夏はまだ夢の中を彷徨っているような気がして、夢と現実の区別がつかなかった。  ふと病室の窓から空を見上ると、澄み切った夜空にはひときわ大きな満月が燦然(さんぜん)と輝いていた。  彩夏は思い出したかのように深彗からの手紙を手にすると、月明りの中で手紙に目を通した。  親愛なる 彩夏へ  この手紙を読んでいるということは、君は覚醒したということだね!  君はついに奇跡を起こした!  ただ、僕は君の傍にいられないことがとても残念だ……  君は寂しい思いをしていないだろうか  悲しみに押しつぶされてはいないだろうか  一人ぼっちで泣いていないだろうか   泣き虫で強がりの君のことが心配だ  僕の頭の中はいつだって君のことでいっぱいなんだ  ああ、今直ぐにでも君に会いたい  君の笑顔が見たい  そして、君を抱きしめたい……  彩夏、いつか二人で見た満月を覚えているだろうか  地球のどこから見ても同じ月を見上げて、僕は君を想う……  どこにいても僕たちの心はいつも一緒だよ  僕は君を愛してる  彩夏、必ず君を迎えに行く  だから、それまで待っていてくれないか  約束だよ  あと一つだけ我儘を言ってもいい?  手紙を書いてくれないか?楽しみにしている                          水星深彗  深彗に会えない寂しさはあったが、二人の想いは固い絆で結ばれていた。  彩夏は手紙を胸に月を再び見上げた。  その柔らかな頬には、月の滴のように煌めく涙が幾重にも零れ落ちていった。  彩夏は深彗に手紙を書いたが返事はこなかった。  彩夏が書いた手紙が戻ってこないということは、深彗のもとに届いたと信じて返事を待つことにした。  彩夏は高校三年生に進級し、深彗のいない新学期を迎えていた。友達もでき以前に比べ明るく活発になった彩夏だった。  まだ深彗からの手紙は届くことはなかった。それでも彩夏は深彗との約束を守り手紙を書き続けた。  深彗がアメリカに帰国してから四年以上の月日が経過していた。  アメリカの大学に通う深彗は夏休みに入り実家へ帰省していた。  深彗は両親に依頼された自宅の模様替えの手伝いをしているとあるものを見つけた。  ――どうしてこれがここに……  それは、ひとくくりにされた大量の手紙で深彗が彩夏宛てに書いたものだった。 『あら深彗手紙を書いたの?私が投函してあげるから預かるわ』 『じゃあ、お願い』  そこには束になった未開封の日本からのエアメールも見つかり深彗は思わず息を呑んだ。  それは深彗宛ての手紙だった。 ――彩夏?君なのか?  深彗は逸る気持ちを抑えて手紙を開封し内容を改めた。  彩夏は深彗が帰国した翌朝に覚醒したことを今になり知ったのだ。  どうしてこんなことになったのかと、やるせない気持ちが込みあげてきた。 「母さん、これは一体どういうことだ!」  深彗は母親を問い詰めた。 「あんな碌でもない子、あなたには相応しくない。もっと自分に見合った人とお付き合いしなさい」 「どういう意味?」 「あの子はあなたを事故に巻き込んだ。それにあの子虐待を受けていたでしょ。日本人も野蛮になったものだわ」 「どうしてそのことを母さんが知っている?」 「妹に調べさせたのよ。そんな野蛮な家の子と縁が切れてよかったわ」 「母さん、そんな理由で僕の手紙を投函しなかったの?なんてことをしてくれたんだ!」 「そうよ、あなたのためよ、分かってちょうだい」 「彼女からの大切な手紙を隠すなんて、母さん最低だ!あなたを軽蔑する!」 「どうやらあの子も諦めてくれたようね。それより今の彼女とはどうなの?」 「……もうやめてくれ……」  深彗は壁を拳で殴りつけた。  深彗は彩夏の自宅に何度か国際電話をかけたが繋がらなかった。  