第七章  僕たちの恋

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第七章  僕たちの恋

 教室でクラスメイトの男子と会話していた深彗は、彩夏に気づくと爽やかな笑顔で迎えてくれた。 「おはよう、彩夏」  彩夏は昨夜の銀杏地蔵祭りを思い出し、深彗を意識してしまいパッと頬を赤く染めた。 「おはよう、深彗君……」  彩夏は、はにかみながら伏し目になって返答した。  彩夏は席に着くとクラスメイトと楽しそうに会話する深彗を遠くから見つめた。  それに気づいた深彗はふんわりとした柔らかな眼差しで彩夏を見つめ返した。  彩夏の心臓がドキンと音をたてた。  深彗はいつ何時だって彩夏に応えてくれる。 「え~今から課題の発表をしてもらう。提出日ぎりぎりの者もいたが、皆期限を守ってくれたから今回はよしとしよう。では、それぞれ調べた資料を手元に用意できているか」  担任の後藤先生の声がいつもより大きく感じる。   今日は以前出された課題の発表の日。テーマは「自分の住む地域にまつわる話」  皆の前での発表は緊張する。皆各々いろいろな発表を考えているようだった。  模造紙を用意した者もいれば、写真を用意してきた者、パソコンを使用する者もいた。  彩夏はシンプルにレポート用紙にまとめた資料を読み上げることにした。  彩夏は銀杏地蔵について調べてまとめたのだが、調べてみて思ったが銀杏地蔵は自分が思っていた以上に歴史が長く、地域に親しまれていることを改めて知ることができた。  教室では、皆の発表を聞きながら自分の順番を待つことになった。  彩夏は緊張して人の発表を聞くどころではなかった。  ふと、隣の深彗に目を向けた。  深彗は彩夏と違って落ち着いた様子で、皆の発表を楽しそうに聞いていた。 ――そういえば深彗君、課題どうしたんだろう   * 『深彗君、結局課題どうなったの』 『もう提出したよ』 『えっ。何について書いたの』 『内緒。当日のお楽しみ』  *  深彗は彩夏にも内容を教えてはくれなかった。 ――一体何について書いたのだろう  彩夏には想像もつかなかった。 「じゃあ……次は、葉月……」  とうとう自分の発表する順番がやってきてしまった。  彩夏は心臓が口から飛び出しそうな程緊張していた。始まる前から、早く終わって欲しいと願っていた。  皆の前に立つと席から見守る深彗はガッツポーズをして見せた。  彩夏はうんと頷き、原稿に目を落すと発表を始めた。 「私の住む地域で親しまれている銀杏地蔵について調べてみました」 ――銀杏地蔵  樹齢六百年以上と言われる大銀杏は、秋になると黄金色に輝き銀杏をたわわに実らせることから鈴なりの木とも言われ、県の天然記念物にも指定されている。  その名の通り、銀杏の大木の傍に小さな地蔵の祠がまつられていることから、銀杏地蔵と呼ばれている。  私の住む地域は、愛鷹連峰山から始まる源流、赤渕川の下流に位置する。  赤渕川は水量が少ない河川と言われているが、一度(ひとたび)大雨が降ると水量は増し、想定外の被害をもたらした。  私の住む地域は、大昔から豪雨に見舞われると川が氾濫し水害に悩まされてきた。  過去の歴史の記録によると、今から六百年以上前の七月二十三日。  豪雨により赤渕川の堤防は決壊し大洪水が起こると、下流に位置するこの地域の村は濁流にのみ込まれ、その多くの人々は村とともに凄まじい濁流に押し流され、村は跡形もなく消滅した。  その後、水害で命を落した人々の鎮魂のために地蔵菩薩が建立された。  銀杏の木はその当時植えられたものと思われるが、地蔵と銀杏の木の因果関係は明らかでは無い。  現在、地蔵菩薩は銀杏地蔵として地元地域住民に親しまれ、年に一度のお祭りを盛大に行い大切にまつられている。  私の祖母の話によると、私の父が幼い頃も集中豪雨で赤渕川の堤防が決壊し大洪水が発生すると自宅は床上浸水したということだった。  