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第二話 メル=トリト=アルトレイ
モストン商会を後にした土筆は一度宿に戻る為、ここメゾリカの街の目抜き通りを西に向かって歩いて行く。
途中、通り沿いに屋台を構える顔なじみの店主達から声を掛けられては他愛のない会話を繰り返し、そうこうしている間に目的地である宿屋に辿り着くのだった。
土筆達が活動の拠点として寝泊まりしているこの宿屋の一階は大衆食堂として宿泊客以外にも開放されていて、食事時になると座る席が見つからない程の人気店である。
土筆が入り口の扉を開け中を覗くと、ちょうど朝の営業時間が終わった後なのか客の姿はなく、この宿自慢の自称看板娘のシルユがテーブル上に残された空き皿を忙しそうに下げている最中だった。
「あっ、土筆さんお帰りなさい」
扉が開閉する際の音に反応したシルユが土筆の姿を見付け笑顔で迎え入れると、土筆も自然な笑みを浮かべ挨拶を返す。
シルユの声が聞こえたのか、カウンター奥の厨房からこの宿屋の女将であるカンジェが濡れた手をエプロンで拭いながらやって来る。
「おかえり。その様子だと無事に終わったみたいだねぇ」
土筆の表情を見たカンジェは安堵の表情を浮かべる。
「ええ。お陰様で何とか無事に契約することが出来ました」
「それは良かったじゃないか。私としては少しばかり寂しくなるけどね」
契約が成立すると今借りている部屋を引き払う事になるので、カンジェには前もって家を購入する予定である事は伝えてあったのだ。
「あら嫌だ。折角の門出なのに湿っぽくしちゃいけないわね」
少し困った表情を浮かべた土筆に気付いたカンジェは両手で自分の頬を軽く挟むと、ギュっと持ち上げて笑顔を作る。
「そうだ。ここを出る前にご飯は食べていくんだろう?」
「はい、その予定ですけど」
「なら、お祝いを兼ねてご馳走を用意しなくっちゃね」
カンジェはそう提案すると、服の袖をまくり戦士顔負けの力瘤を作って見せ、茶目っ気たっぷりのウィンクをする。
「ありがとうございます。メルもきっと喜びます」
「メルちゃんの食いっぷりも今日で見合納めだねぇ。気合い入れて用意するから楽しみにしておいて頂戴っ」
カンジェは気圧され気味に笑う土筆に部屋の鍵を手渡すと、意気揚々と厨房へ戻って行った。
土筆はカンジェの後姿を見送ると、食堂の奥にある階段を使い借りている部屋へと向かう。
何時もと何ら変わらない風景でも、今日で最後だと思えば感慨深い何かが沸々と込み上げてくるから不思議だ。
柄にもなく感傷に浸っていると、あっという間に自室の前に辿り着いた。
念のためドアを数回ノックして反応を待ってみるが物音一つ返って来ない。
土筆は先ほど受け取った鍵を鍵穴に突っ込むと、部屋の扉を開け中へと入って行った。
外出前に全開にしておいた窓から爽やかな風が吹き抜け、その風音に混じって気の抜けた締まりのない寝息が聞こえてくる。
その寝息の主はだらしない寝姿で大きな口を開けたまま、幸せそうに寝入っていた。
気持ちとしては心行くまで眠らせてあげたい所なのだが、今日の予定を考えるとそうも言ってられない。
土筆は心を鬼にしてメルが寝息を立てているベッドに腰掛けると優しく体を揺らした。
「メル。そろそろ起きないか?」
メルは土筆の手から逃れるように寝返りを打つと、毛並みの良い白い尻尾を一振りして徹底抗戦の構えを取る。
「うにゃむにゃ……もう少しだけ」
土筆は何度も起こそうと試みるのだが、メルの尻尾がこなれた仕草で邪魔をする。
「こいつ……」
薄っすらとこめかみに血管を浮かべる土筆を余所に、気持ち良さそうに枕を抱きしめて眠るメルと呼ばれた猫っぽい姿の少女。
この少女の名はメル=トリト=アルトレイと言い、こう見えても歴とした天使だったりする。
