第一章  出会った頃の君は

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第一章  出会った頃の君は

 小高い丘の上、こんもりとした小さな森に隣接するのは彩夏(さやか)の通う自然豊かな高校。  うっとうしい梅雨が明けたとたん、うるさいくらいにセミが一斉に鳴き始めた。  大合唱となったその鳴き声は校舎の壁に反響し、もはや騒音と化している。 「うるさい、うるさい、うるさーい!」  教室にいた三人グループの女子生徒たちの一人が、教室の窓から外に向かって大声をあげた。  教室の窓側の椅子に向かい合って座る二人の女子生徒たちは、下敷で扇ぎながら仲間の大声に反応して盛り上がっている。  彼女たちの声もセミに負けず劣らず、なかなかにしてうるさかった。  教室の真ん中の席で、机に頬杖をつきながら暑さにだらける彩夏はセミのうるささに全くその通りだと心の中で共感していた。  セミは寿命が短いというのにわざわざエネルギーを使い何故こんなにも鳴くのだろうか。寂しいから仲間を探しているのか。それとも、何か伝えたいことでもあるのだろうか。短い寿命だからこそ謳歌して鳴くのだろうか。  彩夏はそんなとりとめのない疑問に思考を巡らせると、「ふぅ」と深いため息をついた。 「彩夏~今日朝から何回目のため息よ~」  クラスメイトの本田由美(ほんだゆみ)は、本日何度目かの彩夏のため息を指摘する。  無意識ではあったが、朝からとは彩夏自身気づいていなかった。  由実はそういう所がある。彼女は人をよく観察している。否、よく気づくといった方が語弊はないかもしれない。  彼女は今年の春高校二年生に進級してから知り合ったクラスメイトだ。 彼女はどちらかというと学年でも悪目立ちするメンバーに所属しているが、実際いじめなど陰湿なことは決してしない子だった。  仲間意識が非常に強く友達思いの由実は、メンバーの異変に誰よりもいち早く気づくといつも迅速に対応している。  なかなかできることではないと、彩夏はいつも見ていて感心させられる。あえて彼女に言葉で伝えたことはないが、気配りの行き届くある意味とても凄い子だと感じていた。  彩夏はどちらかといえば孤高の一匹狼タイプ。  あえて人との間に壁を作り、人を寄せ付けない空気を醸し出しているというのに、彼女は恐れることなく何故かいつも彩夏のことを気にかけてくれる唯一のクラスメイトだった。  彩夏にはどこかのグループに所属しているという意識は全くない。  だが由実は彩夏に積極的に話しかけてきて、気づけば昼食も彼女の仲間に入って食べることになっていた。  おかげで、独りぼっちで食事するということは避けられた。  そう、実のところ由実は優しいのだ。  彩夏は教室の掛け時計に視線を送ると「ふぅ」と無意識にまたも深いため息をついた。  うるさいのはセミだけではない。  今日は夏休み前の三者面談だった。もうじき母が学校にやってくる。 「ほらまた!ため息ばっかりついていると幸せが逃げちゃうよ~」  由実は彩夏の前に立ち眉根を寄せながらそう言った。  奥二重で大きな垂れ目の彼女は可愛らしい顔をゆがませると、ただのクラスメイトにすぎない彩夏の世話を焼いてくれている。    ――私の幸せなんてとっくに羽が生えてどっかに行ってしまった。ここずっと一瞬たりとも幸せを感じたことなんてないのだから……  そう思うとなんだか自分が馬鹿らしく感じてきた彩夏は俯きながら思わず自嘲した。 「え?何、何?今の笑いは何の笑い?」  由実は敏感に反応し、セミロングの漆黒の髪をふわりと揺らしながら彩夏を覗き見た。  ハッとする彩夏。誤解を招いたかもしれないと思った彩夏は続けた。 「由実のかわいい顔が台無しだなって……」  彩夏は慌てて作り笑顔でそう答えると、由実は唇を尖らせむくれ顔になった。 「何よ~それ、思ってもいないでしょ。目が笑ってないし」  由実は呆れた顔をして彩夏から離れた。 