第二章  僕の知らない君

1/1
前へ
/12ページ
次へ

第二章  僕の知らない君

 今日も変わらず長い一日が終わろうとしていた。終礼が終わりやっと学校からも深彗からも解放されるというのに、あることを思い出した。  そう。今日はアルバイトの日だったのだ。彩夏は一気に半端ない疲労感に襲われた。 「はぁ~」と深いため息しかでてこない  だが働かないわけにはいかなかった。  彩夏は机に両手をつくと勢いつけて立ち上がり、深彗を一瞥すると何も言わずそのまま教室を後にした。  小高い丘の上。  眼下には海岸まで開けた街、穏やかな海、目が覚めるような蒼い空はその先に望む美しい半島の稜線をくっきりと浮かび上がらせている。  遥か遠くに望む水平線は空の蒼と海の碧に線を引き、日の光を集めたような海は宝石をちりばめたかのようにきらきらと煌めいている。  僕はここからの眺望がすっかりお気に入りとなった。  カツン、カツンとリズミカルな靴の音が響き渡る。  その心地いい靴の音は、少し先を歩く黒い革のローファーを履いた彩夏が正門から南に真っすぐ伸びる坂道を下る音。  手には大きい黒のスクエアバッグ、濃紺に校章が刺繍された靴下、深縹(こひはなだ)と濃紺、薄い灰色のガンクラブチェックの膝丈プリーツスカート、そこから長くすらりとした脚線が目を引く。風に揺れる真白なリボンタイの半袖セーラーは縁に紺色のラインが装飾されており、清楚で品があるデザインはそれを身に纏う彩夏によく似合っていた。  日本の学生服もいいものだと、彩夏の歩く後ろ姿を見てしみじみ感じるのだった。  九月といえども日差しはまだ強く、日本の夏はなんといっても蒸暑い。  空気が丘の頂上に向かって起こる上昇気流。  坂の下から心地いい南風が吹き抜け僕の頬をそっと撫でた。  坂道を吹き抜ける南風は、彩夏のライトブラウンの長く艶やかな髪をしなやかに靡かせた。さらさらの長い髪が風にふわりと舞い上がり毛先までしなやかに靡く様は、彼女の元来持ち合わす美しさと相まって、僕は心躍らせた。  次の瞬間、僕の心臓がどきりと音をたてた。  悪戯な南風は彼女のスカートまでもふわりと舞い上がらせ、すらりと長いその白く美しい脚が僕の目の前で露わとなった。  そんな一瞬の思わぬアクシデントに僕はわかり易いほど頬を紅潮させると、思わず周囲に目をやった。  幸いその場に居合わせたのは僕だけのようで、そっと胸を撫でおろした。  僕は再び前を歩く彼女に視線を注いだ。  シルクのように滑らかで白い肌は夏の日差しに劣らず輝を放ち、整った美しい鼻、形のよい淡い桜色の唇、くっきりとした二重瞼に琥珀色の澄んだ瞳の少女は可憐で清楚、そしてどこか儚げで周りの目を引く美しさを宿している。  そんな少女を目の当りにした道行く者たちは皆彼女に目を奪われた。    突如彩夏が足を止めたため、僕も立ち止まり少し離れたところから様子を窺った。  彩夏は幼い女の子と女性を見つめているようだった。  ややあって、彩夏は突然うずくまり苦しそうな表情を浮かべていた。  ただならぬ様子に僕は声をかけようとしたが、彼女は肩を振わせ泣いているようにも見えた。  その時なぜか踏み入れてはいけない気がした僕は、あえてその場を見守ることにした。    彩夏は坂道を下ったところにあるお肉屋さんの前を通りかかると店の奥さんに声をかけられた。 「あ~ら、彩夏ちゃんじゃない。しばらく見ないうちに随分とべっぴんさんになったわね」  彩夏は、その言葉をいわゆる世間一般でいう社交辞令として捉えた。 「こんにちは。本当にお久しぶりですね」  どのくらい経つのだろうか。よくおばあちゃんのお使いでコロッケを買いにきた。この店の奥さんに会うのは小学生以来だった。 「これから帰宅?」 「これからアルバイトです」 「まあ偉いわね。気をつけていってらっしゃい」  彩夏は店の奥さんにお辞儀をして再び歩き出した。  彼女は地元で人気者のようだ。  しばらく歩くと前方からバイクに乗ったスーツ姿の男性が彩夏の前で止まった。  その男性はヘルメットを外すと笑顔で彩夏に話しかけてきた。  あまり見覚えのない中年の男性だった。 「あ、葉月さん家の娘さんだね。君のご両親にはいつもお世話になっているよ」  何故か家族をよく知っているようだった。見たところ金融関係の人らしい。融資の関係だろうか。中年の男は続けて話してきた。 「いや~、噂には聞いていたけど綺麗な娘さんだ~。君は内の職員の間でも有名だからね」  彩夏は思いもよらぬ言葉にそんなはずはないと困惑し戸惑いの表情を浮かべた。  