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第四章 銀杏地蔵の木の下で
ある日の休み時間。教室に戻ってきた深彗は突然足を止め振り返ると、再び廊下に向かって歩きはじめた。
その様子を偶然見かけた彩夏は特に気に留めることなく次の授業の支度をしていた。すると、彩夏の視界の隅に女子と立ち話をする深彗の姿が入ってきた。
そちらに顔を向けると、相手の女子は彩夏の小学生時代からの同級生村田さんだった。積極的に話しかけるタイプではない彼女が、わざわざ深彗を呼び止めてまで話す姿に意外だと感じた。
まあ、彩夏も特定の人以外極力会話をしないため似たようなものかと妙に納得した。
深彗は時折頷いたり、首を傾げたりして会話しているように見えた。
ややあって深彗は席に戻ってきた。
深彗から何か言ってくるのかと思いきや何も話してこないため、逆に気になった。
『今何話していたの?』なんて聞けるはずない。私が聞いたところでそれで何って話でもある。
彩夏はちらりと深彗の様子を伺った。深彗は次の授業の支度をしている。その表情からは彼の感情を読むことができなかった。
――私何を気にしているのだろう。深彗君が誰と話そうと、私には関係ないじゃない
「ふぅ」無意識に深い大きなため息をついていた。
「彩夏、ため息なんかついてどうしたの?」
深彗は彩夏の気持ちなど知らずして、ため息に反応してきた。
「別に……何でもない」
不愛想な返事しかできない彩夏は、自己嫌悪に陥った。
そんな態度をとったにも関わらず彩夏に微笑みかける深彗はまさに人格者だ。
彼は私なんかと違って、きっと育ちがいいのだろう。
――深彗君が私の家庭環境を知ることになったら……彼はきっと引くに違いない……
彩夏は言いようのない不安な気持ちに囚われた。
小学生時代の苦い思い出が脳裏をよぎる。彩夏の幼少期から今もなお続く黒歴史――。それは彩夏の呪縛と化し取り払われることはなかった。
彩夏はこれまで見えない壁を作り、見えない防護服を身に纏い自分が傷つかないよう孤高に生きてきた。
しかし、深彗に出会ってからというもの、彼に甘えてばかりいるように思えた。
――私達の距離が近すぎるのかも知れない。彼もすっかりクラスメイトに溶け込みこれから友達も増えていくことだろう。私なんかと居たら、彼が他の友達との交友関係を深めることができない。私は……私の存在は……深彗君の妨げでしかないのかも知れない……
彩夏は深彗との距離が近くなればなっていく程不安も大きく膨れていった。
――もしも、何かで本当の自分が暴かれた時、深彗君は、私をどんな目で見るのだろうか……彼も私を見る目が変わるだろうか。離れて行くのだろうか…… 何より、離れていく彼に自分が耐えることができるのだろうか……
彩夏は傷つくことを恐れた。それならば、取り返しがつかなくなる前に深彗から距離を置くべきではないか。弱い自分の心を守るために。そんなことを考える彩夏だった。
終礼が終わり彩夏は帰り支度をしていた。
「彩夏、ごめん……。今日ちょっと用事があって……君と一緒に帰れない。本当にごめん」
約束したわけではないのに深彗はいまだ行動を共にしようとする。謝る必要などないのに彼は誠実だった。
「私……そろそろ……深彗君の担当を卒業したい……」
彩夏はあえて冷たい表情と口調でそう語ると、深彗から距離をとった。
「……それって、どういう意味?」
深彗がいつになく真剣な眼差しで真っすぐ彩夏を見つめた。怒っているかのような不機嫌なその雰囲気に気圧された彩夏は深彗から視線を逸らすことで精いっぱいだった。
そこへ村田さんが遠くからこちらを見ていることに気づいた彩夏は、視線を 村田さんに移すと深彗もつられて彼女の方へ振り返った。
彩夏はその隙にバックを手に取ると「……じゃあ」そう言って教室を後にした。
校門を出たところで彩夏は忘れ物に気づいた。明日までの課題を教室に忘れてしまったのだ。仕方なく教室に戻ることにした。
教室に向かう途中、校舎二階の廊下で帰宅する生徒たちの群れと遭遇し、流れに逆らうように進む彩夏は廊下の端によけた。その際、ふと廊下の窓から外に目を向けた。
「あれ?」
校舎の裏側に深彗と村田さんが二人きりでいるのが見えた。
休み時間に村田さんが深彗を引き留め話していたこと、深彗の用事というはこのことだったんだと、彩夏は今になり理解した。
――深彗君も水くさい。村田さんと話があるからって言えばいいのに。わざわざ用事だなんて……。もしかして……私には言えないようなことなのかもしれない
彩夏の心に確信めいた濃い不安が影を落とす。
――やはり私は深彗君から離れるべきなのかも知れない。手遅れになる前に……
彩夏はいつまでも二人の様子を見ていることに気が引け、教室へ忘れ物を取りに戻った。
そして再び廊下を歩きながら二人に目を向けた。
「え?」
彩夏は目を疑った。
その刹那、彩夏の心臓はぐっと掴まれたような苦しさを覚えた。
村田さんが泣いていた。深彗は彼女の頭をポンポンと撫でているように見えた。