その後大規模な川の工事が行われると、現在に至るまで水害に見舞われることはなくなった。  現在、銀杏の大木と地蔵の祠の周辺をぐるりと一周歩いてまわれる広場となっている。広場にはブランコ・滑り台・鉄棒・ベンチなど子供たちの遊び遊具が設置され、日中は子連れの親子やお年寄り達の憩いの場となっている。  また、銀杏の大木は四季折々の風情を楽しむことができる。  春は生命の息吹を感じさせ小鳥がさえずり、夏は目も覚めるような新緑に覆われると銀杏の大木は夏の強い日差しを遮り涼しい木陰をつくる、秋は鈴なりの大木から黄金色の銀杏の葉が舞い落ちあたり一面金色のジュータンで覆いつくされ、冬木となった銀杏大木は根から幹、枝までその大木の雄大さを感じとることができる。  また、銀杏の木の垂れた枝の先端に無数の待ち針が刺されているのをよく見かける。  一見誰かの悪戯かと思われるが、実はこれには云われがあった。  子を持つ母親がこの銀杏の木の垂れた枝の先端に待ち針を刺し祈ると母乳の出がよくなり子供が元気にすくすくと育つという言い伝えだ。  その伝承はいつ始まったものかは定かではないが、この地域の人々に語り継がれ今でも信じるものがこうしてやってくる。  私も幼き頃、女性が待ち針を刺し銀杏の木の下で祈っている姿を何度か見かけたことがある。それ程この銀杏地蔵はこの地域で大切にされている。  そしてもう一つ祖母より地蔵にまつわる話を聞いた。  地蔵は死者の魂をあの世に導く役割があるという。  地蔵はこの世に未練がある魂を救うために存在するのだと。  この地域では亡くなった魂は皆、銀杏地蔵を目指すという。  銀杏地蔵は私達を見守り、いつかその時を迎えた者たちの魂を安寧の地に導いてくれる存在だということを知ることができました。以上です。  彩夏は達成感と安堵に包まれ、脱力した。 「彩夏、お疲れ様」  席に戻った彩夏に深彗が(ねぎら)いの言葉をかけてくれた。   その後も発表は続き、深彗の番がやってきた。  担任の後藤先生がぼやいた。 「水星、これ大変だったぞ。感謝しろよ。自由とは言ったものの英文で提出とはな……」 「英文?」  クラスの皆から一斉に感嘆の声が上がり教室中がどよめいた。 「さすが帰国子女!」  ざわつきが止まない。  「まだ、日本語の長文が上手く書けなくて、すみません……」  深彗はその場に立ち申し訳なさそうに皆に頭を下げた。 「これ水星の課題だ。皆の勉強のためになるからコピーした」  プリントが前から順番に配られる。英文で書かれた文章だった。 「水星、悪いが英文読んだ後、日本語で訳したものを読み上げてもらえないか」 「はい、分かりました」  深彗は皆の前に立つと流暢な英語で話し始めた。  ところどころ単語が耳に残るだけで内容はほぼ理解できなかった。  彩夏は自分の英語力の無さを痛感させられた。  澄んだ彼の声は聴いている物の心の中までも響いてくるようで心地よかった。 「えっと、銀杏地蔵の資料を呼んで創作した昔話です」 「うわー創作だって!凄い!」  深彗の言葉に皆の反応が凄く、再び教室内が賑わいだ。  深彗はなんと昔話を創作していた。  彩夏は大いに驚き、そして深彗の創作した昔話がどんな話か楽しみで胸がわくわくしていた。   ――少女と子猫  昔々その昔、下川原村と呼ばれる大きな村があった。  この村は愛鷹連峰山から始まる源流、赤渕川の下流に位置する村だった。   一度(ひとたび)激しい豪雨に見舞われると川が氾濫しこの村は大昔から 水害に悩まされてきた。  ある年の夏の七月二十三日のことだった。  何十年に一度といわれるほどの大豪雨に見舞われた。  川の堤防はついに決壊し大洪水が起こった。  その川の下流に位置するこの村は濁流にのみこまれた。  村の人々は逃げる間もなく、押し寄せる濁流にその多くの人々が村ごと押し流され、尊い命を落とした。  そんな中、奇跡的に濁流から命からがら逃げ伸びた少女がいた。  