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数年前、初めて理永が会った享は100キロ越えの巨漢だった。 入れ込んだゲイバーの店子(みせこ)に騙され蔑まれ、路地裏で泥酔し失禁した状態で、雨に晒されていた享。たまたま通りかかった男が、びしょ濡れでうずくまっている享にブルゾンを投げて寄越した。悲しくて情けなくて、立ち上がる事も出来なかったが、亨はその男の顔だけをかろうじて見上げた。 逆光の中、享はその男の顔を目に焼き付けた。 蔑まれたり、嫌悪されたりすることには慣れていた。が、その彼の表情はどちらでもなかった。 「椿さんの僕を見た目が忘れられなかったんです」 道の片隅でうずくまる享にどうしてブルゾンを投げたのか、理永はその時の気持ちを今でも覚えている。 同情はもちろんあった。似たような境遇。後ろ指を指され、嘲笑われ、理不尽な目に遭ってきた。 が、ぐすぐすと泣き続ける享を見て感じたのは、優しい気持ちだけでは無かった。 「あんなに強く見つめられたことはありませんでした・・・目を背けられたり、居ないものとされたことはあっても、僕の存在をしっかりと見つめてくれたのは、椿さんが初めてだったんです」 理永があの時感じたのは、悔しさ。 誰にも相手にされない享に自分を重ねた。本当は手を貸して、抱き起こしてやることも出来た。が、それをしなかったのは、自力で立ち上がらなければずっとこのままだとわかっていたから。 「あの時、立てよ、って言いましたよね」 「・・・・・・」 「怒られたみたいで辛かったです・・・でも・・・そのおかげで僕、がんばって痩せようと思えたんです。椿さんの言葉で」 「・・・もし」 「え?」 「もし俺の顔に、例の痣があったら、同じように思ったか?」 享はふっと、理永の手首を掴んだ手の力を緩めた。 理永は過去に、享に腕の痣を見せたことがあった。享の想いに答えられないことを示すために、いたしかたなく見せたのだ。 「椿さん・・・」 手を離された理永は、諦めて椅子に腰を下ろした。それを見て享も、向かい側の椅子に座った。 理永は背もたれに寄りかかり、天井を見上げて言った。 「痣があればあるで汚いだのなんだの言って嫌われる。手術したらしたで、その作り物の皮だけを見ていい男だのなんだのともてはやされるわけ。自分で決めたことなんだけど、結局人は中身なんかじゃなくて、見た目で判断するもんなんだなって思う・・・・・・で、」 享は理永の次の言葉を固唾を飲んで待っていた。 理永は言った。 「あんたが好きな俺は・・・どっちだ」 「椿さん・・・?」 「俺の顔が気に入ったのか」 「違います!」 享が立ち上がった。足がテーブルに当たり、皿の上のパンがいくつも転がる。地面に落ちたパンを二つ拾い上げ、ほこりを払うと理永は言った。 「このパン・・・いちじくと、明太子」 「え?」 「こんがりと焼き目がついて、いい色をしてる。形も整ってて、焼きたてなら香ばしい香りもして、かぶりつきたくなる」 「・・・・・・」 「パンを買うとき、まず、うまそうな見た目で選ぶよな?で、食べてみて、やっぱりこれうまいってなる。もし最初から焦げていたり、みっともなく中身がはみ出していたりしたら買ってもらえないだろう?」 パンを皿に戻し、理永は享と目を合わせた。 「もしあの時、俺の半顔が痣で一杯だったら・・・あんた、俺を好きになったか?」 享はテーブルを避け、理永に駆け寄った。有無を言わさず理永に抱きつき、享は言った。 「泣かないで・・・っ」 「え、おいっ」 とんでもない力で享は理永の身体を締め付けた。 「泣いてないっ、離せっ」 「僕は椿さんの言葉で立ち上がれました!椿さんは僕なんかより・・・ずっと苦労してきたんですね・・・」 それは初めて会って、お互いが似た境遇だと知ったときにも享が言った言葉だった。 理永は大きなため息を吐いた。 「どっちが辛いとかそういうんじゃなくてさ、 あんた俺のこと何も知らないだろ」 「・・・・・・・」 「俺なんか、やめときなって」 「やめません!」 やっと享は理永の身体を離した。しかしすぐに肩を掴んで前後に揺らしながら、半泣きで叫んだ。 「椿さんが優しいこと、僕は知ってますよ!別れ際にうちのカレーパン買ってきてくれたことも、この間のこと気にして会いに来てくれたことも、妹・・・店員や店のこと、誉めてくれたことも、試食につき合ってくれたことも・・・・・・これが優しくなくてなんなんですか?!」 「それは・・・いたしかたなく・・・」 「それでも!まずここに来てくれたことが証明してると思いませんか?」 「だからって、そんな簡単に恋愛に発展なんかしないんだよ!」 「わかってますよ!でも諦められないんだから仕方ないじゃないですか!」 沈黙。 一瞬間が空いた。無言で見つめ合って、ほぼ同時に吹き出した。 「・・・開き直ったな」 「だって・・・どうしても好きなんですもん」 「・・・・・・まあ、そうじゃなきゃ、抜く手伝いなんかしねえよな」 「すっ・・・すみません!」 「いや・・・こっちこそ・・・」 再び気まずい空気が流れた時、裏口のドアをバタンと開ける音がした。亨が音のした方を振り返って言った。 「従業員が・・・」 「あ・・・じゃあ、帰るわ」 「椿さん!」 享はあわてて理永の手を掴んだ。 「しつこいっ!」 「ま、また会えますかっ」 「えっ」 「会いたいんですっ、お願いしますぅっ」 「ええぇ・・・」 結局享の勢いに負けて、理永は次の休みに飲む約束を取り付けられることになった。
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