第八章  君の物語

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第八章  君の物語

 学校が終わり彩夏は帰宅の途についた。 「まただ……期待したって無駄なのに……」  悲しみの波紋が彩夏の胸の中に広がっていく。  彩夏は暫くその場に立ち尽くす。    * 『ただいま……ミィ、今日も待っていてくれたの』  まるで恋人同士のような一人と一匹の猫。  塀の上にはアクアマリンのようなブルーとエメラルドのようなグリーンのオッドアイの美しい瞳を持ち合わす神秘的な白猫が今日も彩夏の帰りを待っていた。  彩夏と白猫ミィは、額と鼻をくっつけ合って今日もお決まりの挨拶をする。  ミィは、すりすりと彩夏の頬に顔を擦りつけた。 『さあ、一緒に帰ろう』  塀の上で尻尾をピンと立てて歩くミィ。  少し先を歩くミィは、彩夏がちゃんと後ろをついてきているか確認するかのように時折足を止め振り返る、その優しい眼差し。   *  白猫ミィがいつも彩夏の帰りを待っていたお決まりの塀の上。  彩夏は虚空に白猫ミィの姿を見ては、現実に引き戻される。  彩夏はこの一年近くこの癖が抜けない。  時折、とてつもない寂しさと虚しさに襲われることもあった。 「ただいま……」 ――自宅はいつだって気が重い……。 「ああ、お帰り彩夏」  祖母だけがあたたかく迎えてくれる。 「はぁ……」  彩夏は大きなため息をつく。ため息をついたところで変わることのないこの現実。  リビングに入ると、どことなく違和感を覚えた。 ――何だろう……いつもと何か違うような……  あたりを見渡すと違和感の原因を理解した。 「え?」 ――本棚がない  今朝まであった本棚がない分、広く感じたのだ。  その本棚には彩夏の思い出が詰まっていた。  小学生の頃からお年玉や滅多に貰ったことのないお小遣いを少しずつ貯めて買い集めたコミック本や、アルバイトで稼いだお金で買い集めた小説、叶うことのない夢と希望が詰め込まれた専門書籍までもが、本棚ごと忽然と消えていた。  胸騒ぎを覚えた彩夏は、本の行方について祖母に質問を投げかけた。 「ねぇ、おばあちゃん、ここにあった本のことだけど何か知らない?本棚ごとなくなっているけど、本が何処にあるか知らない?」 「ああ、本当だ。本棚がなくなっている。今日は昼過ぎから町内の集まりに出かけていてさっき戻ったところだけど……」  二人で驚きの表情を浮かべた。母の仕業と思った。  家中探したが彩夏の本は見つかることはなかった。 「彩夏、夕飯の支度ができたから先に食べなさい」 「うん……後で食べる……」  食事どころではなかった。彩夏は母の帰りを待つことにした。  掛け時計は二十一時をまわる頃車のエンジン音がした。両親が帰宅したと分かった。  彩夏は居ても立っても居られず玄関で母を迎えることにした。  相変わらず両親は帰宅早々、口喧嘩をしながら家の中に入ってきた。  今日も既に父はお酒に酔っぱらっていて母はイライラしているのが見てとれたため、本のことをすぐに聞き出すことができなかった。  いつもと変わらず、リビングでは父が家族に暴言を吐いてはあたり散らかしている。  母は彩夏を睨むような目で見てきた。 「お母さん、ここにあった本、どこにやったか知らない?」  母に質問すると、母は口元に薄ら笑いを浮かべて答えた。 「ああ、それね……最近寒いじゃない。今日工場の外で巻き代わりに燃やしたわよ」  彩夏は耳を疑った。 「え?燃やした?本を巻き代わりって……お母さんどういう事?」  彩夏の脳裏にはなぜかこの時、歴史映画の一場面のような書物が炎の中で焼却される、焚書(ふんしょ)の映像が浮かんできた。  焚書は、支配者が権力を持って特定の思想、学問、宗教など弾圧する目的で行われる行為だ。 「よく燃えたわよ」と母の口調は楽しそうだった。  それの意味することは、すなわち母の考えに沿わないものは抑圧されるということだ。彩夏の背筋に冷たいものが走った。  彩夏はこれまで欲しいものも我慢し、少ないお金を工面して買い集めた本たちが、彩夏の断りもなく勝手に燃やされてしまった。 