少女は目の前で濁流に押し流されてゆく家族をただ見ていることしかできなかった。  少女は絶望に打ちひしがれていた。  そこへ濁流に流されてゆく一匹の子猫を見つけた。  それを見た少女は、自分の命も顧みず濁流の中へ飛び込み子猫を掬い上げた。  自然の脅威に立ち向かう少女は、あまりにも無謀だった。  少女は子猫と共に濁流に押し流されていった。  流されていく途中、木から伸びる枝に何とかつかまることができた。  少女は子猫を木に登らせると、濁流に押し流されないよう必死にしがみついた。  少女は何度か木に這い上がろうと試みたが滑り落ち、木に登ることができなかった。  ただ濁流にのみ込まれないように必死に枝につかまることしかできなかった。  子猫は声が嗄れても必死に鳴きながら少女を励ました。  その時だった。  上流から濁流に乗った大木が、少女めがけて勢いよく流れてくるのが見えた。  それに気づいた少女は何とか木に這い上がろうと必死だった。  無情にも少女の体力が底をつき、もうどうすることもできなかった。  少女は顔を上げ子猫の無事を確認すると、子猫に至極満面の笑みで微笑んだ。  それは見たこともないほど美しい慈愛に満ちた天使のような微笑だった。  不思議と少女の表情に恐怖の色を感じなかった。  それどころか、どこか解放されたかのような清々しさまで感じられた。  きっと少女は、最期に子猫の恐怖心を取り除いてあげたかったのかもしれない。 「あなたが無事でよかった……どうか……あなただけでも無事に生き抜いて……」  そう言うと少女の手は枝からすっと離れ、凄まじい濁流の渦にのみ込まれていった。  一瞬だった……少女は子猫の目の前から消えてなくなった……。  子猫と少女の初めての出会いは、最期の別れでもあった。  子猫は思った。  もしも僕が人間だったら……  少女の手を離すことはなかっただろう。  もしも僕が人間だったら……  この手で少女を救い出せたのに。  もしも僕が人間だったら……  少女の身代わりにだってなれたのに……  もしも……  もしも……  僕が猫だったばかりに……  少女を救うことができなかった。  僕と出会ってしまったばかりに……  少女は尊い命を失ってしまった。  僕が生まれてこなければ……  少女は素晴らしい人生を歩んでいたに違いない。  僕が……  僕が……  猫は悔やんでも悔やんでも悔やみきれなかった。  どんなに悔やんでも、少女は(かえ)ってくることはないのだから……。  その後、村には地蔵が建立され死者の魂をともらった。  この悲しい出来事を後世に伝え忘れないようにそして希望をもって生きるよう願いを込めて一本の銀杏の木が植えられた。  子猫は少女のおかげで寿命が尽きるまで生きることができた。  やがて子猫は死を迎えると地蔵に救いを求めた。  ある少女に助けられこれまで生きてこられたことを。  その少女を助けることができなかった心残りを。    子猫は、何度でも生まれ変わり少女の元へ巡り合わせて欲しいと。  いつか少女に恩返しがしたいと、地蔵に強く願った。  地蔵は子猫のその願いを聞き届けてくれた。  そして子猫は何度も何度も輪廻転生し、少女のもとへやってきた。  少女が寒さで凍えている時、子猫が少女を温めた。  少女が悲しみに打ちひしがれている時、子猫は傍で寄り添った。  少女が食料に困り飢えてしまいそうな時、子猫は食べ物を運んだ。  少女が一人ぼっちでこの世を去る時、寂しくないように最期を看取った。  少女は何度生まれ変わっても悲しみの中にいた。  だから子猫は永遠の時を少女のために生き、少女の幸せを心から願った。    いつしか子猫は少女に恋をした。  実らない恋だとわかっていた。  それでも子猫は少女を想い続けた。  永遠に叶うことのない願いだということもわかっていた。  それでも子猫は少女を愛した。  少女だけをずっと見つめてきた。  少女の幸せだけを願って。  抱えきれない程の愛を。   精一杯の愛を。  