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第三章 秘密
「ただいま……」
玄関を入ってすぐ彩夏は鼻腔をくすぐられた。彩夏は台所に行くと弁当箱を流し台の中にいれた。
「おばあちゃん、今日もお弁当美味しかったよ」
そう言うと祖母はつぶらな瞳を細くして頷きながら微笑んだ。
「この匂い。もしかして今日のお夕飯は唐揚げ?」
彩夏は目を輝かせた。料理上手の祖母の料理は何を食べても美味しいが唐揚げは絶品だった。
「そうだよ。皆いつ帰ってくるか分からないから先に食べな」
「うん、じゃあそうする。先着替えてくるね」
彩夏の家は両親が自営業を営み帰宅時間も決まっていない。返ってきたと思いきや着替えて再び出かけることも多々あった。
兄たちも大学に通っているため帰宅時間が遅く皆で揃って食事をすることはここ何年もなくなった。
おかげで両親と顔を合わせて食事することもなくなり彩夏にとって気が楽だった。
祖母と二人でたわいもない話をして過ごすのが今の彩夏には心安らぐひと時だった。
手洗いうがい着替えを済ませた彩夏はダイニングテーブルのいつもの席に着く。
既にテーブルにはおかずが並べられていた。料理好きの祖母はいつも何種類ものおかずを用意してくれてある。鶏の唐揚げ、生野菜にはレタス、ふんわり刻まれたキャベツ、ブロッコリー、きゅうり、トマト、クルトンが一つの皿に盛られている。豆腐とわかめと油揚げの味噌汁。ポテトサラダ。筑前煮。揚げ出し豆腐。自家製のきゅうりと茄子のお漬物。どれも美味しそう。いつも食べきれない量のおかずが並べられている。
「いただきます」
彩夏は両手を合わせて祖母と食事に感謝を奉げた。
祖母は食べず、彩夏が食べている様子を見守っている。いつもの光景だ。
「ん~!やっぱり、おばあちゃんの唐揚げは絶品だね!」
彩夏は目を瞑りながら呟いた。
「たくさん食べなさい」
「量が多くてこんなには食べられないよ」
祖母はいつ誰が突然訪れても困らないように多めに作る。実際、事業関係者が突然やってきて夕食を食べて帰ることは日常茶飯事だった。
「学校は楽しいかい」
祖母の何気ない質問に彩夏は思わずむせ込みそうになった。
「……ん、まぁ……そこ、そこ……」
祖母の質問にぎこちなく返答する彩夏。本音を語って祖母を心配させたくはなかったからだ。大好きな祖母にだって心の内を語れない彩夏だった。
「新しい友達はできたかい」
一瞬、深彗の顔が目に浮かんだ。
――ない、ない。ありえない
彩夏は深彗の存在を心の中で否定する。彩夏は自ら人との間に目には見えない壁を作り自分を守ってきた。友達なんてできるはずないのだ。
「ん……話をするクラスメイトは……いるよ」
祖母が心配しないように無難に交わした。
「それはよかった」
祖母はいつだって優しい。彩夏は祖母を母のように慕っている。
彩夏は祖母の美味しい手料理を頬張ると、時折目を瞑ってみたり頷いたりしながら黙々と食べていた。
そんな彩夏を祖母は見守っている。
「ふ~、食べた。おばあちゃんごちそうさまでした。美味しかったよ」
「もっと食べればいいのに」
「量が多くて、さすがにもう食べられないよ」
祖母の入れてくれた緑茶を飲みながら彩夏は柱時計を見上げた。
今日は両親も兄たちも帰りが遅い。
「先にお風呂入ったらどう?」
両親が帰宅する前に風呂を済ませておくことにした。
「うん、そうする」
浴室の鏡は立ち込める湯気で曇っている。鏡の中の世界は真っ白でこちらとは違う世界を映し出している。自分はここに存在して居るのにそちらの世界には存在しないように見える。
――存在しない自分……今私がいなくなっても悲しむ人はいないだろうな……
彩夏には部屋も学習机もない。二人の兄たちはそれぞれ個室が与えられているが、彩夏は幼い頃から祖母の狭い部屋で布団を並べて一緒に寝ている。
昔から宿題や勉強はダイニングテーブルかリビングテーブルを使用していた。
彩夏は自分の部屋と机に憧れを抱いていた。
