人はいさ……

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「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける」  柔らかな声で、花音が短歌を諳んじる。その瞳はどこか寂しげで。  なんとなく話しかけづらい雰囲気に、咲は花音から桜の花へと視線を移した。夕風が優しく花びらを揺らしている。 「……なんだか少し寂しい感じの歌ですね」  ぽつりとつぶやく。  短歌にも古文にも詳しくない咲には、その歌の意味するところはわからないが、言葉の奏でる雰囲気からそう感じた。 「そう?」と花音が聞き返す。 「僕も初めて聞いたときは、咲ちゃんみたいに思ったんだけど。……本当のところは、そんな感傷的な歌じゃないんだ」  悪戯っぽい笑みを浮かべた。 「そうなんですか?」  意外そうに眉を上げた咲に、そうなの、と花音は肩をすくめてみせた。 「この歌、紀貫之って人が詠んだものなんだけど……」 「あっ、聞いたことあります。たしか、『古今和歌集』の選者だった人ですよね。あと、『土佐日記』とか」  咲は学校で習った国語の知識を捻り出す。 「うん、そうだね」と花音がクスリと笑った。 「でね、その人が昔馴染みの宿を訪れたときに、宿の主人に言われた皮肉に対する贈答歌なの」 「贈答歌?」 「お互いに気持ちを伝え合う、お手紙のやりとりみたいな歌」 「お手紙……」 「そう。昔の人はそうやって、お手紙の代わりに歌でやりとりしたの」 「お洒落ですね」と咲は感心する。  そしてその労力を思い、「私には、とてもできなそうにありません」と首を振った。  僕も、と花音も同調して笑う。
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