小学生までの彩夏はいわゆる女の子というイメージからかけ離れていた。どちらかと言えば少年のように中世的な容姿で、誰からも褒められたことはなかったからだ。  そのためか女の子らしい子にどこか憧れる時期もあったほどだ。  幼い頃から母にブスな子だと言われながら育ったせいか、自分でもそう自覚している。そんな自分を褒める者の言葉など全く信用しなかった。  あとで母に何を言われるかを恐れた彩夏はとりあえず挨拶だけはきちんとしておこうと思った。 「いつも両親がお世話になっております」  彩夏は恭しく頭を下げお辞儀をすると、その男も頭を下げ男は再びバイクでその場を走り去った。  彩夏の家は自営業を営んでいるため、こうして地域住民に知り合いが多いのも悩みの種だった。  人見知りする彼女にとって、こういったコミュニケーションは実のところ苦手だった。    彩夏は駅に着くとバックの中をガサゴソとあさり始めた。 「えっと~どこにある……」  普段学校まで徒歩の彩夏。交通 ICカードを使うのはアルバイトに行く時くらいだった。 「やあ……偶然だね……」 「!」   声だけで顔を見ずとも誰だか直にわかった彩夏は、顔を上げることなく手を動かした。 「いつからいたの」  バックの中の目的のものを探し続ける。 「君が正門を出た時から……」  彩夏の心臓がトクンと音をたて一瞬手が止まった。 「そう……」  彩夏は素っ気ない態度でそれ以上の会話を避けた。  彩夏が改札を通過すると彼も後ろをついてきた。  小さな駅のホームは学生たちで溢れている。きっと彼も電車通学なのだろう。  すると彩夏の隣に並んで立つ彼は「彩夏、これからアルバイトに行くの?」と話しかけてきた。 「?」   いつしか呼び捨てにされていると気づいた彩夏は、質問への返答どころではない。不愛想な表情で水星の顔を不満げに見上げた。  目が合うと水星は満面の笑みで彩夏を見つめてきた。  彼は終始笑顔を絶やさない。よくもまあ、ここまでよく笑えるものだとある意味、尊敬に値する。  海外生活を送っていたせいだろうか。彩夏そう思った。 「あの……水星さん、私はあなたに呼び捨てされるほど仲良しではありませんが……」 「名前で呼んでくれる?深彗でいいよ」  彩夏の話を全く理解していないようだ。 「あの、ですから……深彗君、私がこれからアルバイトってどうして知っているの」  律儀に名前で言い直す彩夏に深彗は屈託のない笑顔で答えた。 「くんもいらないよ」  彩夏はなんだか拍子抜けしてしまい、それ以上質問するのをあきらめた。  するとマイペースな深彗は質問してきた。 「彩夏はどうしてアルバイトをしているの?」  突然の質問に彩夏はどう答えたらいいか逡巡した。 「……しゃ、社会勉強……そう、社会勉強の一環として」  たどたどしい話し方で返答した。 「そうなんだ。君は偉いんだな」  両親はお小遣いをくれないどころか学校で使用するちょっとした備品や教材費も出してはくれない。決して家が貧しいわけではない。兄たちは時々事業を手伝うからといってお小遣いを貰っているが、彩夏は貰ったことがなかった。 『おばあちゃんに貰えば』が母の口癖だった。祖母と彩夏に対する母の嫌がらせとしか思えなかった。  ある日彩夏は知った。  母は家事全般をこなす祖母に生活費を入れていない。今、祖母の年金で生活費をやりくりしていることを。  辛抱強い祖母は決して愚痴など零さない人だが、見ていればよくわかる。  彩夏は、そんな祖母からお小遣いなんて貰えるわけがなかった。  そんな秘密にしていたい家庭の事情など他人に明かす訳にはいかなかった。  葉月家の実権を握っているのは母。そんなことがバレたら母から酷い仕打ちを受けるに違いないからだ。  太陽が雲間に入ったように彩夏の横顔が曇っていった。  暫くすると電車がホームに入ってきた。  二人はその電車に乗り込むと彩夏は座席に座った。深彗は彩夏の前の吊革につかまり上から彼女を見つめていた。  彩夏は四つ目の駅で立ち上がると電車から降りた。  深彗も彼女に続いて降りた。その後も深彗は彩夏の後ろをなぜかずっとついてくる。 「深彗君の家はこのあたりなの?」  居たたまれなくなった彩夏は深彗に質問すると、彼はにっこりと微笑んでいるだけで何も答えなかった。 「ここ、私のバイト先だから、じゃあ……」  彩夏は深彗と別れた。  アルバイトの終了時間となり彩夏は帰り支度をしていた。