手紙を書いたところで、それが彩夏のもとに届くとも思えなかった。  深彗は居ても立っても居られずとうとう日本を訪れることにした。  あれから四年以上の月日が経ち、彩夏が今どうしているのか全くわからなかった。  日本に到着すると彩夏の自宅を訪れた。  彩夏と再会を果たせなかったが、彩夏の祖母と会うことができた。  彼女は今東京の大学に通っていることが分かった。  彩夏の連絡先を教えてもらった深彗はその日のうちに彼女の大学を訪れた。  彼女を驚かせようと連絡をとらずに、彼女の大学のキャンパス内でこっそり待つことにした。  四年ぶりの彼女との再会に深彗は胸が高鳴っていた。  暫くキャンパス内を散策していると、彩夏らしき女性の姿を見つけた。  深彗の心臓はドキリと音をたて、雷に打たれたような衝撃を受けた。  もともと容姿端麗の彩夏は大人になった今、以前にも増して周囲から目を引くほど美しく成長していた。  手足が長く華奢ですらりとした体系の彩夏は、透通る白い肌、琥珀のような艶やかな美しい髪は毛先が緩く巻かれていて、今日本で流行りのファッションに身を包み、知性や上品さを感じさせる雰囲気を纏う彼女は洗練された都会の大人の女性に変貌していた。  その美しい姿に深彗は心を鷲掴みにされた。 「彩夏~ちょっと待って~!」  友達だろうか。活発な印象の一人の女性が彩夏を追うように駆けてきた。  彩夏はその女性を見るとひまわりみたいに微笑んでいた。 ――君が笑っている……  彩夏は女性と肩を並べて歩き出し、その間彩夏はずっと微笑んでいた。  深彗は愛でるような眼差しで彩夏を見つめた。  そこへ二人の男性がやってきて彩夏たちに話しかけていた。彩夏は困惑の表情を浮かべ俯くと、もう一人の女性は大きなジェスチャーで首を横に振っていた。  彩夏が気のない男性にする態度だと深彗にはすぐに分かった。昔から変わることのない彼女に安堵した深彗だった。  それでも男たちは彩夏にしつこく詰め寄ると、彩夏は両手のバッグを握りしめながら後ろにじりじりと下がり始めた。彼女は完全に男たちを警戒しているようだった。  深彗は彩夏を助けようとした瞬間その足が止まった。 「彩夏!」  彼女を呼び捨てする体育会系の大柄な男が彩夏の元まで駆けてきた。  彩夏はその男の背後に身を隠すように回り込み、その男を見上げていた。  すると、二人の男たちは諦めた様子でその場を去っていった。  彩夏は男に頭を下げると、男は恥ずかしそうに顔を赤らめながら彩夏を見つめていた。  男は彩夏が女性と会話している間もずっと彩夏に視線を注ぎ、彩夏しか見えていないようだった。男が彩夏に気があることは見て分かった。では、彩夏は?  男はさり気なく彩夏の手から荷物を持つと、彼女もそれを許しているようだった。 ――つき合っているのか?  深彗の心臓が鈍い痛みを覚えた。  あの日以来連絡を取り合うことができなかった。四年の月日は、二人の間に大きな溝を作り上げていた。  深彗は彩夏に会うことなくキャンパスを後にした。 「あれ?どこ行ったのかな?」 「どうしたの?」 「さっきからずっとこっちを見ているイケメン外国人がいたけど、いなくなっちゃった」 「そんな人いた?どんな人?髪は何色?背は?顔は?」 「珍しく彩夏にしては凄い食いつき。髪はシルバー、背がすごく高くて、色白で、顔はとにかくめちゃめちゃカッコイイ、なんかモデルみたいな……」 「……まさか、居るわけないよね……」 「彩夏、その人と知り合いなのか?」 「たぶん、人違いだと思う……」  彩夏は辺りを見渡すがそのような人は見当たらなかった。  彩夏は携帯端末を確認すると、着信履歴に目がとまった。  