小学生の頃友達の家にお邪魔すると、皆自分の部屋があり、小学校に上がると同時に机も用意されていた。ベッドも置かれていてなんだか羨ましかった気がする。
人というものは面白いもので、自分の部屋があるというのに友達は部屋を荷物置場として使用しほとんどをリビングで過ごしていた。一人じゃ怖いと言って祖母や両親、姉妹と一緒に寝たりしていると聞いたことがある。
年頃の彩夏は着替える場所がない。いつも着替えは風呂場の脱衣場を使用していた。
そして何より両親が喧嘩した時や父がお酒を飲んで暴れた時、逃げ場が欲しかった。その場にいるしかない彩夏はいつも巻き込まれてしまうからだ。
幼い頃から彩夏が辛い思いした時、祖母がいつも励ましてくれた。
――祖母がいなかったらこの家で自分はいったいどうなっていたのだろう
想像しただけでも背筋がゾッとした。
祖母は自分の息子健一、すなわち彩夏の父にも遠慮している。祖母は息子がお酒を飲んで暴れても物申さない。父がお酒を飲んで暴れるたびに祖母はただ黙って割れた食器を片付けたり、床を拭いたりしている。それが母には気に入らないのかもしれない。
彩夏の祖母節子の夫、貞一は幼き息子三人と妻を残して早くに病気で他界した。
祖母は再婚せず女手一つで三人の息子たちを育て上げた。きっと言いようのない苦労があったに違いない。
しかし祖母は愚痴一つ零さずこれまでやってきた。彩夏の父、三兄弟の長男であった健一は父親の死後、母を支え母子家庭で貧しい生活にも耐えてきた。
父健一は母親が仕事で不在中、父親がいないことをいいことに近所に住むチンピラに脅され、金をせびられることもあったという。この話は、彩夏がお酒に酔った父から耳にたこができるくらい聞かされた話だった。
父は母勝代と結婚するまでは真面目で大人しく、とても親孝行な青年で優しかったと祖母や叔父たちから聞いたことがある。彩夏には信じ難いことだが……。
確かにお酒を飲んでいない父は大人しく、声を荒げ暴力を振るうことはなかった。
そういえば、父は彩夏が小学生の中学年の頃まで、兄たちと一緒にキャッチボールをして遊んでくれたことを思い出した。幼き頃は肩車をしてくれたり、高い高いをしてもらったりした記憶もある。
父は生き物が大好きで行き場のない動物たちを保護しては引き取り、可愛がっていた。
そのせいか、家族唯一の共通点は動物好きなこと。『うちは猫を切らした事がない』父が口癖のようにいう理由はそういうことであった。
そのため彩夏が物心ついたころから猫と暮らし、そのせいか彩夏も大の猫好きだ。
今庭にはクロと呼ばれる全身真っ黒な被毛に覆われた番犬も飼っている。
彩夏が小学生にあがった頃のこと、多種に及ぶ保護した動物であふれていた時期があった。犬・サル・キジを飼っているときは桃太郎の家といわれるほど有名になったこともあった。
父は若い頃三男の弟と起業し小さな工場の社長となるが頭の切れる弟三男に会社を乗っ取られそうになったと聞いたことがある。
それは彩夏の母勝代の話だから偏りがあると思われるが、父は母と結婚してから人が変わってしまったというのは本当のことらしい。どうしてそんなにも変わってしまったのか真相は分からないが、父はいつしか酒に酔うと暴言・暴力が絶えない人間になってしまった。
祖母は、息子がこのようになってしまったことにどこか負い目を感じているように思えた。だから父が暴れても何も言えないのだと思う。
本当の父は心根の優しいところがある。その優しさは弱さいという欠点でもあり、弱い父はお酒で気持ちを紛らわしているのかもしれない。
だが、暴力は許されるものではない。暴力では何の解決にもならないというのに。
皆がいうことが本当ならば、昔のような穏やかで優しい父にかえって欲しいと彩夏は心からそう願った。
そんなこんなで現在の葉月家は家族としての纏まりがなくいつも荒んでいることには違いはなかった。
髪を乾かし浴室を後にして程たった頃何やら外が騒々しい。両親が喧嘩しながら帰宅したようだ。怒鳴り合いをしながら家の中に入ってくるのが分かった。