これから自宅に帰ると思っただけで心は陰り憂鬱な気分になっていった。 「では、お先に失礼します」  エアコンが効いた店内から出ると、湿気を帯びたモアっとした纏わりつくような重苦しい外気に包まれた。  夜だというのに日中とさほど変わらない熱風のような暑さと、湿度が不快でならない。  駅に向かう途中、歩きながらコンパクトにまとめた髪を一度解く。さらりと弾むように髪が広がり背中まで下ろされた。  先程まできつくまとめられていた髪だということを感じさせない程、真っすぐで艶のある美しい髪だった。  彩夏は手櫛で髪を一つまとめに縛り直す。その髪は歩く度に弾み、馬の尻尾のように跳ね上がっていた。 「おつかれさま」  突然声をかけられ、彩夏は目を丸くした。そこには深彗がいたからだ。 「どうしたの?こんな時間に、こんなところで……そういえば、家こっちだったよね」 「君を待っていた」  深彗は温かな眼差しで彩夏を見つめながらそう答えた。 「え!」   彼の唐突な発言に彩夏は言葉を失った。 「家まで送るよ。さあ行こう」  そう言うと深彗は彩夏の隣を並んで歩き始めた。  それがあたかも当たり前のことのように極自然に振舞う深彗に彩夏の思考は混乱した。  今まで家族にだってこんなことはされたことはなかった。 「どうして?どうしてそんなことまでしてくれるの?」 「どうしてだろう……僕はただ、君の傍にいたいだけ……それじゃダメかな?」 「……」   深彗の連発される突拍子もない発言に彩夏はどう返答していいのか分からなくなり、押し黙ってしまった。  暫く二人の間に沈黙が続いたが、深彗によって破られた。 「彩夏、君は人気者だね」  先程から深彗の耳を疑いたくなるような発言に振り回され、彩夏の思考は混乱の二文字しかなかった。 「何を根拠に……」 「君は皆に注目されている」 「それは、あな……」  と言いかけて彩夏は話すのを止めた。  あなたのせいで私までも注目されてしまって迷惑だと。そして、あなたは私のことを何も知らないからそんなことが言えるのだ、と言いたかった。  再び二人は沈黙したまま歩いていた。 「あら?彩夏ちゃんじゃない?」  突然声を掛けられ顔をあげると、大きなトートバッグを肩にかけた彩夏の母勝代の妹、彩夏からしたら叔母の智子(ともこ)だった。  彩夏のアルバイト先のすぐそばに家族と暮らす叔母は買い物帰りのようだった。 「叔母さん、こんばんは」 「まぁ、しばらく会わないうちに随分と綺麗になったわね。見違えるほどよ。姉さんに似なくてよかったわね。ていうか、あなた家族の誰にも似てないわね」  叔母は彩夏の顔をじっと凝視するため、彩夏は思わず顔を後ろに引いた。 「こんな時間にこんなところで何しているの?」 「アルバイトの帰りです」 「彩夏ちゃんどうしてアルバイトなんてしているの?進学校なのに大変じゃない。お小遣い足りないの?」 「……そういうわけはありませんが……」 「もしかして姉さんからお小遣い貰えてないんじゃないの?」 「!」  図星なため慌てふためいた。傍に深彗がいる今、言って欲しくない言葉だった。 「姉さんは厳しい人だから、彩夏ちゃんも大変ね。辛い目に合ってない?」 「……」 「あの人は昔から変わらない。頭が良くて何でもそつなくこなす姉さんは口も立つから幼い頃から両親と言い争ってばかりでね、関係がぎくしゃくしていたのよ。そんなだから大学へ進学したかったみたいだけど断念したのよね」 「母が大学に?」 「そうよ。代わりに勉強苦手な私が大学に行かせてもらえることになった時は、姉さん相当落ち込んでいるようだったけど。今は嫁ぎ先の事業で成功しているようだからこだわりもなくなったでしょうけど」  物心ついたころから母と心通わせ会話した記憶がない彩夏は、叔母を通して初めて母の闇を知ることになった。意外な真実を知った彩夏は複雑な胸中であった。 「彩夏ちゃん、立ち話でこんな時間になっちゃったから自宅まで車で送っていこうか?」  彩夏は携帯端末で時間を確認すると、少し離れた場所にいる深彗に視線を送った。  智子はその様子から深彗の存在に気づき、深彗の顔を見てにっこりと微笑んだ。 「綺麗な男の子ね。ひょっとして彼氏?」  彩夏は目を丸くして、ブンブンと顔を左右に大きく振った。 「ち、違います!ただのクラスメイトです!」 「そう?彩夏ちゃんを見つめる眼差しが優しいわね……ふふふ……」  彩夏は次の電車の時間が気になり叔母の話を聞いていなかった。 「叔母さん、電車乗り遅れてしまうからもう行きますね。