「どうして勝手にそんなことをするの?」  いつになく彩夏は母に楯ついた。 「あんなものがなんだっていうの。邪魔でしょうがないから処分してあげたのよ」  彩夏の大切にしてきた本たちを『あんなもの』扱いする母を彩夏は軽蔑した。 「お母さんにとっては『あんなもの』かも知れないけど私にとっては大切な宝物だから!」  更に母に食って掛かる彩夏。 「あんたと一緒で何の価値もないでしょ。だから処分したの」  母の言葉は鋭利な刃物となって彩夏の心臓を貫いた。 『何の価値もないから処分した』その言葉が彩夏の頭の中でこだまする。 ――母からしたら私は……私の存在は……焚書されたのも同然だ 「お母さん!」と言いかけたところで大きな物音がして彩夏は肩をすくめた。  ガッシャーン!コップが割れる音が響いた。 「お前らうるさいんだよ!」  彩夏と母の言い争いに父が切れたのだ。  おろおろとして割れた破片を拾う祖母の手が震えていた。 「彩夏が生意気だから叱ってよ!」  母の一言に反応した父は容赦なく彩夏に拳を振り上げ殴りつけた。 「っ!」 ――まただ……いつだってそう  母は何か気に食わないことがあると父を使って彩夏を痛めつけるのだった。 「うっ!」  鈍い衝撃音と共に激痛が走る。  彩夏が父の暴力を受けている間、母は一緒に楽しんでいるようにも見えた。 ――なんて気の毒で残念な人たちなの……私はいつまでこれに耐えなくてはいけないの?私、何か悪いことでもした?私、何か間違っている?ねえ……誰か教えて……誰か…… 「ぐっ!」  背部を叩かれ呼吸するのもやっとな状態。 「はぁ……はぁ……」 「健一!もうやめなさい!これ以上やるなら私を殴りなさい!」  祖母が彩夏を庇うように覆いかぶさった。 ――もう嫌だ……こんな日々を送るくらいなら死んだ方がましかもしれない……深彗君ごめんね……私もう、ダメみたい……  『彩夏……苦しい時、我慢をしなくていいんだよ……困った時、助けを求めていいんだよ……君は一人じゃない……』  深彗の言葉が、彩夏の頭の中でこだまする。 ――深彗君……  彩夏は勇気を振り絞って立ち上がった。彩夏は父と間合いをとると突然大声をあげた。 「誰かー!助けてー!助けてください!父に暴力を振るわれています!」  父と母に当てつけのように大声を張り上げた。彩夏が初めて行った精一杯の抵抗だった。呆れた父は拳を下ろしリビングを出ていった。  彩夏は糸が切れた操り人形のように膝の力が抜け、その場にしゃがみ込んだ。 「彩夏!随分なことしてくれるじゃない」  こう見えて世間体を気にする母は彩夏の行動が気に食わなかったらしい。  突如彩夏の左頬に耳がびりびりと震える衝撃が走った。  同時にバシーンと何かが炸裂する音は、母が平手で彩夏の頬を打った音とすぐには分からなかった。  ピリピリとした痛みが左頬を覆いつくし、頬は熱く腫れあがっていった。 「もうやめなさい!」  止めに入る祖母を母は睨みつけた。 「あなたがお腹を痛めて産んだ子でしょ?忘れてしまったの?それに、あなたが彩夏を傷つけるたびに、この子の心はあなたからどんどん離れて行っているってことにどうして気づけないの!」  祖母が母を叱りつけた。 「お母さんはいつだってそう……私から大切な物を奪うばかり……私の欲しいものを何一つ与えてはくれなかった……困っていても手を差し伸べてなんかくれないじゃない!そんなの親じゃない!」  彩夏は今まで言えなかった感情を生まれて初めて爆発させた。悔しさに唇を噛みしめた。 「ああ、そういえば……言ってなかった。あの日ドライブでもと思って猫を車に乗せて工場に連れていったの。なのに、あの猫、車の中で怯えてパニック状態になって大変だったんだから」 「あの猫……?」  突然の話に、彩夏は母が何を言っているのか理解できなかった。 「工場に着いてから車の扉を開けたら、あの猫勢いよく道路に飛び出すものだから、走ってきたトラックにひかれて死んじゃったわよ」と母は面白おかしく話した。  彩夏は頭からサッと血の気が引いていくのを感じた。 「……今、なんて……猫って……ミィのこと言っているの?」 