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理永はたくし上げられたシャツを勢いよく降ろした。ついでに乱れかけていた襟元もぎゅっと手で押さえた。
「・・・帰る」
「えっ、ちょっ、ちょっと待ってくださいっ、僕、なにか悪いこと・・・」
「・・・・・・してねえけど!」
「今の流れは・・・僕だけの暴走じゃなかったはずです!理永さんも・・・っ」
「わかってる!・・・けど、悪いけどそんな簡単じゃないんだよ」
「なにがそんなに難しいんですか?!」
享の言葉に理永は苛ついた。
「キスしたぐらいで・・・その先に行けるわけじゃないってことだよ。言っただろ、俺なんかやめておけって」
「だったら今日、断ってくれたらよかったのに・・・・・・・」
「・・・は?」
「期待するなって方が無理です・・・さっきまで楽しく打ち解けてくれてたじゃないですか・・・なんで・・・・・・」
「・・・・・・」
享は今にも泣き出しそうだった。酔いも手伝ってか、享はテーブルに突っ伏した。少し待っても起きあがらない享に、理永は困り果ててそっと手を伸ばした。
「・・・わ・・・悪かったよ・・・」
背中に手を添えても、享は動かなかった。その手を戻し髪をくしゃくしゃと乱して、理永は小さくため息を吐いた。
「違うんだよ」
享の頭がとてもゆっくり持ち上がる。さすがに泣いてはいないが、その表情はどんより曇っていた。
「違うって何が違うんですか。やっぱり僕みたいなのより、この間みたいにガタイが良くて強引な人の方がいいんですか」
「だからあれはたまたま、当たりが悪かっただけで・・・」
「いつもああやって、その場の相手を探す生活してるんですか」
「・・・そう、だけど」
「僕じゃ・・・いや」
言い掛けて、享は一度唇を噛んだ。強い視線を理永に向けて、言い直した。
「俺じゃ、あなたの相手にはなれないんですか」
「え・・・」
「あんな風に行き当たりばったりの相手じゃなくて、俺はあなたの特別になりたい」
「あんた何言って・・・」
「享、です」
「・・・・・・」
「あなたが好きです」
二度目の告白は、一度目よりずっと重みがあった。
お人好しで育ちの良いお坊ちゃんストーカーは、急に男の顔で理永を見据えている。金縛りに遭ったように身体が動かなかった。
「もし理永さんが俺に全く興味がなかったら、今ここに居ないですよね。一度は諦めましたけどもう引き下がらないと決めました」
「・・・・・・」
「どうして駄目なのか教えてください。じゃなかったらキスなんかしないでしょう」
「・・・わかったよ」
ここまできたら逃げられない。
既に、この田中享に気持ちが傾いてきていることには気づいていなかったのだが、理永はぼそぼそと喋り始めた。
「嫌いなわけじゃない。ただ・・・・・・苦手なんだ。誰かと深く付き合うのが」
「それは、どうしてですか」
「さっき言ったろ。結局表面でしか見てもらえないからだよ」
理永はそう言うと、シャツのボタンを上から三つまで開けた。一つだけ開いていた時には見えなかった赤い痣が顔を出した。その赤さは酒で火照った桃色ではなく、緋色に近かった。
「明るいところでこれを見た奴は、それまで俺の顔をうっとり見ていたくせに、手のひらを返して気味悪がって離れていくんだよ。だからこの間みたいなその場限りの方が気楽ってこと」
「俺はそんなことしません」
「これだけならみんなそう言うんだよ」
「これだけ・・・?」
「・・・全身で見たら引くから」
理永はボタンを締め直して口の端だけで笑顔を作った。
享への気持ちを自覚しないまま、理永は言った。
「その場限りの相手なら、引かれようと不気味がられようとどうでもいいけど・・・そうじゃない場合はやっぱり慎重になる」
「・・・え?」
「あっ」
理永はぱっと口を押さえた。決定的なことを言ってしまったのにやっと気づいた。
「それって・・・」
「・・・・・・」
「俺がその場限りの相手とは違うと思ってくれてる・・・ってことですか」
「・・・この状況は、行き当たりばったりじゃないだろ」
沈黙が流れた。享は理永に身体を寄せ、手を握った。
「試させてください」
「・・・試す?」
「もし俺が、全身の痣を見ても引かなかったら、付き合ってくれますか」
有無を言わさぬ強さがあった。理永は今度は逃げずに答えた。
「自信満々じゃねえか」
「ありますよ。僕は理永さんの顔だけに惚れてるんじゃありませんから」
享は理永の顔にそっと触れた。
三度目のキスはとてつもなく優しかった。
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