「さてと、そろそろ帰ろうかな。彩夏はまだ帰らないの?」 「うん、この後三者面談だから……」 「なるほど。だからため息ばかりついていたってわけね。で、朝から?」  由実は目を大きく開き信じられないといった表情を浮かべた。  彼女には永遠に分からないであろう私の悩みだった。  彩夏はまたもや作り笑顔を浮かべ、手をひらひらと振り由実を教室から見送ってから再び時計に顔を向けた。時を刻む秒針になんだか追い詰められていくような気がした。  教室に担任の後藤先生がやってきた。 「皆、そろそろ面談が始まるから一旦教室から出るように」  教室にいた女子生徒たちは面倒くさそうに重い腰を挙げた。  担任は教室に設置してあるエアコンのスイッチを入れ、教室の窓を閉め始めた。 「先生、ずるーい!いつも使わしてくれないのに」  帰ろうとした女子生徒たちが一斉に不満を漏らし始めた。 「面談の日は特別だからな。ようのない奴は帰った、帰った」  彼女たちの言う通り本当にそうだと思った。普段は使わせてもくれないエアコンを親が来るという理由で使うなんて、結局学校も世間体を気にしているのだ。その点においては、外面のいい私の家族と何も変わらなかった。  担任は動物を追い払うかのようにしっしと手を動かし生徒を教室から閉め出した。  彩夏も一度退室しようと席を立ち荷物をまとめ始めた。 「お、葉月~お前はこの後面談だったな。で、お母さんは、そろそろ見えるかな」  担任は何か期待を含んだ表情と口調で話しかけてきた。それもそのはず、彩夏はその理由を知っていた。 「葉月、ちょっと手を貸してくれ」  面談のために机と椅子のセッティングを手伝わされる羽目となった。  エアコンの風が一番当たる中央付近に四つの机を向かい合わせると、再び教室の掛け時計を見上げた。  迫りくる不快な時がやってくる。間もなく母が到着する頃だ。  彩夏は一度教室を退室し生徒用玄関に母を迎えに行くことにした。  少しでも待たせでもしたら母の機嫌が悪くなる。想像しただけで、歩く速度が速くなっていった。  彩夏は生徒用玄関で母を待つことにした。  程なくして母が額に汗をかきながら現れた。  身長百五十九センチ、ややぽっちゃり体系、柔らかなくせ毛の髪はサイドをすっきりカットしたショートボブ、黒曜石の髪には銀色に光る白髪がところどころに入り混じる。  日焼けした健康的な肌色、眼光鋭い一重の釣り目、シャープな薄い眉、一文字にきゅっと結んだ唇。彩夏の母は一目で気性の激しさを感じさせ威圧的な雰囲気を纏っている。  彩夏と母親は赤の他人程、容姿も性格も似ても似つかぬ親子だった。  仕事中一時的に抜けだしてきたのだろう、黒いティーシャツにカーキのペインターパンツ、まさかの仕事着で現れた。  皆何気にどんな親か見定めているというのに、母は気にならないのだろうか。他の親は皆、小綺麗な装いで来校していた。  兄たちの面談の時は、いつも着替えて出かけて行った母を知っている。  彩夏の心の声が「ふう」と溜め息となって吐き出される。  彩夏はこれまでの高校生活を極力目立たないように過ごしてきたつもりだった。  これではかえって注目を浴びてしまうこと間違いなしだ。  思いが表情に出てしまっていたのか、母は彩夏を横目で睨みつけると、何事もなかったかのように持参したスリッパに履き替え歩き出した。 「ねえ、教室は何処なの」  不機嫌な表情で話す母の語気はきつかった。  彩夏はこの人が自分の母親だとまわりに知られたくないと思った。  彩夏は母と他人の振りをして後ろを振り返ることなく早歩きで先を歩いた。  彩夏のクラスは廊下の一番奥だ。  そこに行き着くには、他のクラスの教室前を通らなければならない。  その間すれ違う生徒たちに変な目で見られるのではないかと不安な気持ちになった。  彩夏は俯くと「こっちを見ないで、気づかないで」と心でそう願いながら廊下を歩いていった。  