「そうよ、あんたが可愛がっていた猫のこと、もう忘れてしまったの」  母はフンと鼻を鳴らし、あざ笑うように言った。 「どういうこと?ミィが死んだって……嘘、嘘でしょう……だってあの日、そんなこと言わなかったじゃない……」 「本当よ、猫が目の前で轢かれるところをこの目で見たんだから」  母は甲高い声をあげながらそう言った。  胸を抉るような事実を突きつけられて彩夏は言葉を失った。  視界はグニャリと歪み、腹の底から沸々と怒りが込みあげていくのを感じた。  彩夏は震える両手を固く握ると母を強く非難した。 「お母さん、酷い……酷すぎる!……少し考えればわかることでしょ!いきなり車なんかに乗せられて、知らない場所に連れていかれたら怖いに決まっているじゃない!」 「その後ミィはどうなったの?病院に連れていってあげたのでしょ?」 「トラック相手じゃ助からないでしょ。確認しなかったけど」 「酷い!そんなのただの見殺しじゃない!生きていたかもしれないのに!なぜ、なぜもっと早くに教えてくれなかったの……ずっと、ずっと帰りを待っていたのに……どこかの家で可愛がられていると信じていたのに……」  彩夏は悔しさに唇から血が滲むくらい噛みしめると、髪が逆立つほどの強い怒りに変わっていくのを感じた。  彩夏は肩を震わせ激昂し感情を爆発させた。 「あなたは私から全ての物を奪い去った!私が今までどんな思いで過ごしてきたかなんて、きっと知らないでしょう!あなたは私から……友達だって、本だって、夢や希望まで……何より私にとってかけがえのない、ミィの命まで奪い去った!私は、あなたを絶対に許さない!」  彩夏は、張りつめられた糸がプツンと音をたてて切れたのを感じた。  突如いなくなったミィはどこかで元気に暮らしていると信じていた。優しい人たちに囲まれて幸せに暮らしていると、そんな微かな希望を抱き続けていた。  まさか、思いもよらぬ形で真実を知ることとなった彩夏は、絶望に心打ちひしがれた。 ――私にはもう何もない……夢も希望も未来だって……嫌だ……こんな家、こんな人生、こんな私に……もうウンザリだ!  喪心、絶望、悲哀、落胆、憤慨、憎悪、自己嫌悪、様々な感情が頭の中を駆け巡り、彩夏は追立てられるかのように家を飛び出した。  その頃深彗は携帯端末を見つめていた。いつもならばすぐに返信メールが届くのだが、送信メールは増えていくばかりであった。夕方彩夏と別れてから随分と時間が経つというのに既読すらつかない。  携帯端末は二十二時半を表示していた。  彩夏の身に何かが起きたと察した深彗は、逸る気持ちが高まり部屋を飛び出した。  彩夏は行く当てもなくただひたすら幹線道路沿いを彷徨い歩いていた。  心の支柱を引っこ抜かれた彩夏は、心にぽっかりと大きな穴を抱えたまま、生きる意味さえ分からなくなり最早どうでもよかった。   暫く歩くと鳥居が見えてきた。彩夏は、神社の駐車場らしいその場所で縁石に腰を下ろした。  家を着の身着のまま飛び出した彩夏が身につけていた物は学制服のスカートとシャツ、ベストだけ。  冬の夜中ともなると温度が急激に下がり、薄着の彩夏はぶるりとその身を震わせた。  吐く息が白い。彩夏は膝を抱えその場にうずくまると「はぁ」とかじかむその手に息を吹きかけた。  思い出したかのようにポケットから携帯端末を取り出すと、日付が間もなく変わる頃だった。  何気なくメールを確認すると、深彗からのメールが何通も届き履歴には不在着信も何件かあった。 「……」  躊躇いながらも、コールする彩夏。 「彩夏か?何があった?無事か?今どこにいる?」  深彗の性急な質問から、彩夏の異変を察知し心配してくれていることがわかった。  そんな深彗に彩夏の胸がぎゅっと締め付けられる。 ――最後にあなたの声が聞きたかった…… 「深彗君、返事が遅くなってごめんね……」 『どうした?彩夏……泣いているのか?今、どこにいる?』 ――ああ、あなたはどうしていつも、私にこんなにも優しくしてくれるの? 