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池袋駅から約20分のところにある東武練馬駅は板橋区と練馬区の狭間に建ち、板橋区の方に流れていくとショッピングモールや大通りが広がり、一歩路地に入ると住宅街が立ち並んでいる。井上直樹の自宅はその路地の先にあった。 「直樹、ご飯できたわよ。」 彼女の金田真由美の声を聞き、直樹は一度だけ返事をした。2階にある彼の書斎には所狭しと並べられた数多くの本、部屋の奥にあるテーブルとデスクトップパソコン。在宅ワーカーと呼ばれる直樹の仕事場であった。 書き終えたばかりの原稿をファイルに落とし込み、ゆっくりと背を伸ばす。”あの事”を考えないようにして部屋を出る。木の匂いが仄かに香る廊下を抜けて階段を降り、玄関脇の扉を開けた。 にんにくが香る。直樹の大好物である唐揚げがテーブルの上で匂いを放っている。かぶりつくように白いテーブルの前に向かうと、黒いショートカットの毛先を耳にかけた真由美が缶ビールとジョッキを彼の前に置いた。どちらもよく冷えており、銀色のジョッキは微かに白んでいた。 「味噌汁飲むでしょ?」 「ああ、貰おうかな。」 ビー玉のような目を向けて彼女は言う。黒いニットTシャツにグレーのハーフパンツ、すらりと伸びた白い足がキッチンへ向かう。彼女とは飲料水メーカーで出会った。 フリーランスのライターとして活動していた直樹は専属として雇われ、それ以降何度か会社に向かうこともあった。真由美はそこの企画開発部で働いていた。 当然商品の宣伝を行うための文章を書かなければならないため、自然と彼女と話す機会は多かった。最初は仕事のことで相談しあう仲になり、JEボードからスカウトの話が来る1年前に2人は交際を始めた。アプローチを仕掛けてきたのは真由美の方からであった。女性にしては熱烈な誘いを受け、直樹も次第に彼女に惚れていったのである。 結婚の話は新築の家を建てるタイミングで浮上した。 直樹の稼ぎが安定してきたら、真由美は仕事を辞めて専業主婦になると言っている。どうやら親戚が多いらしく、子育てには自信があるそうだ。 直樹は少しばかり不安を抱いていた。 北海道出身だと出会った当初から彼女は話していたものの、未だに挨拶にすら行けていなかった。今ではオンラインで簡単に会話できる世の中であるため、真由美からもそうするように相談を受けたものの、直樹は頑なに拒んだ。両親への挨拶は対面式の方がいいだろうという彼の考えである。 プルトップを開け、ビールをジョッキに注ぐ。味噌汁を手に戻ってきた彼女が前に座って夕食が始まった。 「今日はちょっとにんにくを多めにしてみたんだけど。どうかな。」 そう言う彼女は社内でもトップクラスの美貌であった。直樹との交際で落胆する男性社員も多くいたという。そんな真由美からの期待に応えようと、直樹は皿の上に盛られた唐揚げを箸で摘み、一口で放り込んだ。 枯葉を踏んだような音が鳴る。ぷりっとした肉からはジューシーな肉汁が溢れ、仄かな醤油とにんにくの香りが鼻から抜けていく。それをごくりと飲み込んで直樹は頷いた。 「うん、美味しい。これくらいにんにくが強いとガツガツいきたくなるね。」 「本当?じゃあ今度からそうしようかな。」 照れたように笑って味噌汁を啜る彼女を見て、直樹は改めて幸せを感じていた。料理も完璧である彼女との同棲生活は数年経ってもなお新鮮で、地元の友人たちからは大変羨ましがられている。何もかもが完璧であった。 ”ある事”を除いては。 味噌汁を一口啜る。鼻から抜けていった香ばしい匂い、その湯気の向こうで真由美は満足そうに唐揚げを頬張っている。白米の壁を削っていた彼女は直樹の視線に気が付くと、子どものように首を傾げて笑う。 「なあに?」 「いや、何でもないよ。」 「もう。じろじろ人の顔見て。」 そう言って尖らせた唇は苺を絞ったように赤い。光沢を放って艶やかに輝いている。仕事続きで濃厚な夜を過ごせていなかったことを思い出し、直樹はごくりと唾を飲んだ。なるべくしっかり歯を磨かなければならないだろう。 「あ、マヨネーズとってくるね。」 何気なくつぶやいて立ち上がる。キッチンへ向かう後ろ姿、氷柱のように伸びた脚は意外にもむっちりとした感触で、触れながら体を重ねると異常な快感を発揮する。これから深まっていく夜を頭の隅で想像していた直樹は、”あれ”を聞いた。 楽しそうな子どもたちの笑い声は、人数でいったら数十人であろう。とびっきりおかしなことがあったのか子どもたちは笑っている。きっと遊びの延長線上で楽しさを見出したのだろうと直樹は勝手に想像していた。 しかしその声は、何も無い空き地から聞こえていた。 ゆっくりと彼は振り返る。紺色のカーテンは真由美が家具屋で選んだものだった。その向こうから子どもたちの笑い声は絶え間なく続いている。直樹は長い深呼吸を繰り返した後に恐る恐る立ち上がると、カーテンの端を握った。 勢いよく開く。大きな窓の向こうには月明かりとリビングから漏れる人工的な光で照らされた、真っ新な土が広がっている。東武東上線が和光市へと駆け抜けていく音だけが聞こえていた。 「直樹?どうしたの?」 マヨネーズを持って戻って来た真由美の声を背に、ばくばくと大きく鳴り出す鼓動を抑えられなかった直樹は再び勢いよくカーテンを閉めると、急いでリビングから抜け出した。数時間前に脱ぎ捨てたコンバースに足を忍ばせ、慌てて玄関の扉を開く。自動で点灯するライトからすり抜けるように直樹は空き地に足を踏み入れた。 柔らかな土の感触を靴の裏に感じる。周りに建つ一軒家やアパート、マンションからも子どもたちのはしゃぎ声は聞こえない。直樹はシャツの裏に冷や汗をかいていた。この家を建ててから1週間で始まったこの奇妙な現象に苦しめられ、既に数年が経過していた。
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