両親のドタバタとした足音がリビングまで響いてきた瞬間、緊張感が張り詰めた。
父は既に飲酒している。父の顔色は絵本で見た赤鬼のように真っ赤で呂律が回らず、目が座っていた。
「酒だ、酒持ってこい!」
その声に彩夏は、身を縮込ませた。こうなるともう、手のつけようもない。
「散々飲んできてまだ飲もうっていうの」
母が父に凄い剣幕で口答えする。
「ガシャーン!」
「!」
空気を震わすその破壊音に彩夏はびくりと肩をすくめた。
始まった。父が母に物を投げつけたのだ。
いつものことだが一向に慣れない。家の中の空気が一気に凍り付く瞬間だった。
祖母は黙って父にお酒を出した。それをあきれ顔で見る母。
父はお酒に酔うと暴言が酷くなる。
「お前は何様だ!俺は社長だぞ。お前ごときに何が分かる!」
今日仕事場での出来事に不満があるのか母に当たり散らかす。
「誰がここまで会社を大きくしてきたと思っているの!」
父は名ばかりの社長で実際会社を牛耳っているのは母だった。
「何だと?もういっぺん言ってみろ!」
父はお酒に酔えば酔う程人が変わったようになっていく。父と母の相性は最悪だ。火に油を注ぐ母。外面がよく頭が切れ世渡り上手な母に、他の会社の社長や業者の営業マンは皆媚びるのだ。それが気に入らない父。父は言われたことはきちんとこなすのだが、母のように器用な人間ではない。父はいつも母に任せきりだった。だから今その結果がつけとなって返ってきたに違いない。母はそんな父をどこか見下しているようにも思えた。
「あなたの力では到底やってこられなかったでしょうね!」
気の強い母はいつも父に楯突く。そして地雷を踏んだ。
「コノヤロー!」
父は立ち上がり拳を降りあげながら母に詰め寄った。その拳は鈍い音をたてて容赦なく母に襲い掛かる。
彩夏は足がすくんだ。まるでプロレスラーのようながたいの父に力いっぱい殴られるのは恐怖しかない。
父は止める様子はない。さすがに祖母も止めるよう声を上げるが父のその手が止まることはなかった。
一方的に殴られ続ける母。その時「助けて!彩夏!」と母が彩夏の名前を呼んだ。
呪縛が発動する瞬間だった。
正義感が強く困っている人がいるとほっておけない性格の彩夏。
こんな母でも彩夏を必要としてくれている。母は彩夏に助けを求めているのだ。
足の震えが止んだ。次の瞬間母を庇うように彩夏は父の前に立ちはだかった。
「お父さんもう止めて!お母さんが死んじゃう!」
父の怒りは静まることはなかった。父の怒りの矛先は彩夏へと変わる。
彩夏は父の拳で左頬を強打されると床に転倒した。それでも父は止めることなく彩夏を殴り続け、足で蹴り飛ばされた。
「ぐっ……」
激痛が走る。彩夏は父からの暴力を手足で防御しうずくまるように耐えることしかできなかった。
――死ぬかもしれない……
死という文字が彩夏の脳裏をよぎった。
――いっそのことこのまま死んでしまった方が楽になれるのかもしれない。自 分が死んだって悲しんでくれるような人は誰もいない。私なんか、曇った鏡のように目の前に居たって存在しないようなものだから……終わることのないこの苦しみから楽になりたい……
彩夏は抵抗するのを止めた。全身の力を抜くと人は人形のように柔らかく面白いくらい飛ばされる。
「やめなさい!健一!彩夏が死んでしまう!やめてー!」
祖母が泣きながら止めに入った。
――ああ、これで楽になれる……もうすぐ終わる……もうすぐ……
彩夏は死を覚悟した。
突如父の動きが止まった。父は我に返り驚きの表情を浮かると、おぼつかない足取りでリビングから出ていった。
彩夏は顔をあげると心配した祖母が駆け寄ってきた。
彩夏の肩に添えられた祖母の手は震えていた。
「彩夏、ごめんね……。おばあちゃんが悪いのよ。許して彩夏……」
辺りを見渡すと、既に母の姿はなかった。
祖母曰く彩夏が殴られている間に車で逃げるように家を出ていったと言っていた。
――母から見た私の存在って……何?