やっとのことで教室に着くと担任は母を笑顔で迎え入れた。  母は外面がいいため、教師の前では終始笑顔を絶やさず、私への眼差しも見たことのないものだった。  そんな母に対し、彩夏は背筋に氷を押し当てられたように、ゾクリとするのを感じた。  教師と対面する形で私と母が横に並んで座った。  普段この距離で母と並ぶことがないため落ち着かず、母に気持ちを悟られないように何度か居住まいを正し誤魔化した。  机の上には成績表らしきものと夏休みの注意事項等、複数のプリントが置かれていた。  まずは一学期の成績結果を伝えられた。  学年で上位の成績をとったにも関わらず、母は喜ぶどころかむしろどこか冷めた目で担任の話を聞き流しているように見えた。 「進路希望をお聞かせください」  担任は私と母それぞれの顔を見て質問してきた。 「君の進路希望は?」  突然担任に振られた彩夏は膝に置かれた手にぐっと拳を握ると、小さな声で答えた。 「し、進学……」 「就職です。娘は就職希望です」  母は彩夏の言葉を遮るように言葉をかぶせ、ピシャリと言い切った。  彩夏は母に気圧(けお)され、それ以上話すことができず俯くと押し黙ってしまった。  いつだってそう。彩夏の想いや意見は母に聞き届けられることはなかった。 「彩夏さんの今の成績でしたら国公立大学への進学が可能ですよ。うちは進学校ですので彩夏さんには是非進学をお勧めします」  担任からの助太刀に、彩夏は顔をパッとあげ期待を含んだ表情で担任と母を見つめた。 「先生、女が学をつけてどうするのですか。どうせすぐに結婚して家庭に入るのだから、大学なんてお金の無駄です。それより早く働いて嫁に行ってくれた方が助かります」  担任は母の意見にそれ以上返す言葉が無いようだった。  なぜならば、自営業を営む私の家は学校のバックネットの修理やグラウンドの備品類を無償で提供しているため学校側も母には弱かった。  そう、この母に楯突いたら私はこの家では生きてはいけない。これまでもずっとそうだった。普段の父は母の言いなりだった。兄たちは、男だからという理由で成績が特別いいわけでもないのに四年生の大学に通わせてもらっている。  この家はいつの時代だと思わせるような男尊女卑の時代錯誤な考え方の家だった。  彩夏は膝の上に置かれた両手でスカートを強く握りしめた。  教室は重たい空気に包まれた。  静寂に支配されたこの教室に、窓を閉めても聞こえてくるセミの鳴き声だけが響き渡っていた。  その時、まるでセミが彩夏の代わりに泣いているかのように感じた。 「葉月さんお疲れ、もう時間だよ」  店内の時計は二十時を指していた。 「ではあがらせていただきます。お先に失礼いたします」  自宅の最寄り駅から私鉄電車で四つ目の駅に彩夏のアルバイト先があった。  更衣室で制服から私服に着替えると職場を後にした。  アルバイト先周辺は彩夏の自宅周辺に比べたらはるかに明るく賑やかだった。  彩夏は寄り道せず真っすぐに駅に向かった。  駅がすぐそこというところで電車がホームに入ってくるのが見えた。それを見て慌てて走り出す。  田舎の私鉄は夜になると運行本数が激減する。これを逃すと次の電車まで最低三十分以上は待たせられる。  彩夏は息を切らせながら走り、電車に滑り込むように乗車すると安堵した。  しかし、バイトが終わり自宅に向かっているというのに解放感は感じられず、むしろ拘束感を覚えていた。  憂鬱な気分間のまま電車は自宅の最寄り駅に到着した。  駅周辺だというのに辺りは暗い。  田舎道に沿って佇む住宅は家と家の間隔が広くどこか閑散としている。  見上げると夏の虫たちがひらひらと街灯に群がっている。  そこへ鳥とも違う得体のしれない黒い生き物がパタパタと無数に飛び交っているのが見えた。祖母曰くコウモリだという。  この町はその大昔、山の噴火に伴い溶岩が海まで流れ出し地下に空洞が生まれた。現在も地下のどこかに無数の空洞が存在しコウモリが住み着いていると聞いたことがある。  