さようなら」  彩夏と深彗は速足で駅に向かって歩き出した。  智子は笑顔で二人を見送った。  電車に乗り込んだ二人は横並びに肩を並べて吊革につかまった。  彩夏は、先程の叔母の言葉を思い出していた。 『大学へ進学したかったみたいだけど断念したのよね』  あれほど彩夏の大学進学を拒む母は、実は大学に進学することを夢見ていた。  自分が大学に行けなかったから、その腹いせだろうか。  兄たちは黙っていても進学は保証されていた。  では、私は?夢見ることすら許されないのだから。  こんな自分にだって夢はある。というか、今となっては、あったという表現の方が相応しいのかもしれない。  彩夏が夢を思い描けば描くほど残酷な現実の世界に打ちのめされ、いつしか夢とは、どんなに強く願っても、どんなに努力しても永遠に叶うことのない理想と定義されていった。 ――私は一体何のために生まれて生きたのだろうか  今の彩夏は夢も希望も抱けず、あるのは失望と虚無感だけだった。  彩夏は「ふぅ」と短く息をついた。  ふと車窓に目を向けると、無言のままガタンゴトンと揺れる電車に身を委ねる二人の姿がくっきりと映し出されていた。  深彗は彩夏の頭一個分以上背が高い。  出会ったばかりの二人がこうして電車で肩を並べて乗っていることに不思議な感覚を覚えた。 ――何だろうこの感じ……なんて表現したらいいのだろう  車窓越しに深彗と目が合った。  深彗は柔らかな眼差しで彩夏を見つめていた。彩夏もガラス窓の深彗をただ漠然と見つめた。  結局、押しに弱い彩夏は深彗に自宅まで送られることになった。 「家ここなの。深彗君、送ってくれてありがとう」  彩夏は深彗に深々と頭を下げた。 「おやすみ、彩夏」  深彗は彩夏が家の中に入るのを確認するとどこかに帰っていった。  九月も下旬を迎えた頃。  終礼が終わると彩夏は足早に教室を後にした。  深彗はそれに気づくと席を立ち、彩夏の後をついて行った。  その様子を見ていたクラスメイトの由実は彩夏に声をかけてきた。 「ねえ、彩夏~気づいている~?」 「何のこと?」 「いつも水星君は彩夏の後ろをくっついて歩いているよね」  由実は二人を見ながら、いつものようにころころと子供のような笑い声で笑い始めた。  彩夏が振り返るといつの間にか深彗が後ろにいた。彩夏と目が合うと深彗は口角を上げいつものように微笑んでいた。 『どうしてだろう……僕はただ、君の傍にいたいだけ……それじゃダメかな?』  この間のアルバイト帰りのことを思い出してしまった彩夏。 「いや~た、たまたま帰る方向も一緒みたいだから……そう見えても仕方がない、よね」  彩夏は深彗の視線から逃れるように目を泳がせ酷く動揺しているようだった。  その様子を見て由実ニヤリと笑うと続けた。 「彩夏の後ろをついて歩く水星君はまるで番犬だね。二人はお似合いのカップルだよ」  その言葉に反応し嬉しそうな表情を浮かべる深彗は、まるで喜びに尻尾を振りまくる犬のよう。  彩夏は恥ずかしさに俯いきながら、この場をなんとかしなければと考えた。 「私、これから用事があるから、じゃあ」  彩夏は、何事もなかったようにクールな対応で去っていった。  珍しく、彩夏はバス停に佇んでいた。  彩夏を見つけた深彗は彼女の隣に立つと話しかけてきた。 「彩夏、バスでどこに出かけるの?」 「どこだっていいじゃない。深彗君には関係ないでしょ」 「それに、皆に変に誤解されるからついてこないでくれる」 ――ちょっとキツイ言い方だったかな 「つれないな。僕は君の番犬だよ。君を守るためにいつも一緒さ」  へこたれない深彗。心配して損した彩夏は、呆れて返す言葉も見つからなかった。  彩夏はそんな深彗を懲らしめてやろうとちょっとした悪戯心を抱いた。 「じゃあ、ワンコ君。主の命令に従えるかな?はい、お手は?お手……」  深彗を犬とみなした彩夏は右手を彼の前に差し出して揶揄した。  彩夏の意外な言動に驚いた深彗は何度か目を(しばた)いたが、反射的に左手を彩夏の右手に乗せた。  彩夏はやってやったとばかりにしたり顔で深彗を見つめると「はい、良くできました。お利口さんね!」といって彼を揶揄った。  次の瞬間、深彗は彩夏の手を掴みぎゅっと握りしめた。 「え⁈」  深彗の意表を突いた行動に、彩夏は酷く動揺した。  彩夏の視線は握られた手と深彗の顔を行ったり来たりで忙しい。  深彗は真顔のままその手を離すことなく横並びに立ち、バスが来るのを待った。  