母はいつもそうだ。困った時はいつだって彩夏に助けを求める。
だが彩夏が助けを必要としている時、手を差し伸べられたことはこれまで一度だってなかった。
彩夏は母のいいように利用されていた。彩夏だって馬鹿じゃないからそんなことは百も承知だった。
母からいつもぞんざいに扱われる彩夏だったが、いつだって母に従った。
それは彩夏が幼い頃から満たされることのない欲求があったからだ。いつか母に認めてもらいたい、愛されたいという強い願望が彩夏をそうさせていた。
いつしか彩夏は、母に服従し屈辱に耐えればいつか気に留めてもらえる、そう信じていた。
だが、その願いは毎回母によって意図も簡単に壊された。
私には母に抱きしめられた記憶がない。母と手を繋いだ記憶も、お風呂に入ったことも一緒に寝た記憶すらなかった。
――馬鹿な私……
後味悪い虚しさだけが澱のように心に振り積もっていく。
無意識の領域で悲鳴を上げ続けてきた彩夏の心は限界を迎えていることを本人もまだ気づくことはなかった。
「おばあちゃん、ちょっと外の風にあたってくるね」
「あんた……こんな時間に危ないよ……」
「うん、大丈夫……家の周辺にするから……」
「気をつけて……直ぐに帰ってきなさいね……」
母と違って気にかけてくれる祖母を横目に、彩夏はふらりと家を出た。
秋の清澄な空気が清々しかった。
見上げると、澄み切った夜空にはまるで宝石を散りばめたかのような煌めく星空が展開していた。
その美しい星空をひたすら眺めていると、夜空に吸い込まれ宙に浮いたような感覚に陥った。
――おとぎ話の登場人物たちみたいにきらきら輝く魔法の粉を浴びて、この美しい夜空を飛べたらどんなに気持ちがいいことだろう。そんな奇跡がもし起こったとしても、今の私はその一歩を踏み出して飛ぶ勇気があるだろうか……
自分の意見を言うことも行動に移すこともできず、ただ母の言いなりに生きてきた彩夏にはそんな勇気はなかった。
幼子が夢見るようなことに思いを巡らせてしまう程、美しい夜空だった。
「痛っつ……」
突然全身に痛みが走った。これが現実だ。
夢も希望も絶たれ失望の毎日を送る私は、ただ流されるように生きていくしかない。
気づけば銀杏地蔵の傍まで来ていた。
彩夏は祠の前で手を合わした。そう、銀杏地蔵に痴漢から助けてもらったお礼をするのを忘れていた。
「お地蔵さん、あの時は助けていただきありがとうございました」
彩夏は手を合わせ深々とお辞儀する。
ふと、深彗の屈託ない笑顔が脳裏をよぎった。
「……そう言えば……深彗君と初めて出会ったのもここでした」
彩夏はいつしか微笑を浮かべていた。
彩夏の仄暗い心の闇に一筋の光明が左差し込んだようだった。
銀杏地蔵を後にした彩夏の瞳は、澄んだ星空のように煌めいていた。
カーテンの隙間から差し込む朝日は彩夏の瞼の裏に届いた。
「ん……夢……?」
とても悲しい夢だった。それは、とてつもなく寂しくて切ない夢だった。
目覚めると、彩夏の目から涙の滴が溢れ、頬と枕を濡らしていた。
目覚めても尚、涙は止まらなかった。
彩夏は朝の支度に悪戦苦闘していた。
「う~ん、これでいいか……」
もうさすがに家を出なければ遅刻してしまう。彩夏は慌てて台所に向かうと祖母の手作り弁当を受けとった。
「?」
お弁当箱がいつもより大きい。男前弁当といっても過言ではない。
「おばあちゃん、いつものお弁当箱は?」
祖母は振り返り、つぶらな瞳で柔らかい微笑を返してきた。
「あんたが唐揚げ大好きだから、いつもより多めに入れておいたよ」
そう言って笑う祖母。
「……そう、ありがとう。でも、こんなに食べられるかな……それじゃあ、行ってきます」
