611人が本棚に入れています
本棚に追加
「ねえ、あなた。覚えてる?」
ダイニングのソファーで寝そべっていると、突然妻の都与乃がキッチンの戸を開けて訊いた。荒木茂一は、南向きのソファーから体を起こし、スコッチの水割りのコップをサイドテーブルに置くと、振り返って「え? 何のこと?」と訊き返した。
ちらりと時計の針を見ると、すでに夜の九時を回っていた。真夏の夜の蒸し暑さは、心地よく効いたエアコンにすっかりかき消されている。
「ラジオのニュースを聞いて思い出したの。私たちが結婚する前のことだけど、木曽川河口にウナギ釣りに行ったことがあったでしょ? 私がまだ二十歳を過ぎたばかりのころかな」
茂一は、四十年以上前のその日のことを思い出そうとしたが、すぐには思い出せない。
茂一は、過去の出来事を振り返りながら、向かい側の出窓に飾られた一輪挿しのアルストロメリアを眺めていたが、首を小さく左右に振り、「そんな昔のこと覚えてないな」と答えた。
「え? 信じられないわ。私たちの人生の中で、一番びっくりした出来事なのに……」
妻の都与乃は、残念そうにそう言うと、茂一の前のテーブルに酒の肴を置いて、テレビを観に居間へ入っていった。
.
最初のコメントを投稿しよう!