その思いがけない出来事に、どう反応していいか分からず声を失い固まってしまった。  彩夏の胸はドキドキ張り詰めてくるのを感じた。 「……深彗君が番犬だなんていうから……ちょっと揶揄っただけ。手を離して……」  深彗は黙ったまま何も話さない。  彩夏は繋がれたその手を解こうとすると、先程よりも強く握り返された。   バスが到着すると手を繋いだまま深彗が先に歩きだし、彩夏は手を引かれるようにバスに乗車すると誘導された後部座席に二人座ることになった。  バスが動き出す。一度繋がれた手は解かれなかった。  彩夏は困った表情で深彗に話しかけた。 「深彗君……怒っている?揶揄ったりしてごめんなさい」 「僕は、君の命令に従っただけだよ」 「本当にごめんなさい、だからお願い、手を話して……」 「……僕がこうしていたいんだ」  深彗は、切れ長の澄んだ目で真っすぐ彩夏を見つめながらそう答えた。  深彗の言葉とその眼差しに気後れしてしまった彩夏。  頬は見る見るうちに熟れた林檎の如く真っ赤に染まり、耳元までパッと燃え立ち熱を帯びていった。心臓は、早鐘となって胸を突き続けた。  彩夏は揶揄われていると知りながら、動揺する気持ちを深彗に悟られないように車窓の外に視線を移した。  彩夏は、流れゆく景色を眺めながら平常心を取り戻すことでいっぱいだった。  バスは停留所を過ぎるたびに乗車する人が増えていき、空いている席はなくなった。  そこへ足に障害があると思われる三十代男性が乗車してきた。彼はバスのステップを上がるのも一苦労な様子で、乗車するまでに時間を要していた。  男性は迷うことなく乗車してすぐの位置に立ち、手すりに摑まった。  入口の座席に座る二十代女性が席を譲るが彼は断っていた。     バスが発車するとその男性の身体が大きく揺れているように見えた。足に踏ん張りがきかないからだろう。今にも転倒しそうで見ていて冷や冷やした。  彩夏は男性がなぜ譲られた席に座らなかったのかそんなことを考えていた。  次の瞬間彩夏は行動に移した。 「あの……深彗君、ちょっとだけ席を外してもいい?」  深彗は彩夏の手を開放した。  彩夏はその場を離れると、走行中のバスの中を前方に向かって歩き始めた。  両替でもするのかと思って見ていると、彩夏はその男性のすぐ傍に立った。 「?」  深彗はその行動の意味することを次の瞬間目の当たりにした。  案の定バスは突然の急ブレーキがかかった。  脚力の弱い男性はその場に踏みとどまることができず手すりから手が離れてしまい、男性の体は慣性の法則により前に勢いよく放り出された。  深彗は思わず立ち上がり目を丸くする。  その瞬間、彩夏は咄嗟に男性の腕をつかみ転倒を防いだのだ。  これは危険を予知し行動に移さなければ最悪な事態を回避することはできなかったであろう。  男性は乗車して間もなく下車していった。その際男性は彩夏を見て何度も頭を下げた。彩夏は恥ずかしそうに首を横に振っていた。  よく見ていなければ誰にも気づかれることのない一瞬の出来事だった。  そんなことを何気なく行動に移す彩夏の勇敢で心根の優しい一面に触れた瞬間だった。  深彗はそんな彩夏に惹かれていった。  随分と乗車した気がする。ここが目的地なのだろうか。  彩夏はバスを下車した。この街唯一のショッピングモールだった。 「彩夏、ここが目的の場所なの?」 「そう」  彩夏は相変わらず素っ気ない態度で深彗に返答した。そんな対応をされたにも関わらず深彗は彩夏を見て破顔した。  彩夏は本屋に吸い込まれるように入っていった。  ある専門書のコーナーで足を止めた彩夏はいろいろな本を手にとり開いては閉じを繰り返していた。どれを購入するか吟味しているようだ。  深彗はそんな真剣な彩夏の横顔を微笑ましくずっと見つめていた。  彩夏は、一冊の本を見つめ大きく頷くと他の本を棚に戻し始めた。選んだ本を大事そうに抱えるとレジに向かっていった。  深彗は先に書店の外で待っていると会計を済ませた彩夏が足早に戻ってきた。 「深彗君は本見なくていいの?」 「うん、今日のところはいいよ」 「ねえ、せっかく来たから洋服屋さんも見て行っていい?」  彩夏の声のトーンがいつになく明るく感じた。 「僕は構わないよ」  彩夏は子供のように嬉しそうに微笑むと弾むように歩き出した。  学校では見たことのない彩夏の一面を見た気がした。  それから二人はいろいろな店舗を見て回った。  とある雑貨屋でこっそり馬のお面を頭から被った深彗は、彩夏に声を掛けられると振り返った。