「私、いつも深彗君に助けて貰ってばかりだね……」 『そんなことない』 ――幼き頃からどんなに望んでも得ることができなかったもの……あなたはこんな私に惜しげもなく与えてくれた…… 「深彗君……今までありがとう……」 『急にどうしたの?』 ――終わりにしたい……もう・・・・・・終わりにしよう…… 「ねぇ、深彗君……人ってさぁ、死んだら心はどうなっちゃうのかな……」 『彩夏?』 ――私……深彗君のことちゃんと覚えていられるのかな…… 『何馬鹿なこと言っているんだ!彩夏!』 「ごめん……今言ったこと全部忘れて……いつもの冗談だから……」 ――その時、あなたは私のことを覚えていてくれますか?否、どうか忘れてください 『彩夏、今どこだ?どこにいる?今すぐ迎えに行くから、場所を教えるんだ!』 「……」 ――あなたにはもう、会えない…… 『彩夏!』 「……」 ――会ったらきっと気持ちがブレるから……いいの、これでいいの…… 『一体、何を考えている!』 「……」 ――さようなら……深彗君…… 『答えろ!彩夏!』  こんな深彗は初めてだった。 「……」 『……いだ、お願いだから、僕から離れようとしないでくれ……』  彩夏には深彗の声が泣いているように聞こえた。 「……」 『君を守ると……約束しただろ……』 ――彼をこれ以上悲しませるわけにはいかない…… 「……今、――神社の駐車場にいる……」  喉がしまって声が裏返る。 『彩夏、教えてくれてありがとう。今から迎えに行くから、そのまま電話を切るんじゃない』 「……うん……待っている……うん、ありがとう……深彗君……」  ――あなたはいつだって私に……惜しむことなく無償の愛を与えてくれる……  彩夏の凍てついた心がじんわりとあたためられ溶けていくようだった。  ――この感じ……なんだろう……以前にも、こんなことがあったような……これってデジャブ?  ふと脳裏にいつか見た夢を思い出した。 「ねえ、深彗君……」 『どうした?』 「前にね、見た夢の話をしてもいい?」 『うん、どんな夢?』 「それはね、今日みたいな寒い冬の夜の夢……」 『ごめんなさい、いい子にします、だからお許しください……どうか、どうか……』   師走のある夜。  歳にして三、四歳のまだ幼き女の子は、突如夜の寒空の下に放り出された。  身に着けているのは薄い着物一枚。  ヒヤリと冷たい地面から起き上がると、ザクリと音がした。  女の子は、ぶるりとその小さな身体を震わせた。  外は先程までとは違う、あたり一面白銀の世界に様変わりしていた。  女の子は凍える身体を抱えながら夜空を見上げた。  冷たい闇の空から、真っ白な雪の華が音もなくふわりふわりと舞い落ちてくる。  その様はなんとも美しく、この状況下であっても女の子は心躍らせた。 ――なんてきれい……  女の子は掌にひとひらの雪を受け止め眺めた。  雪は女の子の頭や肩にも舞い落ちてはすぐに溶け水滴と化した。  女の子はその儚さに寂しさを感じた。  今宵どうしてこんな酷い仕打ちを受けなければならないのか、幼い女の子には全く理解できなかった。  女の子にできることはただ一つ。  ただひたすら『ごめんなさいどうかお許しください……』許しを乞うことだけだった。  あたりは闇にのまれ、音のない世界に女の子は恐怖を覚えた。  女の子は泣きながら家の周りを裸足で歩き、かじかむその小さな手で扉を、窓を、壁を叩き続けた。  女の子の声は家の中の者に聞き届けられることはなかった。  家の中からは温かな光が漏れ、女の子の兄妹たちの楽しそうな笑い声が聞こえてきた。 ――お母さん……  少女は再び玄関を叩きながら訴えた。 『お母さん、いい子にするから、中に入れて……』そう泣きながら何度も訴えた。  しかし虚しくも誰も出てきてはくれなかった。  それでも女の子は必死に扉を叩き続けた。  かじかんだ女の子のモミジのような両の手から、とうとう血が滲み出てきた。  その血は真っ白な雪を赤く染めていった。  無情にも美しい雪の花弁は、女の子の頭や肩に舞い落ち、溶けることなく後から後から降り積もっていく。  体の小さな幼い女の子には雪の寒さは身に応え、急速に体温を奪われていく。  