日没になると、どこからともなく現れる不気味なそれは音もなく闇夜に舞い続ける。     彩夏はそんな不気味なコウモリでさえ羨ましく感じた。コウモリたちは誰にも縛られることなく、好きなところに思うがまま自由に空を飛ぶことができるからだ。  しかしコウモリたちも日中は暗い洞窟でひっそりと過ごしている。闇の中で一体何を考えているのだろうか。  そんな思いを巡らせていると、不意に何かが鼓膜を揺らし小さな黒い物体が目の前をかすめていった。  彩夏は思わず身をすくめた。  虚空から現実に意識が戻された彩夏は、前に向き直ると自宅に向かって歩き始めた。  駅から最短で五分程歩いたところに自宅がある。  だが、途中田畑が広がり住宅がなく人気が全くないと言っていいほど真っ暗な道を通らなければならなかった。  彩夏の脳裏には、ある記憶がこびりついて離れない。  小学二年生の彩夏は日も沈み辺りが暗くなり始めた夕暮れ時、習い事から帰宅しようと一人この道を歩いていた時のことだった。   自転車に乗った当時中学生くらいの少年が彩夏に近づき路上で痴漢に遭ったのだ。 『お家はどこ』と聞かれ何か恐怖を感じた彩夏は反射的に自宅と反対方向を指さし、その場から走って逃げたことがあった。  その頃の出来事を思い出しただけでも、いまだ恐怖を感じる。  この道は止めようと思い、少し時間はかかるが遠回りして帰宅することにした。  比較的住宅の多い道を歩いていると、駅を出てからずっと後ろをついてくる気配を感じた。振り返ると体格のいい男性というのは分かるが容姿までは確認できなかった。  彩夏は偶然同じ方向に帰宅する人だろうと自分に言い聞かせ、歩くスピードをあげてその男から距離を開けるようにした。  しかし、男との距離は広がることなくむしろ近づいている気がした。 ――気のせい?  彩夏は背後を意識しつつ、あることを確かめるために行動に出た。  直ぐの角を右に曲がり再び次の角を左に曲がり更に左に曲がり元の道に戻るというものだった。  男は彩夏の後ろをずっとついてくる。最後の角を曲がり元の道に戻った時、彩夏は確信した。 ――間違いない、痴漢だ!  彩夏は持ち前の瞬発力で走り出すと男も必死になって後をついてくる。  彩夏は必死に走り続け暫くして振り返ると男の姿はもうどこにも見当たらなかった。  立ち止まり呼吸を整え安堵した瞬間、荒々しい息をあげながら目の前に両腕を広げ立ちはだかる男の姿があった。 ――まずい!  先回りされていた。街灯もない暗闇の中、男の顔が見えない。ただ、若者ではない気がした。  そんなことはどうでもよかった。今の彩夏には、ただ恐怖しかなかった。彩夏は恐怖のあまり足がすくんでしまったが、男につかまるわけにはいかない。  彩夏は背水の陣でその場から駆けだした。  どの道をどのように走ったかさえ覚えていないほど、無我夢中で走り続けた。  自宅だったらとっくに着いていたことだろう。ただ自宅と反対方向に向かっていることだけは確かだった。  気づけば銀杏地蔵の場所まで来ていた。  辺りは住宅が少なく人気もない。  焦った彩夏はすがる思いで銀杏地蔵に「助けて、お地蔵さん!」と強く願った。  男は諦めたのだろうか。背後から男の気配は消えていた。  それでも警戒し辺りを見渡すと、突如前方からザッザッと玉砂利を踏む音がした。  真っ暗な闇の中、聞こえるその音はこちらに近づいていることが分かった。  もうこれまでかと思った彩夏は「キャー痴漢!」と大声をあげた。 「ちょっと、待った!」  暗闇の中から男の姿が現れた。  彩夏は反射的にその男の脚に蹴りを一発お見舞いすると、男は転倒した。 「痛ったたた……」  思った以上に弱々しい痴漢のようで、地面に這いつくばったまま起き上がってこられない。  今のうちに逃げようと男に踵を返した時だった。 「君のキック、凄いね……」  若い男性の声だった。  