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新年を迎えた。
商業施設の玄関には門松が飾られ、広々とした公園には凧が飛んでいる。世界中の海を反射してミルクを溶かしたように澄んだ空は、目を見張るほどの眩い太陽を含んで輝いている。時折吹く風はナイフのように鋭いが、温もりのある日差しは微睡みを誘っていた。
やたらと大きな大学病院の壁はその日差しを取り込み、白い外壁を輝かせている。入院着を着用した子ども達は買ってもらったばかりの飛行機のおもちゃを飛ばし、病院内を走り回っている。
1階のロビーに置かれた大型の液晶テレビに映るニュースは連日報道されており、もうすぐで裁判が始まると、真面目な面持ちの女性アナウンサーは語っていた。
マスクをつけ、伏し目がちにロビーを抜けると白衣を着た男性に案内される。角を幾つか曲がるとすぐに人気はなくなり、白く無機質な廊下が真っ直ぐ伸びている。その先にある関係者用出入り口を開けると、冷気と温もりのある空気が出迎えた。
「どうも、お久しぶりです。」
さらに出迎えたのは、2ヶ月ぶりに再会した遠藤相談屋の面々だった。無造作なパーマに咥えタバコの遠藤、白いタートルネックに細いフレームの眼鏡をかけた永島は共に爽やかな笑顔を浮かべている。
直樹は改まったように深く頭を下げた。
「この度は本当に、何といったらいいか…。」
「いやいや、いいんすよ。無事退院できたわけだし。復帰は来週からですか。」
「ええ。編集長からは今月いっぱいは休んでもいいと言われていたんですが、やっぱりあの件は一刻も早く伝えないといけないと思いまして。」
そう言うと2人は納得したように頷く。
病院の関係者のみが利用する駐車場は縦に長く横に狭い。外車などが停まっており、出入り口は警備員と背の高い門で塞がれている。
その向こうから騒がしい声が聞こえ、遠藤はその方を横目で見ながら言った。
「すごいっすよ、報道陣。」
そうですね、とだけ言って直樹は縁石に腰掛けた。
2ヶ月前、村から出た3人は近くの警察署に駆け込み、そこの取調室で除霊を行った。虫の這う感覚を取り除く作業はすぐに終わり、東京の病院に搬送された直樹はあらゆる科を転々とし、やがて精神科に行き着いた。事件の内容は語られなかったものの、購買にて販売されている新聞にはその上部が書かれていた。
日光市宗教拉致監禁傷害事件と称された一件は、教祖とその他大勢の信者たちの逮捕に始まり、連日取り沙汰されていた。JEボード専用の動画配信サービス、JEムービーズ内での生中継は最終的に同時接続10万を超え、夜12時過ぎにも関わらず世界トレンド1位を掻っ攫った。海外メディアは未曾有の宗教犯罪だと言って、日本における神道や仏教などを改めて考える記事を公開している。
「一応、読みますか。」
永島は手に持っていた新聞紙を差し出す。一度だけ頷いてそれを受け取ると、直樹は一面を広げた。
安能院忠義、本名樋口武男は栃木県日光市三途村にて生を受け、以降を父である樋口良和が教祖を務める永昆凛理教の下で過ごした。彼が教祖となってからも拉致監禁、そして殺害は数百件を超え、そのどれもが不慮の事故などで処理されていた。
政府、そして警察関係者にも繋がりを持ち、これら全てを隠蔽してきたということもあって、マスコミは連日宗教と国の根深さも報じている。さらには各自治体からの告発もあり、三途村出身の者の出生を不明としていた事実も明るみとなった。
そして全国的に多発したのが、直樹が当初取材で語った虫の這う感覚、これに悩む人々からの悩む声であった。そのうちの50件は遠藤相談屋が請け負うこととなり、2ヶ月間彼らは全国を転々としていたという。
現在安能院はこれまでの拉致監禁、そして殺害を全て認め、着々と裁判へ動いているという。
「噂ですけど、情けで本城冥星教専属の弁護士が安能院側に着くそうです。ただあいつは全ての罪を自白しているんで、おそらく、死刑は確実でしょうね。信者たちがどうなるかは今後の裁判次第だと思います。しかしただ…」
