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あの日
不意に昔を思い出すことが増えたのは歳のせいだろうか。
矢野一見は固まった肩をほぐすように伸びをして、窓の外を眺めた。街路樹が色づき、葉を散らしている。
休憩しようとコーヒーを淹れながら、また懐かしい顔を思い出した。それは人生で最も楽しく、そして苦い思い出が合わさっている。
一見がだれかに雪村洋二を紹介するなら「親友」と説明するだろう。進学先の工業高校で知り合い意気投合し、大学までを一緒に過ごした。周囲も疑うことなく自分たちを親友だと見ていただろう。
もちろん一見自身もそう思っていた。あの春までは――。
進学を機に親元を離れた一見の部屋に、洋二が訪ねてきていた。引っ越しの片付けを手伝ってくれて、そのお礼にとデリバリーのビザを奢ってやった。くだらないバラエティ番組で馬鹿みたいに笑い合って、そうしているうちに洋二はウトウトと目を閉じて……。
そこまでを思い出したところで、慌ててコーヒーを飲んだ。これだけは忘れたことにしておかなければならない。苦笑いに首を振るとまた窓の外へと目を向けた。
「あいつ、元気にしてるのかな……」
若いころは何かあるたびに会っていたのが、年齢とともに顔を合わせる機会は減り、最後に会ったのはもう三年も前だった。それでも、この歳になると三年間がつい最近のようにも感じてしまう。
そろそろ老後の楽しみを考えるようにもなった。
翌日、請求書を出すために郵便局に行ったところで、年賀状のパンフレットを手渡された。もう年の瀬かと時間の早さに愕然としたところで、帰宅後のポストに親友からのハガキを見つけて息を飲んだ。
喪中のため新年のご挨拶は失礼させていただきます、という一文から始まったのは、洋二の妻が亡くなったという知らせだった。そして、逝去が年明け早々の一月だと書かれていたことに、また絶句した。
知らせてくれなかったことに「親友として」肩を落とし、洋二が自分と同じ独り身になったことにどこかホッとした。
高校一年で同じクラスになった雪村洋二は、馬鹿騒ぎをする友人たちを穏やかに笑って見ているような、男子高校生らしからぬタイプだった。本と映画が好きでスポーツは苦手。それだけなら仲よくなろうとは思わなかったに違いない。
「矢野は気を遣いすぎじゃないか?」
多分、五月の大型連休をどうするかの話題で盛り上がったあとのことだった。ちょっと市内へ出かけて、若者に人気のスポットで他校の女子をナンパしよう。確かそんな計画を立てていた。気乗りしないのを誤魔化して一緒に騒いでいたのを見透かされたようで、ぎょっとした。洋二は、友人たちに遅れて教室を出た一見に心配そうな声を掛けてきた。
呆気に取られて洋二を見ると、少し気まずそうに「違ったらごめん」と前置きがされる。
「なんかいっつもみんなに合わせてるみたいに見えたから」
それが図星だったことに驚いた。自分ではうまくやっているつもりだったのだ。実際は気を遣っていたというよりも、なるべく人に溶け込んで目立たないようにというのが正解だった。
話題のテレビ番組、異性との性的な話、真面目な話題はちゃかして、楽しいことだけで盛り上がる。男子高校生なんかそんなものだった。
その日を境に、一見と洋二は一緒にいることが多くなった。背伸びをすることなく、ありのままで過ごす洋二の側は一見にとってとても楽だったのだ。
喪中ハガキの住所は一見が知っている住所と変わっていた。転居さえも一見は連絡を受けていない。その程度の付き合いになっていたのだという事実に落ち込み、それでもハガキをくれたということは付き合いをやめたいとは思われていないのだと自分を慰めた。
アドレス帳に登録していた電話番号は、無機質なアナウンスがすでに番号がないことを告げる。
一見はまた迷った。線香でもあげさせてくれと訪ねることはなんら不自然でもない。
それでも踏ん切りがつかないまま歳が明け、桜の季節になった。早生まれだった洋二は五十八歳になったはずだ。そして、四月生まれの一見は今日、五十九歳を迎えた。
「あの日」からちょうど四十年だ。取引先からの帰り道、一見は散り始めた桜の下で足を止めた。節目の日につい感傷的になってしまう。
狭いワンルームマンション。閉じられた瞼にかかる睫が思ったより長くて、その無防備な寝顔に魔が差した。
罪悪感と満足感と諦めがごっちゃになって一見を責めた。だから、一見はそれをなかったことにするしかなかったのだ。