不在着信のその相手に彩夏は慌てて電話を掛け直した。 ――何かあったのかもしれない 「もしもし?おばあちゃん?どうしたの?」 「彩夏?元気にしているかい?深彗君にはもう会ったかい?」 「え?今、深彗君って言った?」  彩夏の心臓がキュンと跳ね上がる。 「そうよ。まだ会ってないの?昨日突然深彗君が家に来て、彩夏に会いたいって言うから、あなたの連絡先を全て教えたよ。私はてっきりもう会ったのかと思っていたよ。日本には一週間ほど滞在すると言っていたよ。あと、深彗君の滞在先を教えるから……」 ――大学の友人が見たのはやはり深彗君……あなただったの?だったら、どうして私に声をかけてくれなかったのだろう    彩夏は深彗の滞在先を訪れることにした。  駅前広場で彩夏は足を止めた。  とても懐かしいその声音のする方に顔を向けると、少し離れたその先に深彗らしき姿を見つけ出すことができた。 ――深彗君?   彼は更に背が伸び、前髪を立ち上がらせたアシンメトリーの前髪、凛々しい眉、艶っぽい甘いマスクの彼はどこかハリウッドスターを彷彿させ、都会の街中でも目立つルックスとモデルのような出で立ちは美しいという言葉がまさにピッタリだった。  彩夏はそんな深彗に近寄りがたく声をかけることができずにいた。  彼は英語で誰かと会話しているようだった。  澄んだ声があの頃を色濃く思い出させてくれるようだった。  彩夏は別人のように成長した深彗に見惚れてしまい声をかけるタイミングを逃してしまった。  ややあって、背の高い黒髪の日本人離れした女性が現れ、深彗に飛びつくように抱きつくと彼の頬にキスをした。深彗もその女性を抱きしめると、頬にキスをしていた。  彩夏はその光景を目の当りにし、その場から動けなくなってしまった。  なぜだか突然涙が溢れ出し、その涙を止めることができなかった。  彩夏はその場に立ち尽くし呆然としていると、その相手の女性と目が合った。  ハッとして我に返った彩夏は思わず、建物の陰に身を潜めた。  建物の陰から二人の様子をそっと窺うと、女性はこちらを指さし深彗も視線を送ってきたため再び身を隠した。  深彗がこっちに向かって歩いてくるのが見えた。  彩夏の心臓の鼓動はスピードを増し息苦しいほどだった。  深彗に会いたくてここまでやってきたというのに、彩夏は彼から逃げるように場所を移動した。 「彩夏……」  深彗が自分の名を呼ぶ声が微かに聞こえた。 ――手紙の返事が届かなかったのは、こういうことだったんだね……てっきり 深彗君が迎えに来てくれたのかとばかり思っていた……私たちの恋は、もう……終わったんだね……  彩夏の胸の中は、ぽっかりと空っぽになってしまったように感じた。    彩夏は今日の出来事を思い出し感傷に浸っていると、突如携帯電話が鳴った。  相手不明の着信に一瞬逡巡したが通話ボタンを押すと携帯端末を耳に押し当てた。 「はい……」 『彩夏か?』  その瞬間、彩夏の心臓が高鳴った。  あの頃と変わることのない、優しく響くその声音。 「……深彗君?」 『そうだよ、彩夏!久しぶりだね!元気だったか?』  深彗からの電話が夢のようで、まだ信じられなくて。ああ、この日をどれだけ待ち侘びていただろうか。  心臓が早鐘を打つ。 「本当に深彗君なの?」 『そうだよ。……君の声をまた聞けて嬉しいよ……』 ――先程目の当りにしてしまった光景が脳裏から離れない 「うん……私も……」 ――あなたからの電話がこんなにも嬉しくて堪らないのに、私の心は泣いている 『君は、ついに奇跡を起こしたんだね!』 ――あの時の深彗君からの手紙、すごく嬉しかったよ 「うん、深彗君のおかげだよ」 『そして、ついに夢を叶えたんだね……』  彩夏は深彗と一緒に見た、美しい満月の夜のことを思い出した。 