申し訳なさそうな声で言う遠藤だったが、直樹は掌でそれを制した。
金田真由美とその家族、その他大勢の信者たちは警察病院に入院している。洗脳を解く専門の治療が行われているものの、そのどれもが効果がないという理由で、裁判へ持っていくのが難航しているとの話だった。
あの日以降、直樹は彼女と会っていない。
警察や病院関係者に話を聞いても、真由美の様子は教えてはもらえなかった。
しかし退院間近、警察病院からある連絡が入った。
「遠藤さん、永島さん。」
冷たい風が関係者用駐車場を通り抜け、肌を削ぎ、髪を揺らす。伸びきった前髪を掻き上げて直樹は続けた。
「俺、真由美と結婚しようと思っているんです。」
2人の驚いた声は重なった。
報道陣の騒ぎ声、街中の賑やかさが混じって泥のように鼓膜にへばりつく。その中で声をしっかりと届けるように、遠藤は携帯灰皿に吸い殻を落とすと、不安そうな表情で言った。
「もしかして、まだ洗脳が解けてないんじゃ…」
「いやいや、違いますよ。これは俺の意思です。」
ゆっくりと縁石から立ち上がり、直樹は空を見上げた。
青と白を閉じ込めた高過ぎる空。この同じ空の下、彼女は独りで何と格闘しているのだろうか。
都会の新鮮な空気を目一杯吸い込み、言葉と同時に吐いた。
「今の真由美は、信じる相手がいないんです。だったら俺が信じる相手にならないといけないと思うんですよ。このまま彼女を忘れようとして再スタートを切るのは、俺には出来ないです。それに今、彼女のお腹の中には、子どもがいますから。」
儀式が始まる数時間前、最期だと頭の片隅で思いながら体を重ねた。2ヶ月を経てそれが形となる。それを彼女は本心で望んでいたのかは分からなかったが、警察病院からその連絡を受けた時、直樹は諸手を挙げて喜んでいた。
尻に付着した縁石の砂利を払い、直樹はぐっと体を伸ばす。2ヶ月の入院生活を終えてようやく自由を取り戻した彼は、不自由かもしれない未来へ身を投じようとしていた。
「俺も安能院と同じなんですよ。もう真由美しか、信じられる相手がいないんです。あんなことがあっても彼女と一緒にいたい。もし仮に2人で生きていく未来が間違いだったとしても、また身の危険が降りかかっても、それでも俺は…真由美の笑顔が、離れないんです。」
ぐすりと鼻を啜って再び空を見上げる。雲が幾つで、今日は気温がどれくらいで、こんな日にはどこ行きたいか、今日の夕飯は何がいいのか。
空を見上げる動作だけで彼女と過ごした数年間を思い出し、直樹は一筋の涙を零した。
「俺は今までの生活は間違いじゃなかったと思ってます。いくら彼女が俺を生贄に仕立て上げようと、隙を窺っていたとしても、その間に笑った時間は、泣いた時間は、愛し合った時間は全部真実です。愚かかもしれないですけど、それがいいんですよ。また、真由美の唐揚げ、食べたいですし。」
くしゃっと笑って直樹は声を上げて泣いた。
その涙は、彼女が正気を取り戻さない未来を想像していたからだった。このまま真由美は安能院を信じたまま生涯を終えるかもしれない。真正面から自分を愛してくれる保証など何処にもない。
直樹は2ヶ月前に聞いた安能院の言葉を思い出していた。
いつかそれが間違っていると誰かに暴かれて孤独になっても、これ以外にない。
人間は、愚かだった。
肩に手を回し、遠藤は長年連れ添った親友のように直樹を叩く。鼻から息を抜くように笑って彼は言った。
「生き方下手くそっすね、直樹さん。」
「本当。なんで俺、まだ真由美のこと好きなんですかね。」
「あ、途中で諦めて泰介に女性紹介してもらうのは期待しない方がいいですよ。こいつ昔から恋愛長続きしないんで。」
「詐欺師みたいな見た目のやつに言われたくねぇよ。」
3人はくだらない会話を繰り広げながら、遠藤の運転するパブリカに乗り込んだ。
警備員が開いた門をくぐって直樹の自宅に戻るまで、愚かな人間の彼らは無邪気に笑い合っていた。
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