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包丁がまな板に当たり、規則的なリズムと長ネギを刻んでいく。真由美が淡々と夕飯の準備を続けていく中、遠藤と永島はそれぞれ別の準備を始めていた。
4本の細い鉄柱を空き地の四隅に刺し、白いカーテンで外部からの視線を遮断する。サーモグラフィーカメラを鉄柱の上に設置することで空き地全体を捉えることが可能となる。もし人の霊を感知した場合、サーモグラフィーに熱の変化が現れるのだった。永島はカメラの角度を調整し終えると、鉄柱に鳴子を縫い付けた糸を、土の上で罠のように仕掛けていった。
「すみません、お二方のお家なのにこんなものを仕掛けてしまって。」
遠藤はリビングに鳴子を縫い付けた糸を張り巡らせながら呟いた。テーブルの足に縛り付け、直樹が普段座っている椅子の足に繋げていく。直樹はその様子を眺めながら言った。
「いえ、あれが解決するなら…でもこの木の板は何なんでしょうか。」
「霊が通った場合に音が鳴ります。もしかしたら空き地からリビングに侵入して、直樹さんに直接霊障を働きかける可能性もありますから。」
「なるほど…こうやって、探知するんですね。」
彼はマグカップを片手に納得している。ミルクココアの湯気が微かに立ち昇り、直樹は落ち着きを取り戻していた。
「泰介、空き地に仕掛け終わったから動作確認よろしく。」
「はいよ。」
玄関からの声に返事をし、テーブルの端に置いたスマートフォンのようなリモコンを手に取る。慣れた様子で液晶に触れて遠藤は自身の携帯と共に照らし合わせていた。
「遠藤さん、これは…?」
「ウェザーステーション。今夜の平均気温が11℃なんで、これを急速に下回った場合、霊の反応があるとみて間違い無いです。」
永島が空き地に設置した機械は黒い棒の上にくるくると回転する板のような物を上につけている。遠藤の持つリモコンに空き地の温度がリアルタイムで送られるというシステムだった。
「すごいわね、科学の機器でそういうのができるなんて。私知りませんでした。」
大きな黒い鍋を両手で持ち、真由美はキッチンから恐る恐るやってくる。味噌の香りが漂う中、リビングを抜けて鳴子の糸を再確認する永島は軽く答えた。
「科学の機器があるからこそ、証明できない現象が起きて確証できるんですよね。反応があったらちょっと衝撃を覚えるかもしれませんが。」
淡々と準備を済ませ、井上と金田の一軒家に仕掛けを終えた2人はテーブルの前に座って彼らの夕食に加わった。
黒い蓋を開けると靄のような大量の湯気が立ち昇る。ぐつぐつと煮え滾る味噌を溶かしたスープの中で様々な野菜、そして弾力のあるモツが匂いを発しながら震えていて、真由美はおたまを使ってそれをぐるぐると掻き混ぜると、直樹の器を手に取って中身を掬った。遠藤は思わず中を覗き込みながら言う。
「すごいっすね、めちゃくちゃうまそう。」
「いえいえ。腹が減っては戦は出来ぬって言いますから。」
にっこりと笑って彼女は永島、遠藤の器にもモツ鍋の中身を流し込んでいく。待ちきれずに遠藤は器を持ち、箸を手に取って弾力のあるモツとくたびれたニラを掴み、口の中に放り込んだ。
味噌の染み込んだ柔らかな肉、ほのかに香るニラがアクセントとなって口いっぱいに旨味が広がる。
「んん!うまい。これはガツガツいけちゃうやつですね。」
彼がそう言うと真由美はぱあっと表情を輝かせた。どこか声を弾ませながら彼女は言う。
「あえて白菜ともやしは入れてないんですよ、水分が多いと味が薄くなっちゃうので。」
「これ、鶏ガラも入ってるんですか。」
「え、永島さん、すごいですね。ちょっとしたアクセントで入れただけなんですけど。」
わいわいと食卓が賑わう。鍋の中身を混ぜる真由美に、2人は屈託なく話しかけている。その様子をぼんやりと眺めていた直樹はしばらくして吹き出すように笑った。
ぐつぐつと煮える鍋の音の中で、3人の笑い声がぴたりと止まる。彼女は席に着くと隣に座る彼を見た。2人の背後でカーテンの開かれた窓の向こう、仕掛けを施された空き地が闇の中で佇んでいる。
「どうしたの、直樹。」
「いや。なんか、こんなにわいわいと食べるのも悪くないなって。」
こん、と器を置く。くるくると回るウェザーステーションを背に彼は続ける。
「もちろん真由美との食事も楽しいし、ご飯も美味しいから、楽しくないってことじゃないんだ。だけどよく分からない現象に苛まれてから、気が気じゃなかった。もしかしたらこの現象が真由美にも憑るんじゃないかって、思ってたから。それが心のどこかで怖かったんだ。」
そう呟く彼の拳はテーブルの上でぶるぶると震えていた。誤魔化すように片方の手で拳を覆い、強く握りしめる。指先で手の甲をつねりながら彼は言葉を漏らした。
「なので、お2人のおかげで、いつもより気が楽なんです。本当にありがとうございます。」
深々と頭を下げた彼に、真由美は持っていたおたまを離して直樹の頭を優しく撫でた。子どもをあやすように穏やかな表情を彼に向け、真由美は柔らかく微笑んだ。
その様子を見て余計な口出しは不必要だと察した2人は、逃げるようにモツをかき込んだ。味噌の風味に野菜とモツの異なる食感が心地よく、食卓を柔らかな空気が包む。これが家族を持つということなのかと遠藤は感動さえ覚えていた。
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