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13
階段を上った先に伸びる短い廊下、その奥の扉の前に立って遠藤は四隅に呪布を貼り付けた。白い紙の上で黒い文字が蛇のように畝っている。それが何を意味しているのかは、遠藤には分からなかった。
扉を開けて廊下に出た永島は白濁液の入ったペットボトルを片手に、一歩引いて扉を眺めた。細いフレームのメガネを指先で直して彼は頷く。
「うん、扉はこれでいいね。後は廊下だけだな。」
床がギィと軋む。扉の前で線を引くように、永島は清めた塩水をペットボトルの中から廊下に注いだ。びたびたと音を立てて白い液体が線を刻む。霊障を一切寄せ付けないバリアのような防霊を施し、遠藤は寝室の扉をノックした。
グレーのスウェットを着た直樹は寝る準備を済ませ、顔を覗かせた。
「あの、準備は終わったんですか。」
「ええ。これで寝室に霊障が及ぶことはありません。なので今夜はぐっすり眠れると思いますよ。」
ほっと胸を撫で下ろした直樹は深く頭を下げて扉を閉める。遠藤はそれを見届けてから階段を降り、真っ直ぐ玄関に向かった。タバコを1本抜いて口に咥えながら扉を開けると、どことなく冷えた風が体を優しく殴る。
白いカーテンをくぐる。カッと照らされた白い照明は空き地と永島を刺し、大きな影を落としていた。足元の土をぼんやりと眺めながら彼は振り向かずに言う。
「あるな。ここの下に。」
ぼうっとライターの火を灯し、深く煙を吸い込んで吐き捨てる。
強い明かりに濃霧が漂い続ける。遠藤は彼の隣に立って同じく足元を見た。特に隆起も見られないレンガ色の土。その下に何があるのか、遠藤には分からなかった。
携帯を取り出して永島は画面を眺める。サーモグラフィーカメラから転送された写真はフラッシュで焚かれた空き地を写し出していた。
「何も写ってねぇな。」
「ああ。やっぱり俺たちのことを敵とみなしていないな。」
携帯灰皿の中に吸い殻を落とし、残った煙を空に向かって吐く。手応えもないまま空き地の照明を切り、2人は家の中に戻った。
煌々とした明かりがリビングを照らしている。テーブルの上にはノートパソコンが3台置かれ、先程まで空き地にあったウェザーステーションがくるくると天井の真下で回っていた。
パソコンの画面には井上たちが眠っている寝室の映像が映し出されている。白いダブルベッドは隣り合い、2つの毛布の膨らみがゆっくりと上下している。熟睡しているのも無理はなかった。
「2時か。」
終電もなくなり、閑静な住宅街は一切音を含まない。この世界から遠藤たち以外を消し去ってしまったようだった。
時計の針が刻一刻と過ぎていく。睡眠の妨げになるため鳴子を取っ払ったため、足元には何も無かった。それをいいことに遠藤はぐっと足を伸ばすと天井を仰いだ。タバコの残り香を浴びながら彼は言う。
「規則性なんて無いよな。」
「多分な。まだ規則性があれば完璧に防げるんだが。」
「とりあえず今夜乗り切って、明日掘り出すって段取り?」
永島はこくりと頷く。深夜2時、遠藤たちは出会ったばかりのカップルの家で霊障を待っている。それがどこかおかしかった。
霊障とは違って規則的なリズムを刻む秒針の音を聞きながら、遠藤は近くの自動販売機で購入した缶コーヒーを飲む。眠りこくってしまいそうな状況をどうにか打破しようと、彼は度々強く目を見開いていた。
「来るぞ。」
冷静にそう言った永島は椅子から立ち上がる。遠藤はすぐに反応してパソコンの画面を交互に睨み付けた。
すぐ目の前にある窓の向こう、真っ平らな空き地からシャッターを切る音が連続して鳴り響く。眩いフラッシュが瞬間的に焚かれ、時折昼間のように明るくなる。ウェザーステーションのリモコンに目をやると、気温は12℃を記録していた。
「寝室にもリビングにも変化はない。」
そう報告し、彼は立ち尽くす永島を見る。しかし彼は神妙な面持ちで窓を睨んでいた。
「どうした、友哉。」
彼は何も答えない。その代わりに、数時間前に聞いたあの耳障りな複数の声がこだました。
「あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!キャハハハハハハハハハハハハハハハハハむハハハハハハハハハハハハハああああああああハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!ハハハハハたのしいいいいいいいいいねねたたたたたししししししそぼキャハハハ!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!キャハハハハハハハハハハハハハ!ハハハハハハハハハハハ!あそぼう!あそハハハハハハハハハ!キャハハハつつハハハハハハハハハハハあそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あああああああああああああいいいいいいキャハハハハッハハハハハたのしいね!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!あそぼう!」
無邪気にはしゃぐ子ども達、公園に訪れた時のような感覚だった。
「泰介、寝室は。」
「何も変化ないぞ。」
きちんとした防霊を施したためか、パソコンの画面に映し出された寝室には何も起こっていなかった。右のベッドで眠る直樹は毛布をゆっくりと上下させている。
「やっぱり、変だ。」
「何がだよ。」
少し乱暴な口調で答えた遠藤の言葉尻を待たず、2人は奇妙な音を聞いた。
ざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁざぁ
それはまるで大量の小さな物が壁や床を擦っているような音だった。先程は感じることのなかったその現象に、思わず遠藤は困惑してしまう。
その音はリビングの壁、床、天井から鳴り響いていた。
2階の寝室を映すパソコンの画面には何の変化もない。永島は咄嗟に左手首に巻かれた数珠を抜き取ると、八重歯で糸をちぎってから呟いた。
「探してる…。」
そう言った後、彼は勢いよく窓を開けるとシャッター音とフラッシュに塗れた空き地に、数珠を叩きつけた。
黒く小さな玉が闇夜に溶けていく。
フラッシュもシャッター音も、子ども達のはしゃぐ声や妙な物の音も、全てがぴたりと止む。遠藤は彼の後ろ姿に声を投げた。
「探してるってどういうことだ。」
「探してるんだよ。大量の虫が、直樹さんを探してた。」
振り返った彼は怪訝そうな表情で俯く。窓を閉め、リビングを見渡しながら続ける。
「今のざぁざぁざぁって音、これが直樹さんの言う虫の這う感覚ってやつだ。直樹さんは今完璧に霊を寄せ付けない部屋の中にいる。だから虫の霊は直樹さんを探してたんだよ。ターゲットを失くしても俺たちに干渉しない、これで本当に虫の霊が直樹さんだけを狙っているってことの証明が出来た。」
達成感ではなかった。謎を解決してもなお、不自然な点が残り続ける。これが藤川夫婦の怨念を介した虫の霊障なのか、虫そのものの霊障なのかが分からずにいた。
いつの間にか玉のような汗をかいていた永島は、スキンヘッドを何度か摩る。ぐるりと回ってパソコンの画面を睨みながら彼は決意したようにぴしゃりと言った。
「朝、掘るぞ。」
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