彩夏は目を丸くして驚き、声を出して笑った。 「私も」と言って彼女が馬のお面を被っている一瞬の隙に深彗は身を隠した。  彩夏が振り返ると深彗の姿がどこにも見えなかった。 「深彗君?」彩夏は一人だけと分かると恥ずかしさに頬が燃えるように熱くなるのを感じた。  深彗の悪戯だと思った彩夏は慌ててお面を外し、その場から去ろうした。  すると「彩夏!」と背後から声を掛けられた。  憤りを感じた彩夏は、一言文句を言ってやろうと振り返った。  彩夏のもの凄い剣幕に深彗は少しやり過ぎたと反省した。 「ごめん、君の反応が見たくてつい……」と真剣な口調で謝る深彗に、彩夏は怒りを忘れ、思わず吹き出してしまった。  今度はひょっとこのお面を被ったまま謝罪する深彗のシュールさに彩夏はやられてしまったのだ。  彩夏はお腹を抱えてケラケラと笑った。 ――君はこんなにも楽しそうに笑うんだね 「彩夏……僕たち、デートしているみたいだね!」  深彗の唐突な言葉に彩夏は胸の高鳴りを覚えた。  深彗にとってこれといった意味のないことかも知れないけれど、何気ない彼の言動は彩夏の心臓に悪い。海外生活に慣れた深彗は、このような対応は日常茶飯事なのだろう。  ただでさえ誤解を招くというのに、彼はさらりと日本の女子たちが喜びそうなセリフを言ってのけ、思いがけない行動を起こすのだ。 ――学校の深彗ファンが、彼のこれまでの奇抜な言動を目の当りにしたらきっと卒倒するに違いない  彩夏は想像しただけでも可笑しくなってきて、思わず口角をあげ「ふふふっ」と小さく笑った。   その瞬間を見逃さなった深彗は「あ!今、笑った!」と声を上げた。 「笑ってない!」と彩夏は否定するけれど、彼女は確かに笑ったのだ。  深彗はなぜかその時、彩夏が笑う顔が見たかったことに気づいた。  幸せそうに微笑む彼女をもっと見てみたいと思う自分がそこにいた。   「彩夏、こんなのどう?」  彼女からの返事がない。  深彗は振り返ると彩夏はある方向を見つめ立ち尽くしている様だった。 「彩夏?」  彩夏の視線の先に目を走らせると女性と女の子の姿があった。  彩夏は優しい眼差しでその二人を見つめていた。  声をかけても彩夏の耳には深彗の声は届かないようだった。  「一日目の服はこれ、二日目の服はこれ、靴も靴ずれしてしまったときように予備の履きなれた靴を持っていくといいわね」  そんな親子会話から、その女の子は旅行を控えているらしく、母親と洋服選びにきていたようだった。  深彗は何度声をかけても気づかない彩夏の顔を覗き込んだ。  視界に突如深彗の顔が飛び込んできたため、彩夏はハッと我に返った。 「彩夏、さっきからどうしたの?何回呼んでも全く聞こえていない様だったけど……」 「……なんか顔色も悪い気がするけど、大丈夫?」  先程と感じが違う彩夏の異変に気づいた深彗は酷く心配した。 「ううん……大丈夫、ちょっとね……」  深彗は彩夏の目に悲しみの色を感じた。    * 『は?この前買ったのがあるでしょ。あるものを着ていきなさい』  修学旅行に合わせて服を買って欲しいと懇願した彩夏だったが、とうとう買ってはもらえなかった。  彩夏の持っていた服はいつも学校に着ていた普段着に、泥のついたスニーカーしかなかった。それも何着もあるわけではなかった。  少しでも綺麗に見えるようにと、手が痛くなるくらい自分の手でスニーカーを必死に洗った。  修学旅行当日はいつも学校に着用していた着古した普段着に一生懸命洗ったスニーカーを履いて行くしかなかった。  修学旅行当日、皆この日のために新調した衣服を身に纏い、女子たちは皆はしゃいであちらこちらで盛り上がっていた。  その日の彩夏は、いつものように皆の輪に入る勇気がなかった。  この時ほど人の視線が怖いと思ったことがないくらい、周りの目が気になった。  彩夏を見た者達は驚きの表情を浮かべていた。     まるでさぞ珍しい物を見るような好奇の眼差しで彩夏にちらちらと視線を送り、目が合うとまるで見てはいけないものを見たかのように皆、目を背けた。   それでよかった、それでよかったんだと彩夏は思った。注目されるより遥かにいいと。  ただ哀れだと思われたくなかった。惨めな自分を認めたくなかった。  だから彩夏はあえて笑顔を絶やさなかった。誰にも心の内を悟られないように、これ以上自分が傷つかないように楽しい振りをして、自分も他人も欺いた。  この時から彩夏は、目に見えない防護服を身に纏い、防衛線を張るようになった。  