そう言いながら彩夏は駆け足で登校していった。
*
『深彗君……』
『きゃははは……』
昨夜の彩夏の寝言は聞きなれない男の子の名前が上がり、楽しそうな夢を見ているようだった。
寝言といえども、そのように楽しそうな彩夏を見るのは久しぶりだった。
「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花……行っていらっしゃい、彩夏……」
祖母は温かな眼差しで彩夏の後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
彩夏は俯きながら学校までの長い坂道をひたすら登っていく。
「痛っつ……」
昨夜より全身の打撲痛が増している。
「おはよう、彩夏。そんなに下向いて歩いて何か探し物でもしているの?」
由実だ。彩夏は顔を上げることなく歩きながら「おはよう」とだけ返答する。
奥二重で垂れ目の大きな目の由実はで彩夏を覗き込む。
「あれ、どうしたの?マスクなんかしちゃって。風邪でもひいた?」
その一言に彩夏の心拍数は一気に速くなる。由実に気づかれるのも時間の問題かと思われたが、見られるわけにはいかなかった。これが一番いい索だった。
「花粉症で……今日は特別辛いから……」
彩夏は何とかその場をしのぐ。
「秋にも花粉症なんてあるの?」
「うん……ほら、川べりとか草むらにこの時期やたらと黄色い雑草が生えているでしょ」
「あ~、あれね~。そう……大変ね」
どうやら信じてくれたようだ。彩夏は胸を撫で下ろした。
「それでマスクなんて付けているわけ?」
「うん……」
今朝の彩夏は教室に入ると誰とも挨拶を交わすことなく俯き、そそくさと自分の席に向かった。
「葉月さん、おはよう」
小学校の頃からの同級生、村田香苗に声をかけられた。
控えめで優しい印象の彼女はあまり積極的にクラスメイトとコミュニケーションを図るタイプではないが、なぜか毎日欠かさず彩夏に挨拶をしてきてくれるのだ。
艶やかな漆黒の髪、前下がりボブが良く似合う。
彩夏は顔を上げられなかったため誤解を招かないようにできるだけ明るい口調で挨拶を返した。
「おはよう。村田さん」
そして彩夏はできるだけ顔を上げることなく席についた。
「彩夏、おはよう……マスクどうしたの?」
いち早く気づいた深彗に早速質問を投げかけられた。
彩夏の心臓の鼓動が速くなっていく。
「花粉症だって~。秋にもあるなんて知らなかった」
由実がやってきて深彗に説明してくれていた。
彩夏は深彗に見られたくなくて顔を上げることができない。
深彗に本当の自分を知られる事が怖かった。
「あれ?」
由実がまた何か気づいたようだ。
「その手どうしたの?膝にも……痣がある……」
深彗と由実の視線が彩夏の手と膝に注がれる。
体の大半を制服が覆い隠してくれているけれど手と膝は隠しようがなかった。
彩夏は居住まいを正し、手を引っ込め膝を隠した。
――父に暴力を振るわれたなんて死んでも言えない。皆に知られたら変な目で見られてしまう。それにきっと嫌われてしまうだろう……
「これ?ちょっとね……私おっちょこちょいだから……アハハ……」
彩夏はふざけた口調で答えた。
由実と深彗は痛々しい表情で彩夏の痣を見つめていた。
朝のホームルームが始まり皆席についた。
いつもならば不愛想な態度で深彗を睨みつけてくる彩夏が今日は俯いたまま顔を上げようとすらしない。
昨日初めて触れた彩夏の白くて柔らかな手には、痛々しい青紫色の痣がある。膝にも同じような痣が見え隠れしていた。
――昨日別れてから彩夏の身に何が起こったのだろう
深彗は胸騒ぎを覚えた。
体育館で男女合同バスケットボールの授業が行われた。