女の子は『はぁ、はぁ』と息を吹きかけ、そのかじかんだ両の手を温めた。  だが、女の子の身体はガタガタと震えがとまらず、歯はカチカチと音をたてた。  いつしか声も涙も出せなくなり、立っていることすら辛くなった。  女の子は家の玄関前にしゃがみ込み呆然とすることしかできなかった。  女の子は真っ暗な闇の中に一人ぼっちで、寒さに耐えながら孤独と戦った。  そこへどこからともなく現れた一匹の白猫が、女の子にすり寄ってきた。 『お前も一人なの?寒いでしょ。私が温めてあげる』  女の子はそう言うと猫を抱きかかえた。  その柔らかでふわふわな心地よい毛並みと小さな命は、女の子の心と身体をあたため安らぎを与えた。 『猫ちゃん、こうしていると、あったかいね……』  女の子は満面の笑みで猫に微笑んだ。  猫は凍える女の子に抱きかかえられながらゴロゴロと喉を鳴らした。 『どう?猫ちゃん、あったかくなった?』  女の子は自分のことよりも猫の心配をする。  猫は女の子を見上げると応えるように『にゃ~ん』と鳴いた。  女の子は慈しむような眼差しで猫を見つめると、かじかむその小さな手で猫の頭をそっと撫でた。 『猫ちゃん、もう少ししたら家の中に入れるから、それまで辛抱してね』  女の子は家の扉が開かれことを信じて、寒さに耐えながらひたすらじっと待ち続けた。  雪は後から後から絶え間なく降り積もり、女の子はすっぽりと雪に包まれていった。 『なんだか、すごく……眠くなってきた……猫ちゃん、おやすみ……』  女の子はそう言うと深い眠りに落ちていった。  猫は何度も何度も、女の子の冷たい頬に顔をすりすりと擦りつけるが、女の子は目を覚まさすことはなかった。 『お母さん……』 『なあに?』 『あのね……手を繋いでもいい?』 『なあに?どうしたの、この子ったら急に……ほら……』  母親は女の子に手を差し出した。  女の子は嬉しそうに差し出されたその手をじっと見つめそして握った。  その手は確かにあたたかかった。 『お母さん……ありがとう……』  それは、女の子の叶うことのない儚い夢だった。 「その夢はね、何度思い出しても鮮明で、胸が苦しくなるくらい切なくて、とても悲しい夢だった……」 『……君は、そんな悲しい夢を見たんだね……』 「うん……」 『彩夏、近くまで来たからもう直ぐ会えるよ。待っていて……』 「うん、待っている」  物思いに耽っている彩夏の目の前に一匹の親猫とその後を追う五匹の子猫が現れた。  子猫たちは親猫の後をちょろちょろとついてまわり可愛らしい。  暫く様子を見ていると、その親猫は無謀にも、五匹の子猫を連れて道路を横断しようとしているようだった。  彩夏はその様子に胸騒ぎを覚えた。  夜中と言ってもまだ交通量の多い幹線道路だ。  彩夏はその猫の親子から目が離せなかった。妙な緊張感に包まれた。  嫌な予感は的中するものだ。   先走る車のヘッドライトの明かりが眩しく感じたその瞬間、親猫が突如道路へ飛び出し横断し始めた。その後を少し遅れて子猫たちが追いかけた。 「ダメ!ダメ!ダメー!今行ったら死んじゃう!」  彩夏は悲鳴を上げた。  猫の親子が横断しているとは気づきもしないトラックは速度を落とすことはなかった。 ――このままでは子猫たちが轢かれてしまう!  焦燥感に駆られた彩夏は咄嗟に道路に飛び出しトラックに向かって両手を広げると制止を試みた。 ――お願い!早く気づいて!すぐに止まってー!!  彩夏は祈りながらその場に立ちはだかった。  道路に目をやると、まだ渡りきれていない子猫が視界に入った。 ――お願い!早く!早くー!!  トラックは彩夏に気づくと空気を切り裂くような激しいクラクションと急ブレーキ音を響かせながらこちらに迫ってきた。 ――ああ、もうダメ……もう間に合わない……深彗君……ごめんなさい……   彩夏は肩を竦め、目をきつくつむると死を覚悟した。 「彩夏ー!!」  自分の名を呼ぶ声がした。  その瞬間、彩夏は衝撃音と共に身体がふわりと宙に舞う感覚を覚えた。
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