「馬鹿みたいだ」
出てきたばかりの改札をまた通り抜ける。交通カードをかざし、さっきとは反対のホームに滑り込んだ電車に飛び乗った。
大学を卒業した一見は大手の住宅メーカーに就職し、洋二は機械メーカーのメンテナンス部門に就職をした。入社五年目で洋二は同じ会社の女性と結婚し、翌年には洋二もまたスポーツジムで知り合った女性と一緒になった。
車窓には緑が多くなり、田園風景が広がっていく。
結婚した翌年に生まれた洋二の娘は難病を患っていた。育児の助けを必要とした夫婦は、妻の実家がある田舎に引っ越していった。
突然、一見を訪ねてきた洋二が、わずか二年で生を終えた娘の葬儀を終えたことをつぶやき、声もなく涙を流した。その震える肩に触れようとした手は、空中で止まったまま未だ洋二には届かない。
そのさらに翌年、一見は妻と離婚した。報告を受けた洋二はただ一言「おつかれさま」そう慰めてくれた。
理由も聞かず労ってくれた理由を今も聞けずにいる。
十年勤めた会社を辞めて、インテリアデザイナーとして独立してからは忙しさに助けられ、しばらく洋二を思い出すこともなくなっていた。
忘れたかったのか、忘れなければならないと思ったのか、自分でもよく分からない。
共通の友人の結婚式で顔を合わせ、同窓会で顔を合わせ、その都度元気だったかと定型文句で笑い合う。
そのうちに、今度は弔事で顔を合わせることが増え始めた。
「いつまで引きずるつもりなんだ」
初めての駅に降り立ち、閑散としたロータリーのタクシーにハガキの住所を見せた。住所は、洋二が妻と二人で住んでいた家の隣町になっている。
二階建て六室のアパートは、かつて一見が住んでいたワンルームを思い出させた。夕闇に隠れかけたインターホンを押したところで、急に戸惑いが襲いかかった。
自分はなにをしに来たのだろう。
洋二に会って、何を話して、どうするというのだろう。
奥から返事が聞こえ、足音が近づいた。
玄関が開き、三年ぶりの「親友」が目を丸くした。
「一見じゃないか。久しぶりだな」
当たり前のように身体をずらして招き入れる洋二に、止まっていた時間が一気に進んだような気がした。
「いきなり喪中ハガキとか、水くさいじゃないか」
短い廊下の向こうには、想像通りの狭いワンルームが見えた。
「悪かったよ。まぁ三年ほど闘病しての最期だったから、俺もしばらく抜けたみたいになってて……葬式も身内だけだったしな」
促されて座った向かいのテレビボードには、今より少し若い洋二とその妻が笑顔で収まった写真が飾られていた。その隣には、まだ二十代だろう妻と亡き娘の写真。そこにはもう「親友の一見」の気配はない。
「病気だったのか」
「ああ。癌だよ」
検査結果と同時に余命を告げられた。洋二があっさりとそう口にした。だからといって同じような軽さで接することもできずに、一見は少しだけ目を逸らした。
「そういや啓三のやつも癌だったよな」
ぽつぽつとしゃべりながら部屋を見渡す。
「仏壇はないんだ」
なにも言わない内から洋二にはバレてしまったらしい。
「線香でもあげさせてもらおうと思ってたんだが」
そんなことを言いつつも、何も考えずにここまで来てしまった一見は線香はおろか、供え物のひとつも用意してはいなかった。
「真樹子とも話してて……あいつは一人っ子だったし、僕も次男で本家の墓にも入らないだろ? どっちかが死んだときはそのまま永代供養にしようってな」
そう話す洋二の目元は深い皺が穏やかに笑みを形作っている。
そうだったのか。そう答えたままあとが続かず、室内には静けさが満ちた。
いったい自分は何をしに来たんだろう。今度は疑問に加えて、後悔が生まれた。洋二に会って話をすれば何かがあるような気になっていたのだ。だけど、現実はこんなもので――年月の経過とともに疎遠になった関係性を突きつけられる。
一見は自分の情けなさに泣きたいような気分になった。それなのに、無意識に浮かんだのは小さな笑いだった。
「一見? どうしたんだ?」
当然のように洋二が首を傾げる。
「あ、いや、悪い。なんでもないんだ。ちょっと自分の馬鹿さ加減に呆れて」
突然押しかけて、気の利いた言葉のひとつもかけられず、あまつさえ洋二のなかの自分の存在が薄くなっていたことに落ち込んで。
「そうじゃない」
洋二の顔が少し歪んだ。
「おまえ、また何か気を遣ってるだろう? それか、無理してないか?」
気遣うような洋二の声が、いつかの教室の声に重なった。目の前にいるのは、もう還暦を目前にした男だというのに。