チームに分かれてゲームすることになった。
彩夏と深彗は別チームとなり、彩夏は深彗のプレーを見学していた。
深彗にパスがまわされた。深彗はドリブルしながらからスピードを落とさずディフェンスを交わし右左と大きくステップを踏み込むと軽やかに飛びあがりレイアップシュートを決めた。
身長一八五センチメートルある深彗のシュートは華があり、高く軽やかに ジャンプする様は背中に羽が生えているようにも感じられた。
ゴールが決まる度に、クラス中からの歓声が一斉に上がった。
彩夏もそんな活躍する深彗の姿に見入っていた。
深彗のチームの圧勝だった。
深彗はコート脇で見守る彩夏の横に座ると「久しぶりのバスケは楽しかった」と爽やかな笑顔で話した。深彗がバスケを得意としていたと初めて知った彩夏だった
次に彩夏のチームの番だった。
深彗は「頑張れ、彩夏」と声をかけると、ふんわりと微笑んだ。
パスがまわされた彩夏はディフェンスを避けるためスリーポイントシュートを決めた。
彩夏の意外な活躍に再びクラス中が沸きたった。
深彗も思わずその場で立ち上がり、クラスメイト達と共に彩夏の活躍に歓声を上げた。
誰も知らないだけで、実のところ彼女は運動神経抜群であった。
暫くプレーが続くと彩夏の身体は異変をきたした。
走り込んでいるうちに彩夏は浮遊感に見舞われ、視界が真っ白に覆われたとたん意識消失し突如倒れ込んだ。騒動となった。
深彗は彩夏のもとに慌てて駆け寄った。
「彩夏、彩夏、分かるか?彩夏!」
深彗は彩夏の肩を叩きながら声をかけるが彼女は目を覚まさない。
彩夏のマスクを外そうとした時、深彗のその手が止まった。
左頬に大きな青紫色の痣が見えたため呼吸の有無を確認するとマスクを再び装着した。
次に手首の脈を確認した深彗は、彩夏を横抱きしてその場を去っていった。
深彗のその一連動作があまりにもスムーズ過ぎて皆あっけにとられた。
体育教師の久保田先生も深彗の後を追いかけるようにいなくなってしまった。
その後深彗が彩夏にとった行動が学校中の噂になるのは早かった。
深彗は彩夏を抱えながら保健室に駆け込んだ。
「先生!彩夏を見てください!呼吸と脈はあります!」
「そこのベッドに寝かして!」
深彗は指示されたベッドに彩夏を横たわらせ、心配そうな面持ちで彩夏を見つめる。
「葉月さん、葉月さんわかる?葉月さん!」
養護教諭が声をかけ続けると、彩夏は薄っすらと目を開けた。
養護教諭に応えるように頷き再び目を閉じた。
そのまま保健室で要観察となり休むことになった。
深彗は、彩夏のことで頭の中がいっぱいとなり授業どころではなく、気が気でなかった。
休み時間のチャイムが鳴ると同時に、深彗は教室を飛び出し保健室に駆けて行った。
そんな深彗をクラスメイトの由実は驚きの表情で見つめた。
深彗は保健室の扉をノックするが返事がない。
気持ちが逸る深彗は保健室に入ると、彩夏が休んでいるベッドのカーテンを彼女に声をかけずに開けた。
「――っ!」
深彗は思わず息をのんだ。
突如、体操着をめくりあげブラとショーツ姿の彩夏が深彗の視界に至近距離で飛び込んできた。
細くすらりと長い手足に華奢なその身体からは想像できない程、豊満なバスト、くびれたウエストの曲線美に深彗は目を奪われた。
深彗は慌ててカーテンを閉めると、酷く狼狽した。
幸い、着替えに気を取られていた彩夏に気づかれることはなかった。
何より目を疑いたくなるような信じがたい光景を目の当りにし、深彗はカーテンを開けてしまったことを酷く後悔した。
美しい彼女の白い柔肌には殴られたような無数の青紫色の痣が、全身の至る所に見られたからだ。
――彩夏の身に一体何が起こった?