その声に彩夏は思わず振り返った。 ――あれ?若い人。後ろについてきた男はもっと年の人だったような、まさか、人違い?  男は顔をあげ彩夏を見上げた。  だが顔は月明りの逆光でよく見えない。  男はゆっくり立ちあがるとすらりと背が高く、彩夏は見上げた。  男の顔が月明かりに照らされはっきりと映し出された。  目の前にいるのは彩夏とさほど年が変わらないであろう少年だった。  少年の瞳は月の光に照らされ星のように煌めいていた。ぱっちりとした二重の切れ長の目、日本人とは思えないきれいな鼻筋の通った高い鼻、暗闇でもわかるほど白い肌、銀色に煌めく髪、この世のものとは思えないほど美しい少年だった。  少年は彩夏をじっと見つめ、目が合うと瞳に弧を描き優しい眼差しで微笑んだ。  意表を突かれた彩夏は、言葉が出なかった。  このあたりでは見かけない少年だった。夏休みで親戚の家にでも帰省したのか。  それにしても、こんな時間に人気のない真っ暗なこの場所で何をしていたのだろうか。  少年の不審な行動に警戒心を解けない彩夏は、じりじりと後退りしながら少年との距離を開け、踵を返しその場から逃げ去った。  夏休み明けの久しぶりの登校は気が重い。自宅から徒歩圏内の学校への道のりはいつもに比べ遥か遠く感じた。  心と身体は連動しているからだろうか。  小高い丘の上にそびえ立つ学校への上り坂は、足に重石でもつけているかのように遅い足取りとなった。  彩夏は交互に見える革のローファーの先だけを見つめながら、ひたすら長い坂道を登っていった。  途中こんもりとした森に差し掛かった時、違和感を覚えた。  そういえば、セミの鳴き声がしない。夏休み前にはあれだけ元気に鳴いていたセミたちの大合唱は次第に小さくなっていた。  すると、アスファルトの上にひっくり返って足をバタバタと動かすセミを見つけた。 「こんなところにいたら踏まれちゃうよ」  彩夏はそう呟くと、近くに落ちていた小枝をセミに近づけた。  セミが小枝につかまったのを確認すると、傍にある木の幹につかまらせてあげた。  彩夏はセミが無事木に移ることができホッとした。  しかし、程なくして再び地面にポトリと落ちた。 「え?」  その刹那の出来事に彩夏の思考は追いつかなかった。  セミは確かに目の前の木につかまった。  だが、わずかに残っていた力も失われ、目の前の木からその手を離してしまったのだ。      木につかまる力さえ失い、もう二度と飛ぶことが叶わないセミ。  力尽きたセミは地面にひっくり返り、やがてその命が終わりを告げるその時をただひたすら静かに待つしかできない。  気づけば辺りには天を仰ぐかのようにセミたちの骸が転がっていた。 ――セミは最後にもう一度だけ空を飛びたかったのではないだろうか。悔いなく生きることができたのだろうか。死ぬ間際、一体どんな景色を見るのだろうか。  彩夏は漠然と考える。  セミのひと夏の儚い命に、彩夏は胸が詰まって涙がこみ上げてきた。 「最悪だ~!」  教室に向かう廊下を歩いていると、彩夏のクラスの教室から何やら騒々しい男子生徒の声が響いてきた。  彩夏は教室の入口で一旦立ち止まると中の様子を窺った。 「おはよう」 「おはよう。葉月さん、久しぶり」   彩夏はいつも通りクラスメイトに無難な挨拶だけをする。それ以外は極力無駄口をきかないように心掛けている。  学校ではできるだけ目立たないように、静かに過ごすことが彩夏の目標でもあった。  人に心を悟られないように、自ら見えない壁を作り上げ嘘という防護服を身に纏い、己の心が傷つかないようにひたすら守るだけ。そんな高校生活を送っていた。  彩夏はクラスの皆が注目している黒板に視線を送った。  騒がしい理由が一目で理解できた。  そうだ、今日は席替えの日でもあった。  いつの間にか用意された箱が教壇の上に設置されていた。箱の中から一枚紙を選びそこに書かれた番号が二学期の席となる。  彩夏は一学期、教室の真ん中の席だった。  