まるで見透かされているような洋二の視線が怖くてまた目を逸らした。
「……歳を取るとどうにも建前が上手くなって困るな」
「誤魔化せてないのは昔と一緒だろう?」
「洋二以外ならバレなかったよ」
これは、よくない兆候だ。なぜなら今日はあの日と同じ一見の誕生日で、あの日と同じワンルームにふたりでいる。
隠すのが下手だと洋二は言うが、あのことだけは上手く隠し通してきたのだ。
「急に訪ねてきて悪かったな。そろそろ帰るよ。今度はゆっくり飲みにでも行こう」
大人の社交辞令で辞去のあいさつに代え、一見は腰を上げた。きっと「今度」はもうない。そんな予感がしていた。
自分は馬鹿だ。四〇年も経ったのだから自分も変わったと思い込んでいた。それなのに、洋二を前にした自分は、あの日から何一つ変わっていなかった。
年月なんか一瞬だ。だから、次はどちらかの訃報かも知れない。それでいいのだろう。
じゃあ。そう笑顔を貼りつけて背中を向けた。
玄関に向かう一見を、見送るための気配は感じない。
「歳を取ると……」
不意に背後で洋二がつぶやいた。思わず止めた足は、それ以上進むことを拒む。
「だんだん怖いものがなくなっていくよな」
洋二は独り言のように続けた。独り言に聞こえたのは、そこに一見の返答が求められていないような気がしたからだ。
「若いころはいろんな変化が怖くて、踏み出せないまま諦めたことも多かったが……」
独り言の途中で、洋二が少し笑った。
「真樹子がいなくなって、一人になって……もう無くすものなんかないとなったら、何も怖くなくなったんだ」
洋二がなにを言いたいのか分からなくて、困惑のまま振り返った。フローリングにあぐらをかいたままの洋二が、穏やかな顔で離れた一見を見上げていた。
「なぁ、一見。もうお互い老い先も長くないし、聞かせてくれないか?」
「なにを……?」
穏やかに微笑む洋二と対照的に、一見の口からは乾ききった問い返しが辛うじて出ただけだった。
「まずは、一見。誕生日おめでとう。四〇年前の今日、なにがあったか、おまえは覚えているか?」
心臓に鋭利な刃物が突き立てられたような気がして息を止めた。それは、一見のなかの懺悔の記憶だ。
「一見の十九歳の誕生日で、おまえが一人暮らししてた部屋で一緒にいてたよな」
「……そうだったっけ……」
とぼけようとしたものの、それはかえって覚えていることを肯定したような形になった。洋二ももちろん気づいたのだろう。少し俯き、控えめに笑った。
「ずっと聞けなかったんだよ。そう、怖くてね……」
俯いた顔が真っ直ぐに一見を捕らえ、メガネの奥の目が綺麗に光った。
一見はもうなにも言い返せなかった。断罪を待つ罪人のような気分で、洋二の言葉を待つ。
「僕に……キスをしただろう?」
ああ、罪が暴かれた――。
「なんで、知って……」
寝入っていると思っていた。だって、唇が触れても目を開けなかったじゃないか。だから、一瞬の過ちだと無かったことにしようと思った。
「びっくりして……動けなかった。けど、あとになって悶々としてね」
だから、聞かせてくれないか?
洋二はもう目を逸らさなかった。
「ずっと僕のなかに居座って、消えないんだよ……あのとき聞いていればどうなったのだろうかと」
「……悪かった」
気持ちが悪かっただろうと、当時の洋二を思って頭を下げた。
「違うよ。謝ってもらいたいわけじゃない。僕は理由が知りたい。その理由が、ただの嫌がらせだったって理由でもいいんだ」
言葉が小骨のように喉の奥につっかえて出てこなくなった。
理由は、四〇年前に封じたのだ。今さら――。だけど、あのときもし洋二が目を開けていれば、なにかが変わったのだろうか。
「怖かったって言った? なにが怖かったんだ?」
目を開けて、なぜキスなんかしたんだと聞けない怖さはどこにあったのだろう。洋二が困ったように首を傾げた。
「一見の返答によって、一見との関係性が壊れるかも知れないと思ったよ」
それが怖かった。
関係性。そのころの洋二とのあいだにあったのは「親友」という関係だ。それがなくなって、ただの他人になることが怖かったのだろうか? だとすれば、少なくとも嫌悪を持たれた訳ではなかったと判断してもいいものだろうか。
それなら、そのとき洋二が求めていた答えは何だったのだろう。たったひとつの正解を求めて、一見の脳内を様々な言葉が飛び交う。
なんとなくだよ――冗談のつもりだったんだ――ちょっと興味があって――からかうつもりだったんだ……あとは?