写真には写りたくなかった。  同行したカメラマンや友達にカメラを向けられると避けるようにその場から逃げた。  その写真には楽しい振りをした、哀れで惨めで悲しい偽り者の姿がそこに写っていた。  パジャマも低学年の頃の物で当時は長く着られるようにと、袖や裾を折り返し着ていたものだ。今や七分袖、ハーフパンツといった感じに見てとれた。  だから誰よりも先に早く布団にもぐり込み布団を頭までかぶった。  そうすると止めどなく溢れてくる涙を誰にも見られることなく、気に留められることもなかった。  偽り、惨め、哀れ、傷心、羞恥、この言葉の意味を、身をもって知ることとなった。  傷つくことが怖かった。憐れだと思われることが耐えられなかった。  だから自分の心を守る術を身につけるしかなかった。  これが彩夏の苦い修学旅行の思い出――    あの頃私の家は貧しかったから?お金がなかったから?否、そうではなかった。  母は毎日のようにパチンコ屋に行き依存症だった。いくら事業を営んでいるからといって毎月二十万以上の飲食店への支払い。母の派手な暮らしぶり。  祖母と母には確執があった。祖母に懐つく彩夏を憎む母。母の仕打ちは彩夏の成長と共にエスカレートしていくばかり。嫌がらせとしか思えなかった。  彩夏の実母なのに近所から継母と噂される母。近所の人も家の異様さに気づいていたのだろうか。  彩夏は虚空を見つめながら、忘れ去りたい過去の苦しみにのみ込まれていた。  苦痛の表情を浮かべる彩夏に、深彗も心痛めた。 「彩夏……僕でよかったら、何でも言って……」 「ありがとう……本当に大丈夫だから……」  作り笑顔をして見せるけれど、深彗には彩夏が泣いているように見えた。  この時はまだ、彩夏の悲しみの原因が全くわからなかった。  ただ、彩夏を守ってあげたい、そう強く思った。 「彩夏、これからちょっと行きたいところがある。ちょっとつき合ってくれないか?」 「いいけど。どこに行くの?」 「ここ、海に近いだろ?」 「どうしてわかったの?」 「さっきほんのりと潮の香りがしたからさ」  僕たちは海を目指して歩き始めた。  暫く歩くと海風に乗って潮の香りがしてきた。海はすぐ近くだ。  少し先に灯台と漁港が見えた。  漁港を横目に更に歩いていくと、高さ十メートルはある防波堤にたどり着いた。  その防波堤は上に登れる造りになっていて、僕たちはそこから上を目指すことにした。  上がりきると、突然視界が開け眩しさに目を細めた。  その時、突如海から吹きつける色なき風は君の長い髪を悪戯に遊んだ。  乱れた髪をかきあげる君のその仕草に僕の心臓は一瞬跳ね上がった。  まだ気づいていないようだけど、君はとても魅力的だ。  思わず触れてしまいそうで、僕はぐっと堪えた。  そんな君に見惚れてしまった僕の心を知らずして「どうしたの?」と心配そうな顔で見つめる君に僕はこういった。 「綺麗な髪だね」  目を丸くする君は髪に触れるとはにかみながら「ありがとう」そう言って僕を見上げた。  その愛らしい仕草にまたも魅せられてしまった僕の心臓の鼓動が、どうしようもないくらい速く大きくなっていったなんて、きっと君は知らないだろう。  こんなにも人を好きになったのはこれが初めてかもしれない。  そのエリアは遮るものがなく開放的だった。  そこからは湾を一望することができた。  見上げれば、雲一つないどこまでも高く広がる紺碧の蒼穹。  澄み渡る紺碧の空に燦然(さんぜん)と輝く太陽が、さざ波に揺れる群青色(ぐんじょういろ)の海面に反射し煌めいている。  どこまでも続く水平線は地球の丸みを感じるほど遥か遠くまで望めた。 「学校の高台から望む海の景色を気に入っていたけど、こうして実際、目前に眺める海は清々しくて心洗われるようだ」  僕は遥か彼方の水平線を眺めながらそう言った。 「そうだね。やっぱり、海って凄いね」  君もそう言って遥か彼方の水平線を見つめていた。  彩夏は海に抱かれ心が浄化されていくような癒しの感覚を覚えた。  湾曲した海岸線に沿って遥か遠い町まで何十キロにも及ぶ防波堤はまるで城壁のよう。  振り返ると、日本一の山が誇らしげにそびえ立ち、その雄大な景色に圧倒された。  その壮大なスケールは今までに見たことがないほど見事なまでに美しく絶景だった。 「君はこんなにも素晴らしい自然の景色の中で育ったんだね」 「当たり前のように見てきたからあまり意識したことはなかったけど。言われてみれば確かにそうかもしれない」  僕たちは、防波堤から望む絶景を堪能した。  