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鼠色のパブリカがゆっくりと道の先で停車する。写真で見るよりも真新しく感じられる井上家は、太陽の光を含んで輝いているように見えた。傷はおろか指紋さえ見当たらないような外壁を見て、車から降りた遠藤は小さく呟いた。
「やっぱり一軒家っていいな。城って感じだよな。」
「確かに。憧れちゃうよね。」
白いワイシャツに薄手のネイビーのジャケットを羽織った永島は眼鏡の縁を指先で直し、同じく井上家を見上げている。彼が何か言いかけたその時、赤茶色の扉がゆっくりと開いた。
「ああ、皆さん。わざわざ来ていただいてありがとうございます…。」
水色のワイシャツに明るいチノパンを履いた直樹は恭しく頭を下げる。2人がそれに返そうとしたところ、彼の奥から黒いショートカットヘアーの女性が顔を覗かせた。遠藤たちを見てどこか安堵した表情を浮かべる。真由美も同じように頭を下げると言った。
「初めまして、金田真由美と申します。今日はわざわざご足労いただいて、ありがとうございます。」
「いえいえ。現場を見てみないことには始まりませんから。」
永島はそう言うと2人から目を逸らし、井上家の隣に広がる小さい土を眺めた。一昔前の校庭のような赤茶色の土は平べったく、今にも一軒家を建てる工事が始まりそうな空き地。日常の中にいくらでも存在している何気ない土を舐めるように眺め、スキンヘッドに触れながら永島は観察している。その時間を埋めるように遠藤は井上たちに声をかけた。
「ちょっと色々聞いてもいいですか。直樹さん曰く子どものはしゃぐ声が聞こえると言うんですが、真由美さんは耳にしましたか。」
携帯を取り出し、画面の中でメモを立ち上げる。真由美は不思議そうな表情を浮かべながら首を傾げた。ぱっちりとした目に赤い唇。ぴったりと張り付いたジーンズは細い。贔屓目なしに見ても金田真由美は美人であった。
彼女は眉間に皺を寄せて悩みながら答えた。
「そうですね…私は本当に何も感じなくて。直樹は何か聞こえてるのかもしれないんですけど、何も分からないんですよね。だから全然力になれなくて。」
「なるほど…じゃあ僕らみたいな胡散臭い連中、ちょっとお邪魔ですね。」
「いえ、そんなことないです。もしお二方の力で直樹が住みやすくなるなら、ぜひお願いしたいです。」
懇願するようにそう言った真由美は深々と頭を下げる。聞こえもしない心霊現象に苦しむ彼を救いたいというその姿、遠藤は思わず小さなため息をついて頬を緩ませた。
「うおお、いい彼女さんじゃないすか…よし。俺たち一肌脱ぎますよ!」
そう談笑しながらも遠藤は横目で盗み見るように永島を気にかけていた。彼は土に足を踏み入れることなく、その手前から空き地を眺めている。その横顔は徐々に険しくなっていく。永島の様子を見て悟ったのか、直樹は不安そうに声をかけた。
「あ、あの、何かありましたか?」
「何か埋まってる。」
「え?」
思わずそう聞き返した真由美に、永島は分かりやすい口調で言う。その言葉には冷たい熱のような芯が宿っていた。
「この地中に相当な霊の力を持つ物があります。これが直樹さんに影響を与えてます。」
生まれ持った霊感で人には見えないものを視ることができる永島は眼鏡を指先で押し上げると、地表に穴を開けるようにきつく睨みつける。遠藤はタバコを抜いて火をつけると、深々と吸い込んで上空に煙を逃した。
「それが災いを呼び寄せていると。」
「そうだな。とりあえずこいつを引っこ抜くしか方法はないな。」
半分だけ吸い終えた遠藤はタバコを携帯灰皿の中に押し込むと、残った煙を再び空に吐いてから言った。
「じゃあ俺この土地の所有者調べるわ。あと不動産屋に行って事故物件かどうか、法務局にも顔出すか。友哉は井上家の中入って色々可能性探ってくれ。」
「了解。そっちは頼んだ。」
慣れた様子で会話を繰り返し、遠藤はパブリカに乗り込む。ただ黙って聞いていた直樹は不思議そうな表情を浮かべた。
「え、えっと、我々は何をすれば…?」
助手席の窓を開け、遠藤は少し身を乗り出す。何か考えているような顔で彼は言った。
「とりあえず俺はこの土地に何か霊的な現象が根付いていないか調べます。代わりに友哉が家の中を調べるので、そこのところよろしくお願いします。じゃあ友哉、頼んだぞ。」
言葉尻を待たずしてエンジン音が路地に低く響く。パブリカはそのまま路地を抜けて姿を消した。唸り声が遠退いていくと永島は一息ついてから井上家を見上げた。真新しい建物は傷一つない。この一軒家に心霊現象が起きているとは誰も想像しないだろう。
「すみません、上がってもよろしいでしょうか。」
「ああ、どうぞ。」
敷地を踏む前に永島は肩にかけたトートバッグからあるものを取り出した。小さいベージュの小袋から塩を摘み、恭しく頭に振り掛ける。スキンヘッドに弾かれて全身に落ちていく様子を見て真由美は不思議そうに言った。
「それはどういった効果があるんですか?」
「もし災いの元が地中の物ではなく家の中にあった場合、私を外敵と判断して霊障を引き起こす可能性があります。なので一度身を清めてから、害意の無いようにするんです。」
なるほど、と言って彼女は納得した。その脇に立つ直樹に案内され、玄関に入る。どこか拭えない新築の香りに包まれながらスリッパにはき替える。そのまま彼は家に上がると右手の扉を開け、リビングに入った。
清潔感のある白い内装はライトに照らされ、眩い生活感が溢れていた。どこからかコーヒーの香りが鼻を掠める。一度眼鏡を外して辺りを見渡した永島は少しだけ驚いていた。
この家には一切の霊的存在は無い。
