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「ねぇ、覚えてる?」
女の甘い問いに男はやさしく答える。
「もちろん覚えているさ」
二人を乗せたゴンドラは満天の星々に見守られながら、海上のかがり火が並ぶ道をゆっくりと進んでいく。
「クラリネットを壊した男の子の話だろ」
「クラリネットを壊した男の子の話よ」
女は嬉しそうに笑う。
「ドとレとミとファとソとラとシの音が出なくなるのだったかしら」
「ドとレとミとファとソとラとシの音が出なくなるんだ」
二人は顔を見合わせて笑う。テーブルの上に並んでおかれたカクテルグラスの中を立ち上る炭酸の泡が、星のようにキラキラと瞬く。
「でも僕は彼に教えてあげたいんだ」
「何を教えてあげるの」
「もしかしたらドのシャープの音は出るかもしれない」
「まぁ」
「レのシャープも出るかもしれない」
「ミのシャープは?」
「ミにシャープはないよ」
「……知ってるわよ」
女は拗ねた顔を見せた後、短い舌を赤い唇の間からペロッと出した。
「シャープの音しか出ないクラリネットね」
「シャープの音しか出ないクラリネットだ」
「シャープだけで曲になるのかしら」
「音楽家たちはたくさんの変わった曲を作ってきた。きっとシャープだけの曲もあるよ。必要は発明の母だ」
「それがあの曲なのかしら」
「どの曲?」
促されて女は歌った。
オ パキャマラド パキャマラド パオパオ パンパンパン
オ パキャマラド パキャマラド パオパオ パン
暗い海に吸い込まれていく歌に聞き惚れていた男は、優しく微笑みながら告げる。
「君にも教えてあげることを僕は知っていた」
「なにかしら?」
女が首を傾げると、大きなイヤリングが揺れる。
「君が歌ったフレーズは、クラリネットの音を表現しているわけではないんだ。あの曲はもともとフランスの歌でね、訳すときに、あのフレーズだけフランス語が残されたんだ」
「フランス語なのね」
声を少し弾ませながら訊ねる。
「意味も教えてもらえるのかしら?」
「勿論だ。『同士よ、一歩一歩共に進もう』って意味らしい」
「らしい?」
「僕もフランス語は得意じゃない」
「私はフランス語ができないとは言っていないわ」
「確かに。君の美しさの前ではいかなる言葉も不要だ」
「私も教えてあげるわ」
「はい、先生」
「言葉はいつだって必要よ」
「これは失礼しました」
男は女を見つめ直しながら言った。
「トレ ブー」
自動運転のゴンドラが静かに止まった。
「今宵の宿に到着しました」
男は先にゴンドラから降り、女に手を差し出す。
海上に建つ大きな木製のコテージの窓は全て開け放たれており、目の前には周囲を花で飾られた大きなベッドが鎮座し、シーツが潮風で波のように緩やかに揺れている。
「昨日の晩に壊れてしまったクラリネットはもう治ったかしら」
いたずらっぽく笑う女に、男は苦い顔をする。
「昨日は飲み過ぎたんだ」
「それでも、シャープの音は出るんでしょ」
女は陽に焼けた肌を白く光る月に見せ、歌いながらベッドに飛び込んだ。
オ パキャマラド パキャマラド パオパオ パンパンパン
オ パキャマラド パキャマラド パオパオ パン
了
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