「それと、もうひとつ……」
洋二が済まなさそうに質問を重ねる前置きをした。
「美佳さんとどうして離婚したんだ?」
別れた妻の名前を久しぶりに聞いて、また言葉に詰まった。
「それはまぁ、性格の不一致ってやつで」
「うん、不一致って上手い言葉だよね。ほとんどの理由はそれで済んでしまう」
だけど、求める答えはそれじゃない。洋二が言外にそう含めた。
一見は馬鹿みたいに突っ立ったまま、呆然と洋二を見つめていた。
「僕はもう一人だ。もし、一見がこのまま僕を見限って帰って行ったとしても、一人だということは変わらないんだよ。だから怖くない」
それは、答える気がないのなら、このまま背を向けて二度と洋二には会わないということだ。表面だけを繕った「親友」の存在なんかもう必要ない。洋二はどうしてか、そんな覚悟をしたのだろう。
それなら一見は?
一見はまだ怖いと思っている。一見自身もすでに一人になって長く、そこからいけば無くすものがないのは洋二と同じだ。だけど、決定的に違うのは……。
「俺は、まだ無くしたくないものがあるんだよ」
洋二がわずかに目を見張った。
「俺は……」
離れて行く洋二を諦めきれない。無くして、一人になっていいなんて思えない。それがたとえ「親友」というカテゴリであったとしても、古い友人がいるんだと話の種にできるような、その程度の関係でさえ残しておきたかった。
「教えたらそれが無くなるのか?」
「無くなるかも知れない」
「まだ一見は若いってことかな?」
洋二がくすぐったそうに笑った。そんな笑顔にさえ泣きたいような気分になってしまう。
「僕は、ずっと真樹子に対して罪悪感があったんだ。僕なんかと結婚して、娘も幼くして亡くしてしまって……ずっと二人きりで、そのまま早逝してしまった。彼女の人生は幸せだったんだろうかと看病をしながらずっと考えてた」
「っ幸せに決まってるだろう!」
思わずそう叫んだ。
「最期まで好きな人と一緒に歩んで、大切に看取られて……幸せでないはずがない!」
不実だった一見なんかとは違う。一途で誠実で――。そう言いつのろうとした一見に、洋二が首を振った。
「だけど、僕はずっと囚われていたんだ」
それ以上は聞きたくない。とっさに気づいた。
「囚われ続けていたんだ」
あの日のキスに。
洋二の目が責めるように一見を見据えた。でも、洋二は決して一見を責めているわけじゃないことも分かっている。
だけど、これじゃまるで一見が洋二を苦しめていたみたいだ。
「あのとき、変わったかも知れない何かを、僕は知りたいと思っているんだ」
立っているはずの足下がふわふわと不安定に揺れる。
今日、一見はなんのためにここに来た?