防波堤は運動するにはもってこいの環境で、市民の憩いの場となっていた。  お年寄りや親子連れの姿、犬を連れて散歩する者、ジョギングする者、自転車サイクリングする者、日光浴しながら読書する者、スケートボードを楽しむ若者、皆各々の時間を満喫しているようだった。  僕たちは防波堤を歩き始めた。  眼下に砂のないジャリだらけの浜が続いていた。  ジャリの浜は浸食されているのか、無数の波消しブロックが波うち際に摘まれている。 「この海の湾はね、とても深くて最深部は水深二千五百メートルと言われていて、日本で最も深い湾と言われているの」 「湾の中がそんなに深いの?」 「うん。だから深海魚がとれるんだよ」 「どんな深海魚がいるの?」 「この深海にはタカアシガニと言われる巨大なカニが生息している。食べることもできるんだよ」 「それならば水族館で見たことがあるよ。エイリアンみたいにデカい奴でしょ」 「そう、そう」 「深海には未確認生物がいっぱいいるだろうな」 「それって、まだ誰にも見つかっていないてこと?」 「そうだね。人は深海まで容易に潜ることはできないだろ?無人探索機で深海の調査を行っているようだけど、深く暗い海の中ではまだ見つかっていない生物がいてもおかしくないと思わないか?」 「うん、確かに、そうかもしれない」 「まだ人が踏み入れたことのない未開の領域には、古代都市なんかが眠っていたりして」 「古代都市?」 「そうだな、天変地異で水没したとされる伝説の島アトランティス大陸やムー大陸、レムリア大陸に栄えた都市のこと」 「なんか聞いたことがある。未だ解明に至っていない古代ミステリーでしょ。なんかロマンがある話だね」 「そうだね」 「もし、この湾にそんな伝説めいた都市が見つかったら歴史的大発見だね」 「そうしたら君は幻の大陸にかつて栄えた古代人の末裔かもね」 「なんかスケールの大きな話になってきたね」 「でもそんな大陸が海の底に沈んでしまうなんて人間は自然の脅威には敵わないってことだね。人間は何て無力なんだろう」 「さぞかし怖かったでしょうね……」  君が寂しそうにそう言った。  僕たちは遠い深海の海の底に想いを馳せた。 ――深くて暗い海の底はどんなだろう。仲間を探すのだって一苦労だろうな。一人ぼっちで寂しくないだろうか  彩夏は自分と深海の生物たちをシンクロさせ思考の世界に浸っていた。   「海は好き?」  深彗の質問に、彩夏は思考の世界から現実世界に意識を戻した。 「見るのは好き。だけど海で泳ぐのだけは苦手かな」 「どうして?泳げないの?」 「ううん。こう見えて私元水泳部なの。泳ぐのは得意だよ。ただ、プールは底があって見えるけど、海は見えないでしょ。それにどこまでも深い海の底はなんか怖い気がする。ただ何となく嫌なだけ。その感覚は不思議と物心ついたころからなの。自分でもよくわからないのだけれど。物心ついた頃から繰り返し見る同じ夢のせいかな」 「繰り返し見る同じ夢?どういう夢なの?」 「濁った水が辺りを覆いつくしている夢。私はなぜか少し高いところから下を見下ろしているの。ただそれだけの夢なんだけどね……」 「なんか不思議な夢だね。子供の頃溺れたりとかしたの?」 「ううん。溺れたことはないの。ただその夢から目が覚めた時は決まってトイレに行きたいってなってトイレに駆け込むけどね」  深彗は拳を口元に宛て笑いを堪えているように見えた。 「深彗君は海が好きなのね」 「僕もあまり好んで海に入る方ではないけど。学校の高台から見る海があまりにも綺麗だったからね」 「じゃあ、私と同じだね」 「あ、珍しく君と気が合った」  深彗に揶揄われ面白くない彩夏だった。 「今日ここに来ることができてよかった。深彗君のおかげだね」 「今度はやけに素直だね」  彩夏は深彗の顔を見てむっとした表情を見せた。  僕はそんな君を見て笑った。 「言ってもいい?」 「何?」 「さっきの夢の話なんだけど。夢から覚めた時トイレに行きたいってやつ。それってもしかして……幼い子がよくするおねしょの前触れってやつ?」  彩夏は真っ赤に頬を染め両手で顔を覆った。 「酷いよ、深彗君!もうおねしょなんかしてないからね!」  僕たちは声を上げて笑った。  海に来て本当によかったと僕は思った。  悲しい顔をした君はもうどこにもいなかったから。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!

58人が本棚に入れています
本棚に追加