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「そういえば、悠太さんも、花音さんの本名を知ってたの?」
咲は胸のモヤモヤを振り切るように話題を変えた。
「はい。というか、普段は武雄さんって呼んでますよ」
「そうなの?」
そうです、とうなずく。
「──ただ、お花生けてる時だけは『花音で』と言われているんで、そうしてますけど。あと、最近は咲さんの前でもって言われてて。ちょっとややこしいんですよね」
咲は、初めて悠太と会ったときの二人のやりとりを思い出す。だから、あのとき、花音は悠太に冷たい態度を取ったのか。
「でも、なんでそんなこと」
咲がつぶやくのに、凛太郎が「武雄でいたくなかったんじゃないか」とぶっきらぼうに応じた。
「武雄でいたくない?」
口の中で繰り返し、咲は凛太郎の顔を捉えた。
──どういう意味?
謎掛けのような言葉に、咲は首を傾げる。しかし、凛太郎は不機嫌な顔のまま、黙ってコーヒーを啜った。これ以上は答える気はなさそうだ。
仕方なく、咲も目の前に出されたケーキを頂くことにした。イチゴをふんだんに使ったタルトだ。
「あ、美味しい」
咲のつぶやきに、そうでしょ、そうでしょ、と悠太がうなずいた。
「今はイチゴが旬ですからね。研究に研究を重ねて、ようやく完成した自信作なんですよ」
悠太が鼻息を荒くする。それに凛太郎は面白くなさそうに、ケッと悪態をついた。
──本当に凛太郎さんは子供だな。
花音の指摘を思い出して、苦笑いを浮かべた。
ふいに、チリン、と背後からベルの音が聞こえた。
「お待たせ、咲ちゃん」と花音が入り口から顔を覗かせる。隣には文乃の姿もあった。
「じゃあ、行こうか」
ニコリと笑う。
「あの、私、これから用事が……」
言いかけた咲の手を取り、花音は有無を言わせず引き上げ、「大丈夫。きちんと道案内するから」と片目を瞑る。
「いえ、そうではなくて……」
「いいから、いいから」
助けを求め、悠太と凛太郎に目を向ける。二人は「諦めろ」という顔をして、手を振った。
──そんなぁ。
強引に引きずられながら、実はこのビルで一番厄介なのは花音さんなのかもしれない、と咲は思ったのだった。
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