深彗の思考は動揺と混乱でまとまらない。
深彗は目を瞑り大きな深呼吸を数回行うと「彩夏?体調はどう?」と何もなかったかのように、いつもの優しい口調でカーテンの外から声をかけた。
「あっ、深彗君⁈ちょ、ちょっと……待ってくれる?」
先程の光景がいつまでも残像のように目に焼きついて離れない。
「うん……」
驚愕、衝撃、悲痛、嘆き、疑問、幾つもの複雑な感情の波が深彗に押し寄せる。
「もう、いいよ」
いつもの彩夏の声がした。深彗は胸が締め付けられる思いでいっぱいだった。
中からカーテンが勢いよく開けられた。
「どうしたの?そんないかにも泣きそうな顔をして。もしかして心配してくれたとか?」
彩夏は深彗の気持ちを知らずして、おどけてみせた。
「……うん、そうだよ……」
深彗は目を伏せながら返答した。
そのあまりにも率直な返答に彩夏は戸惑いの表情を浮かべた。
「やだ……冗談だってば……」
そこへ養護教諭が戻ってきて彩夏に声をかけた。
「あら、もう起き上がっても大丈夫?無理しないで今日はゆっくり休んでいきなさい」
「おー、彩夏!元気になった?」
由実もやってきて保健室だというのに大きな声を上げ、一気に賑やかになった。
「さっき、彩夏が突然倒れた時は騒動だったよ……久保田先生なんかあたふたしちゃって」
「彩夏~何があったか覚えている?」
由実は彩夏と深彗を見て含みのある表情でニヤリと笑った。
「?」
彩夏はそんな由実を見つめると、小首を傾げた。
「水星君が彩夏をお姫様抱っこして~保健室まで運んだのよ、ねぇ水星君」
彩夏は由実の悪質な冗談と捉え、猜疑心に満ちた目で深彗に視線を向けた。
すると深彗の頬がみるみるうちに紅潮していくのが分かった。
次の瞬間彩夏は自身の頬も火照っていくのを感じた。
皆からは、彩夏のさらりと動く髪からのぞかせる耳と首元が真っ赤に染まっていくのが見えた。
今の彩夏のマスクの下を想像した由実はニタニタとにやけていた。
「そうね~、水星君まるで王子様みたいだったわよ~」
養護教諭まで悪乗りしてきた。
彩夏はその時の状況を想像しただけでも冷汗が出て深彗の顔を直視することができなかった。
深彗は複雑な感情を抱きつつ、恥じらう彩夏をじっと見つめていた。
「さあ、そろそろ次の授業が始まる頃ね。皆教室に戻りなさい」
「葉月さん、あなたにはちょっと話があるから残ってくれる?」
彩夏は黙って頷き俯いた。
深彗には何についての話か想像がついていた。
そんな彩夏を、ドアを締め切るまで切迫した目で見つめると保健室を後にした。
その後、彩夏が教室に戻ってきたのは昼休みになってのことだった。
「彩夏~お帰り、もう大丈夫?」
由実の元気な声が、教室中に響き渡った。
「葉月さん大丈夫?」
村田さんが心配な面持ちで彩夏に声をかけてきた。
「うん、もうすっかり。迷惑かけてごめんなさい……」
教室に残っているクラスメイト全員に注目される。騒ぎを起こし皆に迷惑をかけてしまったのだから仕方がない。
「彩夏、水星君が待っているよ」
深彗は彩夏を見るなり席から立ち上がり、何か問いたげな眼差しでこちらをじっと見つめていた。
深彗は昼食も食べに行かずに彩夏の帰りを待っていてくれたのだ。
彩夏は深彗の席まで歩み寄り、もじもじと恥ずかしそうに体を揺らしながら話した。
「深彗君、さっきは助けてくれてありがとう……」
「ヒュ~。水星、姫の登場だな~」
教室にいた男子から冷やかしの声が上がった。
深彗はあまり気にしていないようだったが、彩夏は皆に揶揄われる深彗を見ているのが嫌だった。
「ねえ、深彗君。お昼を食べに行こう」
彩夏は一刻も早く教室から深彗を連れ出したかった。今朝祖母が持たせてくれた弁当を手に取り、二人は教室を後にした。
二人は連れ立っていつものように学生食堂までの廊下を歩いていると、生徒たちに注目されていることに気づいた。
人の噂話が広まるのは早いものだと改めて実感した瞬間だった。だたでさえ日に日に深彗ファンが増えていくというのに、今日の出来事で更に注目を浴びてしまったらしい。
