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6
折り続けていた腰をぐっと伸ばし、山中玲香はナイフのように刺す太陽の光を眺めた。気温は日に日に増していく。汗のせいで額にこびりついた前髪を拭うと手の甲に泥がついた。未だに慣れない農作業、少し気を抜けば意識が遠退いてしまいそうだった。
緑と土が一帯に広がる畑には大勢の男女がいた。皆同様に腰を曲げて、夏大根の収穫作業を行っている。玲香の足元にも数本の太い大根が寝そべっていた。どれも泥がこびりついているものの、味噌汁に入れてしまえば絶品である。
「それじゃ、皆さん少し休憩しましょうか。」
林圭子の声が畑に響く。玲香はつなぎの袖をまくって周囲と同じように返事をした。
畑の間に流れる砂利道、そこに置かれた木のベンチに腰掛け、予め置いてあった弁当箱を2つ手に取る。まるでタイミングを計ったように、汗で濡れた茶髪を掻きながら山中賢吾がやってきた。
「どうだ、慣れたか。」
「なんとかね。まだ、あなたほどではないけどね。」
十数本の夏大根を収穫し終えた彼は隣に腰掛けると、弁当箱を1つ攫った。待ち切れないといったように蓋をあける。鮭と梅の入ったおにぎりを2つ持って順番に齧っていく。そのわんぱくな様子に玲香は思わず微笑んだ。
「もう。落ち着いて食べなよ。」
「あのな、力仕事だぞ。パワーつけないと。」
「だからって子どもじゃないんだから。」
藍色の水筒を手に取り、蓋を開けてそこに麦茶を注ぐ。ゴクリと飲み干すと熱の中に氷柱が落ちていくようだった。
1つのおにぎりを平らげてミネラルウォーターの入ったペットボトルを口の中に注ぎ込む。息を吹き返したようにして、賢吾は畑に降る太陽を眺めながら呟いた。
「子どもな、そろそろ欲しいな。」
咄嗟に動きを止める。ゆっくりと彼の方を見ると、照れたように微笑んだ賢吾は米粒を唇の端につけながら続ける。
「貯蓄も安定してきたし、もうここに来て2ヶ月だろ?だからそろそろとは思ってたんだ。」
「でもあなた、今までそんな話…」
「そりゃ、まぁ。妊娠して一番苦労するのは玲香だろ?だからきちんと安定した時じゃないといけないかなと思ってさ。」
交際して数年、仕事を続けながらも結婚生活を続けてきたものの、次第にストレスが溜まっていた。だからこそ彼の実家であるこの村での生活を選んだ。最初は東京での仕事を捨ててから不安ばかりであったものの、周りの人々にも支えられて安定を得ることができた。
それは全て隣に彼がいてくれたからだった。
水筒を両手で握りしめる。玲香は汗を落とすように顎の先を胸元へ沈め、照れを隠しきれずに笑った。
「うん。そうね、そろそろだね。」
「まぁ、その、あれな。無理だけはすんなよ。」
そんな彼の優しさが暖かく、どこからか吹いた風が太陽からの熱を冷ましていく。周りから聞こえるほのぼのとした会話も相まって玲香は心地良さを感じていた。
しかしそれはすぐに終わりを告げた。
ざぁざぁざぁざぁざぁ
短い悲鳴をあげて立ち上がる。玲香は慌ててつなぎの上から足を強く摩った。掌の皮を強く剥がすようにきつく擦っていく。その姿を見て賢吾は驚いた表情を浮かべた。
「お、おい、どうした。」
その言葉に我を取り戻し、玲香は息を荒くしながらその場に立ち尽くす。太ももに生じた妙な感覚はいつの間にか消えている。しかし彼女はそれを思い出すように、賢吾に助けを求めた。
「い、今なんか、虫が…」
「虫?」
「うん…なんか、足にざぁざぁって。」
その感覚をなぞるように再び太ももを擦る。一瞬だからこそ強く焼きついた妙な感覚は、確かに肌に虫が這うようなものだった。何度冷静に考えても答えは同じであった。
しかし賢吾は噴き出すように笑うと、玲香の肩を優しく叩いた。
「そりゃ農作業なんだから虫くらいいるよ。俺も最初は靴の中に入り込んだりしたけど、徐々にそういうのも慣れていくから。」
そう言い残し、彼はおにぎりありがとうねとだけ付け加え、畑に戻っていく。それと同時に林圭子の午後を知らせる声が響き渡る。玲香は彼の一言を強引に理解しようと、同じように畑へと戻った。
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