また目立つ席だったらどうしようという焦燥感に駆られ、箱の中に手を伸ばした時緊張感に包まれ選ぶのに逡巡した。  腹を(くく)って一つ掴むと、紙に視線を落し恐る恐る広げると、即座に手元の番号と黒板に書かれた番号を照らし合わせた。         彩夏の顔から緊張の糸がほぐれていった。  黒板に書かれた番号に自分名前を書くと、窓側の一番後ろの席に着いた。  いつもと代わり映えしないつまらない学校生活が今日からまた始まる。  今日一番の幸運に嬉しさを表情(かお)に出すことなく「何かの吉兆だったらいいのになあ」と期待を抱きつつ彩夏は外の景色を眺めた。  小高い丘の上に位置する学校からの眺めは開放感に溢れていた。  街並みのそのずっと先には、碧い海がきらきらと輝いているのが見えた。  だが、死にゆくセミの最期を見た今日、彩夏の心は晴れることはなかった。 「ねえ。先生遅くない?」 「ホームルームの時間とっくに過ぎている」  クラスメイト達が騒ぎ始めた。 「あっ、やっと来たー」  担任の後藤先生が教室に入ってくると同時に、教室内がざわつき始めた。  彩夏はそんなクラスの雰囲気に気づくことなく、物思いに耽けながら外の景色をずっと眺めていた。 「え~、早速だが、転入生を紹介する」  それまでのざわつきが嘘のように静まり返り、教室内には緊張感がみなぎっていた。  彩夏はまわりの声が全く届かないほど思考の世界に入り込んでいた。 「葉月……おい葉月、聞いているか」 「わっ、ははは……」  突如、自分の名を呼ぶ担任の声とクラスメイトの笑い声が彩夏の耳に飛び込んできた。彩夏はハッと我に返り、窓の外の景色から前方に視線を移した。  気づけばクラス中の皆から注目を浴びていた。 ――まずい……  彩夏は俯き、長いサラサラの髪で皆からの痛い視線を遮り心の動揺を和らげた。  あれだけ目立たないようにと気をつけていたのに、何故かいつも目立ってしまう。  彩夏は一度思考の世界に深く入り込んでしまうと、周りの声が聞こえなくなってしまうことがある。 ――気をつけなければ……  心の中でそう呟いたその時だった。 「やあ……偶然だね……」  突然聞き覚えのある声がしてきた。  彩夏は声のする右上に顔を向けるとあの時の少年が何故かそこにいた。 「キャーっ!痴漢!」  あまりの驚きに彩夏は思わず席を立ちあがりながら声を上げた。 「君は何か誤解をしているようだ」  少年はそんな彩夏を見て腰を曲げ口元に拳骨(げんこつ)をあてながら笑いそうになるのを懸命に堪えているように見えた。 「そういえば、君にくらったキック、なかなかのものだったよ」  生徒たちのどよめきと笑いが再び教室中に響いた。 「何だ、お前たち知り合いか。じゃあ葉月、水星の担当な。頼んだぞ」 ――え?何?どういうこと?担当って……あの少年がどうしてここに居るの? 自分の思考の世界に浸り全く話を聞いていなかった彩夏は状況を把握できず頭の中はパニック状態に陥っていた。 「始めまして。水星深彗(みずほししんせい)です。僕の担当の葉月彩夏さん、よろしく」  少年は瞳に弧を描き口角を上げ愛嬌のある笑顔で彩夏に微笑んだ。  少年が彩夏の隣の席に座ったのを見て、やっと状況を把握した。 ――まさかの転入生?そして寄りにもよって、隣の席とは……  彩夏は「はぁ」と終わったとばかりに深いため息を零した。  授業中視線を感じた彩夏は何気なく振り向くと、転入生の少年がこちらを見ていた。  彩夏は思わず視線を流し前へ向き直った。  休み時間にもなると案の定、水星深彗の周りには取り巻きができた。  転入生など珍しいこの学校では彼は注目の的だった。  クラスのほとんどの人たちが彼の周りに集まるものだから、隣の席の彩夏まで取り巻きの中に押し込められる形となった。  ただでさえ人との関わりを避けて学校生活を送ってきたというのに、これまでの苦労が水の泡だ。  その場の空気に居たたまれなくなった彩夏は席を外した。  