その全てを惜しむことなく少女に奉げた。  子猫には願いが一つだけあった。  幸せそうな少女の笑顔を見てみたい。  子猫の儚い願いだった。  子猫は今もどこかで少女の幸せを願い見守っているのであった。 ――なんて悲しい物語なのだろう。クラスの皆が泣いている。先生までも……  彩夏の瞳から絶え間なく涙が零れ落ちていった。  温かいものが彩夏の肩に触れた。 「彩夏……大丈夫?」 「ちっとも楽しくなんかないじゃない。こんなにも悲しい物語を書いていたなんて……」 「銀杏地蔵の昔話を書いた……」  まだ涙が止まらない彩夏は両手で涙を拭っていた。 「創作でよかった……いくら何でも、悲しすぎるでしょ……」 「……ごめん、君を悲しませるつもりはなかった……」  彩夏があまりにも泣くため深彗も悲しげな表情を浮かべていた。  終礼が終わると深彗は彩夏に声をかけた。 「彩夏、さっきは泣かしてごめん。お詫びにこの後、映画でも見に行かない?」 「映画?なんか久しぶり。いいよ」 「彩夏、何か見たい作品ある?」 「今何やっているのか分からないから。深彗君は見たい映画があるんじゃないの?」 「うん、彩夏と一緒に見たい作品がある。それでもいい?」 「いいよ」  彩夏は深彗の誘いを嬉しそうに二つ返事で受けた。 「それで、深彗君は何の映画が見たかったの」  「これだよ」  深彗は映画館のポスターを指さした。 「これって……ひょっとして……」 「そう、前から気になっていたんだ」 「そうなんだ、深彗君にしては何か意外。でも面白そうだね」 「あとポップコーン食べない?飲み物は何にする?」  深彗はとても楽しそうだった。  深彗は一番後ろの真ん中に席をとった。  平日夕方の上映回は、二人以外数名の客が少し離れた前の席にちらほら見られるだけだった。  映画を鑑賞中、彩夏は何度も涙が溢れてきた。  この映画は少年と犬の物語だった。犬が亡くなると生まれ変わり再び少年のもとにやってくる。その後も犬は何度も生まれ変わり大人になった少年に無償の愛を与え寄り添った。 まるで深彗の創作した昔話のようにとても悲しかった。  深彗を見ると、これまで見せたことのない程悲しい表情で彼の宝石のような美しい瞳から涙が零れ落ちていった。 「深彗君……」と彩夏は小さく呟く。  彩夏は弱く微笑む深彗の手をとると彼もその手を握り返した。  映画が終盤を迎える頃、深彗は彩夏の指を絡めとるように繋ぎ直した。  彩夏は頬に熱を感じながら、繋がれたその手を見つめた。  そしてエンドロールが流れる頃、深彗は彩夏の耳元で「彩夏……」と甘く囁いた。  彩夏は振り返るように顔を向けると、至近距離の深彗と視線が交差した。  深彗の宝石のような美しい瞳は、スクリーンに映し出される映像に反射して煌めきを放っている。  その瞳にすっかり魅了されてしまった彩夏はその美しい瞳に吸い込まれるような感覚を覚えた。  深彗は彩夏の澄んだ瞳を捉えると、ゆっくりと顔を近づけ瞳を閉じた。そして、その艶やかな桜色の唇にそっと口づけた。  彩夏は初めての口づけに頭の中が真っ白になり、気恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだった。  彩夏の唇はとても柔らかだった。  深彗は一度唇を離し、彩夏の左頬を右手でそっと包み込むように触れた。  彼が触れる頬が性急に熱を抱いていく。  彩夏の心臓の音が深彗に聞こえるのではないかと言うほどドキドキした。  深彗は慈しむような眼差しで彩夏を見つめ「今度は、僕が君を守るから……」そう囁くと再び甘い口づけを落した。  深彗の溢れる愛に、彩夏は胸の奥から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。  彩夏のその艶やかな頬に真珠のような大粒の涙が伝っていった。
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