「俺は……」
大した理由なんかない、ちょっと悪ふざけで。
「俺は、ずっと」
ずっと隠し続けようと決めた。無くさないために。
「俺は、ずっと普通でいようと思って」
ふわふわと揺れていた足下がついに崩れた。座り込んでしまったことに、自分自身で驚き呆然と床に触れる。
座ったままで動かなかった洋二が、立ち上がって一見の前でしゃがみこんだ。穏やかな表情が一見を促す。
「なぁ、俺の答えで……洋二、おまえが離れて行く可能性は?」
少しでもあるなら何も言いたくない。今のままでいたい。
生まれた初めて本気で好きだと思ったのだ。これまで生きてきた中で、唯一無二の存在なのだ。たとえ疎遠になっても、せめて友人でいたいと思うほどに。
洋二の存在だけは無くしたくない。
「一見は、僕から離れていく可能性があるのか?」
質問を質問で返され、反射的に首を振った。いい大人の男が、まるで幼児のようにただ頭を振っていたのだ。
「それなら、その可能性はないと断言できるよ」
あのころと変わらない落ち着いた声が一見を慰める。縋るように見つめた一見に、洋二が頷く。だから、教えてくれと――。
「俺は」
震える唇を叱咤するように噛んだ。
「……洋二のことが好きだった」
封じ続けた言葉を解き放つ。このまま抱え込んで終わりを迎えようと決めていた言葉だ。
あの日、無防備に眠る洋二を前に、魔が差した。一度だけ、そう自分を甘やかしてそっとキスをした。
ずっと人とは違うことに怯えていた。なるべく目立たないように、話を合わせて過ごしていた。そんな一見に気づいた洋二のことが頭から離れなくて、一緒に過ごすほどその人柄に惹かれていった。
「洋二が結婚して、俺も普通にしなきゃと思って結婚した」
だけど、愛せなかったのだ。妻になった美佳は明るく元気で、可愛いと思ったし、人として尊敬していた。それでも。
「俺は美佳を愛せなかった」
だから離婚を申し出た。正直に打ち明けて、頭を下げた。慰謝料代わりだと、無理やりマンションを押しつけて、一見は逃げたのだ。
洋二からのふたつの質問に答えを返して、一見は抜け殻のように虚空を仰いだ。
最低な男だ。そのくせ、この期に及んで洋二が離れて行くことを恐れている。見捨てられても仕方がない。蔑まれ、罵倒されても仕方がないのにだ。
「……あのとき、怖がらずに問い詰めておけばよかったな」
ぽつりとつぶやく洋二の声に顔を上げた。真正面に、少し寂しげな洋二が一見を見つめていた。
問い詰められていたなら、なにか変わったのだろうか。
想像して、その無意味に肩を落とした。きっとあの日の一見は、洋二から問い詰められても誤魔化すことしかできなかったに違いない。
臆病で情けない自分を、一見はよく知っている。
「もし洋二が目を開けたら、ごめん冗談だって、そう言うつもりだったよ」
「それなら、聞かなくて正解だった」
「え?」
むしろ、冗談なら許されたんじゃないだろうかと思っていた一見は、予想外のことに呆然とした。
「冗談なら、自分だけが気にしてたことに落ち込むじゃないか」
洋二の、まるで、告白されたかったかのような言葉に、耳を疑った。
「だって、洋二……おまえは」
女性と結婚して、子どもももうけて……ごく普通の。愛するべき対象は女性だったはずだ。
「僕のなかの恋愛対象は女性だったけど、それとは別に一見が特別だった」
だから無くすのが怖くて問い詰められなかった。冗談だと言われてしまえば、その程度の関係性なのだと突きつけられるから。自分だけが相手を特別視していることに落ち込みから。
「歳を取って図太くなったから言えることだけどね」
若いというのは、未来の可能性があるだけに臆病だね。洋二が肩をすくめた。
「さてと」
晴れやかなトーンで洋二が立ち上がった。
「明日からはハローワークかな」
いつまでも無職ではいられない。
「え、仕事はどうしたんだ?」
「真樹子が余命宣告されたとき、看病するのに早期退職したんだ」
やっと心の整理もついたから、働くことにする。洋二が晴れ晴れとした顔で笑った。
歳も歳だから大した職にはありつけないだろうけど、食っていくくらいはどうにかなる。そんな洋二に思わず掴みかかった。
「うちの……俺の事務所! 人が欲しいんだけど!」
なにもかも一人でこなすには年齢的にも限界だ。メンテナンス部門で長く勤めた洋二は、営業スキルもある。
「雇ってくれるのか?」
驚いたような洋二に頷いて、それから気合いを込めて立ち上がった。
「ただし、ここからじゃ通えないから引っ越してもらわなきゃならない」
「それは、どうせ身軽な身だしいいんだけど」
歳を取るほどに怖いものがなくなっていく。洋二がそう言っていた。
無くさないのなら、ほんの少し勇気を出してみてもいいのかも知れない。人生の先はそう長くない。
「あと、もうひとつ」
「うん?」
馬鹿みたいに焦った内心を悟られないように、表情筋に力を入れた。
「俺の前で裸になってもかまわないと思うのなら」
住み込みで雇う。そんな下心を条件に突きつけた。
ポカンとした洋二が、次の瞬間真っ赤になった。
「おいっ。還暦近いじじいだぞ!?」
「俺だってそうだ」
「じじいの裸見てどうするんだよ?」
「興奮するに決まってる」
目を白黒させて慌てる洋二は、それでも嫌悪を見せることはない。
「四〇年忘れられなかったんだ」
たった一度のキスが、罪悪感を含んだ拠り所だった。
だから――。
「それでもいいと思ったなら、側にいてくれないか?」
残りの人生を、ともに過ごしたいと思ったなら――。
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