トイレに向かう途中の廊下で他クラスの数人の女子たちとすれ違った際、転入生の話題でえらく盛り上がっているようだった。 「ねぇ、見た?転入生のイケメン!」 「私もあのクラスに移りたい!」 「ね、ちょっと見に行かない?」  女子たちは皆浮き立っているようだった。  その様子を見て、自分が転入生の立場でなくて本当によかったと心から思った。  教室に戻ると彩夏は自分の席に戻ることも困難な程、転入生の周りには取り巻きができていた。  彩夏は少し離れた教室の窓辺に一旦身を置くと、外の景色を眺めた。  転入生の少年は矢継ぎ早に皆から質問をされていたが、丁寧に答えているようだった。  同じ教室にいると、転入生への質問が嫌でも耳に入ってくる。  少年が回答した内容によると、どうやら彼の母親が日本人、父親がアメリカ人で彼はハーフらしい。理由はよくわからないがどうやら両親と海外で暮らしていて、この度彼だけが日本に帰国しこの町にやってきたらしい。 「ふーん、だからか・・・・・・」  彩夏は遠くの海を眺めながら小さく呟いた。  その時、チャイムが鳴った。  転入生を取り巻いていた生徒たちは蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。  これでやっと自分の席に戻ることができると思い席に向かうと、水星は彩夏をやわらかな眼差しでじっと見つめていた。  目が合った彩夏は無表情のまま視線を窓の外の景色に投げると自分の席に着いた。  教科書が全部そろっていない水星は彩夏と教科書を共有することになり、その都度席をくっつけることになった。それを見て一部の女子たちが羨ましそうな視線を彩夏に送ってくる。 ――できるものならば代わっていただきたい  二人の間に教科書が置かれた。二人で一つの教科書を見なければならないため、水星との距離が更に近くなった。  何の嫌がらせだろうか。授業中水星は教科書には目もくれず、机に右頬杖をついた姿勢で彩夏をじっと見つめていた。  そんな水星の姿が、彩夏の視界に嫌でも入ってくる。  揶揄われている気がして嫌だった彩夏は、あえて気づかない振りをして教科書に目を落した。  二人の席が教室の一番後ろの窓側に位置しているせいか、水星の奇行は誰にも気づかれることはなかった。彼はひたすら彩夏を見つめていた。  彩夏が教科書のページをめくろうとした時、水星の手に触れてしまった。  彩夏は思わず手を引っ込めながら見上げると至近距離で彼と目が合った。  初めて水星に出会ったのは夜だったからよくわからなかったが、彼からは日本人にはない異国の雰囲気というか、この世のものとも違うどこか二次元的な空気が漂い彩夏は不思議な感覚を覚えた。  ぱっちりとした二重で切れ長の目、陽光を浴びた瞳は澄んだガラス玉のように煌めき、ブルーにもグリーンにもイエローにも見てとれる不思議な色合いの瞳だった。  透き通るような白い肌、鼻筋の通ったきれいな形の高い鼻、きりりとした唇、銀色に煌めくサラサラな髪、どれをとってもハーフと聞いて納得するものだった。  だがどこか人離れした端正な顔立ちの彼は美しいという表現がピッタリな少年だった。  再び休み時間が到来した。  彩夏は水星との息苦しい授業から解放され安堵した。  水星の取り巻きに巻き込まれる前に逃げようと思った彩夏は席を立ちあがった。 「彩夏~久しぶり~。相変わらず色白ね。夏休みはどこにも出かけなかったの?」  クラスメイトの本田由実が現れた。その場で立ち話となってしまった。 「そんなことないよ。アルバイトに出かけたよ」 「そんなの出かけたことにはならないよ」  彩夏には友達と呼べる人がいないため、誰かを誘うことも誘われることもなくアルバイト以外出かけることはなかった。ただでさえつまらない日常生活であるのにも関わらず、今年の夏休みは特別暇だった。 「彩夏~水星君と知り合いだったなんて……なんで教えてくれなかったの」 「え?