――やはり……そういうことだったんだ……そうだよね……
彩夏は目を伏せその場を去った。
彩夏の中で先程の二人の姿が心の奥底から消え去らずにいる。家に帰る気になれず、銀杏地蔵に寄り道することにした。
彩夏は銀杏の大木を見上げながらゆっくり歩き出した。
深彗君はいつだって誰にでも優しい。それは彼の優れた長所だ。
そんな彼に自分も随分と救われたのだから。
深彗からしたらただのクラスメイトにしか過ぎない彩夏。
深彗は先生から担当だと言われたからいつも私の傍にいただけだと。
ただ、深彗の気まぐれに振り回された私が勝手に期待して勝手に傷ついているだけで。
遅かれ早かれ深彗君は本当の私を知った時、私のもとから離れて行くのだから。
何も悲しくなんかない。傷ついてなんかいないのだと。思い上がりも甚だしいと。
彩夏は自分自身に言い聞かせた。
大木を一周し立ち止まると瞳を閉じ、胸元のシャツを握りしめた。
――けれど……どうしてこんなにも胸が苦しいのだろう……
彩夏は再び、銀杏の大木を見上げた。琥珀のような色合いの瞳は日の光に照らされ、つやつやと光っている。黄金色に輝く銀杏の大木は深彗を見ているようで眩しく感じた。
彩夏は銀杏地蔵の祠で手を合わせた。
「お地蔵さん、いつも見守ってくださりありがとうございます。私は何か勘違いをしていたようです。私はこれまで深彗君の優しさに甘えていたに過ぎません。私達の距離は近すぎたのです。私の存在は……彼の妨げでしかないことに気づきました。また独りぼっちの私に戻ります。だからこれ以上傷ついたりしないように……私の心をお救いください」
彩夏はゆっくり目を開け再び銀杏の大木を見上げた。
「彩夏……」
その時、突如背後から自分の名を呼ぶその声にびくりと反応すると、慌てて振り返った。
「深彗君……どうしてここに……」
「君を見たと……だからすぐに後を追いかけた」
「ひょっとして……今の……聞いていたの……」
「……うん」
彩夏はサッと血の気が引くのを感じた。咄嗟にその場から逃げ出そうと駆けだすが、深彗に追いつかれ腕を掴まれ引き止められた。
「彩夏、どうして逃げるの……」
深彗に背を向けたままの彩夏。
「……」
俯き何も答えることができない。
「君は優しい……」
「急に、何……」
掴まれた腕は離されない。
「村田さんは、小学生から中学生までずっといじめに遭っていたんだね。彼女は誰からも相手にされず、ずっと独りぼっちだった。ただ一人だけ、いつも普通に話しかけてくれたそうだ。彼女はその人にずっと憧れて、その人が行く同じ高校を受験した。彩夏……君のことだよ……」
彩夏は大きく目を開いた。
「さっき、村田さんに彩夏を助けて欲しい、君の支えになって欲しいと泣いて頼まれた」
「どうして……」
彩夏はピクリと反応すると、手が小さく震えはじめた。
「村田さんは嬉しかったんだと思うよ。周りの目など気にせず、いつ何時だって分け隔てなく話しかけてくれた君のことが。君に出会えたことが。そしてお日さまのように明るい君が。笑顔の素敵な君のことが大好きだった。けれど、君はいつしか笑わなくなったって。毎日君のことを見てきた村田さんは、変わっていく君を見ているのが辛かったんだ。どうしてかその理由は分からないけれど、以前の君に戻って欲しい……そう言っていたよ」
彩夏の華奢な肩が震えている。きっと泣いているのだろう。
「彩夏……僕も君の笑顔が見てみたい……」
彩夏の瞳から涙が溢れ出る。
「彩夏……苦しい時、我慢をしなくていいんだよ……困った時、助けを求めていいんだよ……君は一人じゃない……」
深彗の声が震えている。
深彗は背を向ける彩夏の手をとり胸に引き寄せ、その華奢な肩を両腕で抱きしめた。
金色に輝く落ち葉の絨毯の上に寄り添うように佇む二人の少年と少女。
黄金色の銀杏の葉がまるで雪のように絶え間なくひらひらと舞い落ちる。
静寂な中、川のせせらぎだけが聞こえてくる。
「だから、お願いだ、彩夏……僕から離れようとしないで……僕が君を守るから……」
「深彗君……」
彩夏は深彗の胸の中で彼を見上げた。
深彗は彩夏の額に己の額をそっと重ねると瞳を閉じた。
彩夏は胸が詰まって、それ以上話すことができなかった。
彩夏の閉ざされた心の扉は、深彗の優しさに包まれ少しずつ開かれていくのであった。
苦しい時 我慢をしなくていいんだよ
困った時 助けを求めていいんだよ
君は一人じゃない
ほら まわりをよく見てごらん
君を見守っている人がいるってことを
思い出してごらん
君を想っている人がいるってことを
君はまだそれに気づいていないだけ
恐れることはない
どんなに苦しくても
どんなに心打ちひしがれようとも
勇気を振り絞って その一歩を踏み出してごらん
その未来にはきっと
今はまだ知らない君が
笑顔の似合う素敵な君が
そこで待っている
君は 生まれ変わることだってできるんだ
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