隣の空き地の地中から発せられる霊障のみで、井上直樹は苦しんでいる。そして同じ屋根の下で暮らしている金田真由美には何の影響も無い。永島が抱いた問題点としては何故彼をピンポイントで狙っているのかということだった。
「あの…少しいいですか。」
恐る恐る彼女は右手を挙げる。不思議そうな表情で彼女は続けた。
「霊障、でしたよね。それは幽霊が引き起こす現象であって、そういう霊の気配みたいなものはどうやって判断するんですか…?私何も分からなくて…。」
「ああ、それは簡単ですよ。常に霊力というものは色々な物から漏れています。山や海などは特にそうですね。あそこには人間の霊だけではなく動物の霊も大勢いますから、常に霊力が漏れているという感覚です。私は生まれつきそういうのを感じやすい体質でして。」
そうなんですか、と言って真由美は納得していた。しかし霊障すらも感じない彼女にとっては難しい話だと永島は思った。
やがてリビングの中をぐるりと見渡し、彼は続けた。
「あの、子どもの声や虫の這う感覚はどの時間帯で起こりますか。」
「時間帯は、決まってないです。本当にふとした時に、起こります。リビングにいても、2階にいても、変わりません。」
「なるほど…真由美さんはそれら全てを何も感じないということですね。」
「ええ。私は何も聞こえないですね…。」
2人の目を交互に見る。霊が憑いている様子は見られない。
リビングを抜けて2階に上がる。階段を上がった先は短い廊下に左右の扉。しかしどの部屋に入ることなく永島は道を引き返して1階に戻っていく。その様子を見て真由美は恐る恐る言った。
「あの、この家には何もないということなんでしょうか。」
「そうですね…可能性としては2つあります。」
テーブルの上に手を滑らせる。するっと抜けていく感覚を指先で感じながら、永島は頭を巡らせる。携帯を手に取ってLINEを立ち上げ、遠藤に文章を送りながら彼は呟いた。
「いくらなんでも直樹さんだけに霊障が起きるというのは、何かしら理由があります。なのでこれはあくまでも可能性の話です。直樹さんが過去に交際していた女性、もしくは現時点で別の女性と交際している場合、その方が地中に私物を埋めて、それを介して生き霊を飛ばすというケースがあります。」
驚いた面持ちで真由美は隣に立つ直樹を見る。しかし彼は勢いよく首を横に振った。
「断じて浮気はしてません!そ、それに、元カノはこの家の住所も知りませんし。」
「いや、そうなんです。心当たりがない場合はその可能性は潰れます。その他の可能性としては地中にある物を中心として周りの住宅にも影響を与えている。虫が這う感覚に子どもの笑い声となると、かなり昔からこの土地に根付く子の呪いという可能性だってあります。そして直樹さんが些細なことでその呪いに触れてしまい、怒りを買ってしまった。ちょっと調べてみてもいいですか。」
2人の了承を待たずに永島はトートバッグから厚みのある古い本を取り出した。表紙は所々剥げており、文章はどこか霞んでいる。テーブルの前に腰掛けてぺらぺらとページを捲っていく。黄ばんだ紙は少し力を込めれば破れてしまいそうだった。
「そ、それは?」
「日本各地に根付く霊障の一覧です。しかし、この辺りには見当たらないですね…だとするとやはり隣の空き地が事故物件だった。という可能性が一番濃厚ですね。」
ぱたんと本を閉じ、永島は席から立ち上がると窓を覆うカーテンを開いた。ガラスの向こうに映る空き地は太陽の光を浴びて火照っている。
「今泰介が調べてますけど、もしかしたらこの土地は2軒ではなく元々1軒で、そこで過去に事件や事故が発生したという可能性も考えられます。主に事故物件は2種類ありまして、瑕疵物件と呼ばれています。」
「か、かし…?」
「ええ。傷、欠陥という意味です。雨漏りや建物の欠陥、シロアリの被害や極端に立地条件が悪いものを物理的瑕疵物件と呼びます。そして過去にその住宅で事件や事故による死亡、自殺や殺人などがあった場合は心理的瑕疵物件となります。」
「でも、私たちが契約する時そういったことは言われませんでしたよ。告知義務っていうんでしたっけ。」
前に座った2人は不安そうに永島を見ている。今にも泣き出してしまいそうなほど声を弱めていた真由美に、永島は優しい口調で答えた。
「確かにそうですが、もし事件事故が起こった瑕疵物件の入居退去が続いたり、賃貸であれば3年、売買であれば6年で告知義務は不必要となりますね。この告知義務という言葉は難しくて、宅地建物取引業法第47条第1項から読み取ると死亡の事実を伝えることが必要なのではなく、判断に重要な影響を与える事実を伝える必要があるという定義なんです。心理的瑕疵物件に関する心理的価値に時効はないので原則として永久に告知義務は存在します。しかしその感じ方もケースバイケースなので、住んでみないことには分からない、としか言えないわけです。おそらく凶悪な殺人事件があれば告知義務は残り続けると思いますが、それ以外であれば時間経過で無くなると思われます。」
納得したように井上たちは小さく頷く。それを見た永島も頷いて椅子の背に体を預けた。事故物件の案件だろう、そう何度も言い聞かせるように彼は天井を仰いでぼうっと眺めた。
改めて彼は不思議に感じていた。それはこの家も、真由美も何の影響も受けていないということであった。強い霊障であれば必ずしも影響を受けて残り香のような霊力が存在するはずである。にも関わらず井上直樹のみに霊障が起きているというのは、一体どのような理由があるのだろうか。
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