知り合いって……そういうわけじゃない。夏休みの夜に偶然出会っただけで……」  由実は前のめりになって彩夏の顔を覗いた。 「夜って……彩夏、あんた……結構遊んでいるじゃない」 「違うって……あの日バイト帰りに痴漢に追いかけまわされて、怖かったんだから……」  彩夏は水星を一瞥すると続けた。 「やっとの思いで逃げたところに、目の前に突然現れたから……思わず蹴った」  由実は目を丸くする。 「ヤダ~水星君、それはとんだ災難だったね」  水星は笑顔を浮かべながら二人の話を楽しそうに聞いていた。 「あれ?その脚どうしたの?青あざがあるけど……」  彩夏の心臓がドキンと音をたてた。  由実はよく気がつく。彩夏にとって一番触れてほしくない事だった。 「こ、これ?そそっかしいから転んじゃった……」  彩夏は悟られないように作り笑顔でそう答えた。 「……ふぅ~ん……、彩夏はおっちょこちょいなところがあるから気をつけなさいね」  由実のそういったいち早く気づき世話を焼いてくれる姿はまるで姉のようにも感じた。彩夏は男兄妹の一人娘だったから、姉や妹という存在に憧れがあった。  自分にも由実の様な姉妹がいたらもっと違う自分だったのかもしれないと思った。   その会話を水星はずっと聞いていた。  彩夏の脚の青あざをじっと見ている水星に気づいた彩夏は、これ以上見られたくなかったからその場を離れた。  授業で教室を移動する際も、係の仕事で職員室に御用聞きに出かける際も水星は彩夏についてまわった。  彩夏は転入生についてこられ自分も一緒に注目されていることが耐えられなかった。 「あの……水星さん、どうしてずっと私の後をついてくるの?」 ――はっきり言って迷惑だ 「彩夏は僕の担当でしょ。だから僕は君とずっと一緒だよ」  ああ、そうだった……担任の余計な一言でこうなってしまったのだった。 彩夏はうなだれた。  昼休みになり、彩夏は鞄から祖母の手作り弁当をとり出した。昼食は何故かいつも由実の仲間と摂ることになっていたため席を立つと、隣で深彗がこちらを見ていた。 ――まさか昼食まで一緒なんてことないよね  何か胸騒ぎを覚えた瞬間、案の定予感は的中してしまった。 「学食へ案内してくれないか」 「へ?」  彩夏は深彗から逃れることができなかった。その様子を見ていた由実は、普段あまり見ることのない彩夏の間の抜けた表情があまりにも可笑しく、ころころと子供のような笑い声でいつまでもおかしそうに笑っている。 「彩夏~、水星君の担当でしょ~、しっかり学校案内してあげなくちゃ」  お腹を抱えながらまだ笑いが止まらない由実は「行っていらっしゃい」とひらひらと手を振ると二人を見送った。  結局二人は学生食堂で昼食を摂る羽目となった。  学生食堂で二人向かい合い黙って食事をしているだけなのに周りからの視線がとにかく痛い。ハーフで美形な深彗はとにかく目立つのである。  周りの女子たちは色めき立ち周囲がざわついている。「アイドルか」と言いたくなる程、黄色い歓声があがる。  一緒にいる彩夏まで嫌なほど視線が注がれ注目されている。これでは学校中のさらし者だ。彩夏には公開処刑のようにも感じられた。  しかし、当の本人はそんな周りの状況に気づくことなく、にこにこと微笑み彩夏を見つめている。  周囲にも深彗にも、あーこっちを見てくれるなと顔に書きたいくらいだった。   彩夏にとって、学校生活唯一の楽しみだった祖母の手作り弁当をゆっくり味わって食べることができなかったのがとても残念だった。  その後も深彗は彩夏の「金魚の糞か」といいたくなるほど後ろをついてまわった。  その度に注目される二人であった。  夏休み明けの新学期から彩夏の学校生活はガラリと変わった。  明日から毎日この生活かと思っただけで意気消沈した彩夏だった。
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