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一日の業務が終わり、理永(りえい)は会社に戻った。洗車して、事務所に寄り、午後六時には会社を出て、ふらふらと歩き始めた。 今日で二回目の「ショパン」。田中(たなか)(とおる)には会えなかった。そのかわり、彼によく似た女性にもう一度会えた。他人の空似というには似すぎている二人。冷静に考えると兄妹なのではないかと思われた。そして、理永のセクシャルを知っているにも関わらず、立樹(たつき)は彼女が理永に恋していると言った。理永は理永で、言葉に表せない温かな感情を覚えた。 恋愛感情でないことははっきりしていた。生まれて一度も女性にそういう感情を持ったことはない。 と、いうことは。 理永は帰り道、自分のつま先を見下ろして考えた。 彼女が享の妹かなにかだとして、理永が感じたこと。それは、あの日享に施された記憶と紐付いている。 本意ではなかったとは言え、理永のピンチを救ってくれた享。理永の熱を放出させながら、享は言った。 (風俗だとでも思って目を閉じていてください) (許してください) 理永の身体に触れる手は優しかった。何度も謝りながら、享は理永の身体から媚薬を追い出しきるまで、それをやめなかった。そして最後に、おずおずとキスをした。 何の感情もないはずだった。もう解決した話のはずだったのだ。 好きだと言われたのを無下に断った理永。簡単に恋愛に発展しないのは仕方ないとしても、再会した享は気にする風もなく理永を助けた。 あの日、朦朧としながらも、ずいぶんとひどいことを言った気がする。それでも理永のために部屋を貸してくれた享。その優しさに、理永は確かに絆されかかっていた。 (まいったな・・・) 理永の身体には、生まれつき赤く大きな痣がある。腕、胸、背中、足に、まるで火傷を負ったように広がっている。子供の頃にはそれが顔にもあった。痣のせいで友達も出来ず、かつセクシャリティのことも手伝って、理永は孤独な青春時代を過ごしてきた。 高校卒業と共に手術をして、整形も施した。痣を消して、新しい人生に踏み出したのだ。 自分のセクシャルに正直に生きることを決めた途端に、孤独だった理永は相手に困らなくなった。 それでも身体に残った痣を気にして、理永は特定の相手を作ることはしなかった。一度だけの関係なら、気味悪がられたとしても傷つかなくてすむと。 享に告白された際、数年前までとてつもなく太っていてひどい目に遭っていたことを聞き、理永は話す予定もなかった痣のことをうっかり喋ってしまった。 塗りつぶしたい過去を持つ者同士。単なる共感だったと思う。愛情ではなかった。 気持ちの整理が着かないまま、理永の足は新宿二丁目に向かっていた。 例の件があってから、飲みに行くのは控えていた。明日も仕事があるので、酒が残るのはまずい。理永が向かったのは「ショパン」の新宿二丁目店だった。 「ショパン」のシャッターはまだ閉まっていた。オープンまで二時間はある。 裏口に回ってみようかとも思ったが、躊躇してシャッターに寄りかかった。 (会ってどうする?) この間はありがとう、というだけでいい。理永と顔を合わせるのは、今の享にとっては酷なことかもしれない。この間の様子からみても、彼は理永への気持ちを持ち続けている。 (礼を言うだけだ、礼を・・・) 足下を見つめて理永は自分に言い聞かせた。今日会えなければ、礼を言うタイミングを完全に失うだろう。とりあえずここで待とう、と決めて携帯電話を取り出した。 ネットニュースなんかを流し読みして十五分ほど経った頃。 「つ・・・ばきさん?」 聞き覚えのある声がして、理永は顔を上げた。 明らかに上等で不似合いなスーツに身を包み、大きな紙袋を抱えた田中享が立っていた。 「あ・・・っ」 「ど・・・うしたんですか」 理永は携帯を尻のポケットに突っ込み、享の顔を見て、息を吸い込んだ。 「こ・・・この間は・・・その」 そこまで言って、理永はがばっと頭を下げた。 「椿さん?!」 「本当に世話になって・・・ありがとう、ございました!ちゃんと礼も言わず帰ってすんません!」 「えっ、あのっ・・・」 「そ、それだけ、ちゃんと伝えたかったから、それじゃ・・・」 「ままま待って、待ってください!」 くるりと背を向けて早足で歩き出した理永の腕を享は必死で掴んだ。 「かっ、帰らないでっ」 「いや、帰るっ」 「お願い、待ってくださいっ、せっかく来てくれたのにっ」 「俺の用事は済んだっ」 「じゃあ僕の用事っ」 「はっ?」 「試食!手伝ってもらえませんか?!」 「し・・・試食・・・?」 「新商品の試食!これ全部なんですっ」 享は紙袋を顎で示した。フランスパンの先がはみ出している。袋の大きさからして、ざっと見積もっても十種類近くパンが詰まっていそうだ。 享は必死の形相で言った。 「味の感想、聞かせてもらえませんか?」 「・・・・・・」 理永は勢いに押されて、こくりとうなづいた。
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