深彗は周りがどんなに騒ごうが気にもならない様子だが、彩夏は自分のせいで深彗が好奇な目で見られてしまうことに罪悪感を覚えた。
「深彗君……今日は別の場所で食事しない?」
「実は、僕も今そう言おうとしていた」
「え?」
彩夏は深彗の顔を見上げた。彼はやわらかな眼差しで彩夏を見つめ返した。
「じゃあ僕は、購買でパンでも買おうかな……」
「……あの、深彗君……もしよかったら、私のお弁当を食べてくれる?」
「彩夏は?」
「今日はあまり食欲がないの、せっかく祖母が持たせてくれたお弁当だから残すのもなんだし……」
「うん、分かった。じゃあそうさせてもらうよ」
彩夏は口元に微笑を浮かべ頷いた。
校内にはいくつかのオープンスペースが設けられているが、テーブルと椅子が設置してある席は既に学生たちでいっぱいだった。
学校に隣接する森に面するベンチが空いていたので、二人はそこで腰をおろした。
彩夏は早速お弁当を深彗に手渡した。
「はい、どうぞ」
深彗はそのお弁当を見て目を丸くした。
「彩夏……君はいつもこんな量のお弁当を食べていたの」
彩夏はハッとした。今日はいつもと違う男前弁当だった。
「ち、違うから!今日は祖母が私の大好きな唐揚げを沢山入れたと言っていたから……」
言葉が徐々に弱々しく口籠っていく。
マスクをしていても彩夏の顔が真っ赤なことがよくわかる。
深彗はそんな彩夏を見て思わず口元に拳をあて笑いを堪えた。
「あ、今笑ったでしょ」
「さあ、どうかな」
とぼける深彗は、包みを開きお弁当のふたを開けた。
思わず二人で目を丸くする。
いつもと変わらない色とりどりのお弁当だが、唐揚げの量が半端なかった。
祖母のことだ、きっと友達の分も入れてよこしたのだろう。祖母はそういう人だ。
突如彩夏の目頭が熱くなる。嬉しいのか悲しいのかよくわからない感情に見舞われた。瞳が風に揺れた湖面のように揺らつき、彩夏は必死に堪えた。
「では、いただきます」
深彗は唐揚げを頬張った。
「これ、凄く美味しい!彩夏のおばあちゃんは料理上手だね」
彩夏は自分が褒められているようで嬉しかった。
「さすがにこれ全部は食べられない。彩夏も食べてよ」
深彗は唐揚げを箸で摘まみ彩夏の口元に運んだ。
マスクを外さなければいけない。彩夏は逡巡した。
「……私はお腹空いていないから……」
彩夏は顔を反らしながらそう答えた。
「大好きな唐揚げだろ。一緒に食べよう」
深彗にこの顔を見られたくなかった。
「……」
「……彩夏、ここには僕以外誰も居ないから……マスクを外しても大丈夫だよ」
彩夏の心臓の鼓動がドキンと音をたてた。
深彗はすべてを知っているかのように至極優しい口調で話しかけてきた。
この時、深彗は気づいていると悟った彩夏は、ゆっくりマスクを外した。
深彗は痛々しい眼差しで彩夏の左頬を見つめた。
「実はね、あの後、家の階段から転げ落ちてしまったの……」
――嘘、私の嘘つき……
彩夏の精一杯の嘘。複雑な感情を隠しきれず、泣き笑いする彩夏。
慈しむような眼差しで深彗は彩夏を見つめた。
彩夏の左頬に右手を伸ばすと、第二指の背部で彩夏の左頬を微かに触れる程度にゆっくりと優しく撫で下ろした。
「……美人が台無しだな……」
彼のガラス玉のように澄んだ瞳には今にも泣き出しそうな顔をした彩夏が写っている。
彩夏は深彗にすべてを見透かされているような気がした。
息苦しいほど胸がいっぱいになり、陽光に照らされた彩夏の瞳は煌めきながら揺らつきをみせる。
そしてその艶やかな頬の上を玉のような大粒の涙がポロンと零れ落ちていった。
深彗はその涙をそっと拭ってあげた。彼はそれ以上痣のことを聞くことはなかった。
再びお弁当を手にした深彗は「はい彩夏、口を開けて。はい、あ~ん」と言って彩夏の口に唐揚げを運んだ。
深彗に促され、思わず口を開けてしまった彩夏だが、深彗に食べさせてもらうのは至極恥ずかしかった。
彩夏は深彗の優しさに触れ再び涙がこみ上げてきた。
その顔を見られないように俯き、長い髪で顔を隠した。
深彗はそんな彩夏をずっと見守った。
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