「うん……あなたが導いてくれたから……」 『彩夏……あの約束を……まだ覚えているかい?』 ――忘れたことなんてないよ。あなたが迎えに来てくれるってずっと信じて待っていたんだよ…… 「……うん……」 『そのことだけど……』  彩夏の胸がどきどき張りつめていく。 ――わかっているよ、深彗君……それ以上言わなくてもいいよ 「い、いいの……あの頃の私たちは、まだ子供だったし……」 『彩夏?』 「……」 『どうしたんだ?変だよ、彩夏』 ――だって、見てしまったんだもの…… 「わ、私のことだったら、気にしないで……」 『彩夏、君に話さなければならないことがある……今すぐにでも君に会いたい』 ――それを伝えるために会いに来てくれたのね……私たちはもう…… 「……」 『彩夏?なぜ黙ったままなんだ?ひょっとして……他に……好きな人でもいるの?』  怖かった。傷つく自分が。あなたの口から語られるその言葉が。ならば一層のこと。 「……深彗君……私たちの恋は、もう……終わったんだね……」 『彩夏?』 「……」 『もしもし?彩夏?一体どうしたっていうんだ?』 ――手紙書いたよ。あの後直ぐに。何通も書いた。でも、どうして返事をくれなかったの 「私だったら大丈夫……それより、深彗君が無事でいてくれて、本当によかった。あなたの声が聞けただけで、もう……。深彗君、今まで私のために、ありがとう……」 『彩夏!何を言っているんだ!』 ――あなたには私の心が届かなかった……ただそれだけのことだよね。ああ、そうだった……今のあなたには、私は必要ないのだから…… 「……さよなら……、ミィ……」 『待ってくれ!彩夏!』   彩夏は自ら通話を切った。  四年の年月は、遠く離れて暮らす若い二人には障害となった。  彩夏は深彗の口から残酷な言葉を聞く勇気がなかった。現実を受け入れることができなかった。傷つく自分が、自分から離れていく深彗が何よりも耐えがたかった。  それならばと、自ら傷つくことを選んだ彩夏。  彩夏はその場で泣き崩れた。  深彗はその後何度電話しても彩夏は電話に出ることはなかった。  深彗は彩夏の大学とマンションを何度か訪れたが会うことは叶わなかった。 『彩夏……僕から離れようとしないで……僕が君を守るから……』  深彗は彩夏ともう二度と会うことが叶わない、そう思うと悲しくてどうにかなりそうだった。  飛行機が滑走路を離陸する。深彗は絶望的な思いを胸にアメリカに帰国した。 「あなたが葉月彩夏さん?」 「はい、そうですが……」  深彗と抱擁していた女性が彩夏の大学を訪れた。 「あなた、この前駅前にいた子でしょ」 「……」 「ふ~ん、なるほどね……」  彩夏はその女性から値踏みするような視線を送られた。 「あいつを振った人が、どんな人か気になってね……」 「あの……」 「あいつ、ああ見えて一途だからさ。相当落ち込んでいたよ~この世の終わり的な顔をしていた」 「それってもしや、深彗君のことでしょうか」 「そうよ。あなた、あいつとどうして分かれたりしたの?別に好きな男でもできた?」 「そんな人はいません!今でも深彗君のことが……」  女性と目が合い、そう言いかけたところでやめた。 「あなたは……深彗君とお付き合いしているのではないのですか?……」 「ああ、やっぱり……そんなことだろうと思った。何やっているのよIdiot big brother(バカ兄貴)!」 「?」 「私、水星ひかり。水星深彗は私の実の兄よ」 「では、あれは……」 「そういうこと。あなた達って本当、世話が焼けるわね……」
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