――土筆が転生する一昔前の話。
ここ異世界ラズタンテでは、中央大陸全土を巻き込んだ天界と魔界による大規模な戦いが生じていた……
その戦いに天界側の戦士としてメルも参加していたのだが、ある日、功を焦った若手の天使達が魔族の罠に嵌まり窮地に陥ってしまったのである。
その天使達を救出する為に敵陣深くに突入したメルは、撤退戦の最中、逃げ遅れた仲間を庇い不運にも高位魔族による呪いを受けてしまったのだ。
メルの持つ高い神力が呪いを中和したものの完全に無効化するまでには至らず、不完全となった呪いは徐々にメルの体を蝕んでいった。
五十五日間にも及ぶ呪いの侵食により天使の象徴でもある純白の翼は失われ、獣耳と尻尾が生起し、メルの姿は猫人族のような風貌に変わってしまったのである。
気持ちの整理を終えるのにそれなりの時間を費やし、その後は呪いを解く方法を探し出す為に色々と手を尽くしたようだが、結局目的を達成するとは出来なかった。
どのような理由であれ、天界は穢れを持った者を受け入れる事は出来ない。
要するに、呪いを受けたままの状態では天界に戻ることは出来ないのだ。
天界に戻る為、メルは今もこの地に留まり呪いを解く為の情報を探しているのである。
そんなメルと土筆が出会ったのは、とある天使の仲介によるものだった。
呪いを受け転生した土筆が新たな使命を授かった際、その協力者として紹介されたのがメルなのである。
その後二人は目的地でもあったメゾリカの街に移り住み、先ほど土筆がモストン商会で購入した物件の資金を捻出する為に冒険者となり、今に至るのである。
――そして現在。
双方無言のまま、手と尻尾による静かな攻防が続いていた。
やがて土筆の手による侵攻が徐々に弱まってくると、メルは向こう側を向いたまま、してやったりと言わんばかりのしたり顔を決め込んで見せる。
明らかな挑発行為に土筆の額に2つ目の血管が浮かぶ。
しかし、そこは浅からぬ付き合いの二人である。
土筆はあっさりと手を引っ込めると残念そうに大きな溜息を吐き、頭の後ろに両手を組んでメルに聞こえるようにわざとらしく独り言を呟き始めた。
「あぁ……残念だなぁ。今日がここでの最後の食事になるからと、ガンジェさんがご馳走を用意してくれるって言ってたけどなぁ……」
土筆がチラッとメルに視線を移すと、『ご馳走』のキーワードにメルの獣耳がピクっと反応をしたのが確認できる。
「メルは起きる気ないみたいだし、カンジェさんの料理はとても美味しいけど、俺一人ではとても食べきれなくて残してしまうから断って来ないといけないなぁ……」
今度はメルの尻尾がそわそわと反応する。
「そう言えばカンジェさん、メルの食べっぷりも見納めだからって、メルの大好きな物を用意するって言ってたなぁ……」
注意して見なくても、メルの尻尾がうねうねと落ち着きなく動いているのが分かる。
「折角の好意を無下にしてしまうのは非常に心苦しいけど、料理を無駄にしない為にも早めに断りを入れないと行けないなぁ……」
そう呟き終えると、土筆は頭の後ろに両手を組んだまま、くるりと反転しゆっくりと扉に向かって歩きだした。
「ちょっ★@□凹▲ったぁ」
音速を超えるとはこの事を指すのだろうか?
一瞬、黒い何かが土筆の視界を横切ったかと思うと、その行く手を阻むように肩を大きく揺らしながらハァハァと息を切らすメルの姿が映し出されていたのである。
この世界でも空気中で音が伝わる速さは秒速で約三百四十メートルだ。
メルの発した言葉の最初と最後だけ聞き取れたという事は、ベッドからここまでの移動速度が音速を超越した事を意味する。
呆気にとられ、呆然と立ち尽くす土筆に向かって息を切らしたままのメルがうるうるとした眼差しで見つめる。
「うっ……分かったよ……分かったから……」
メルの無垢な表情の破壊力に完敗を喫した土筆は、ばつが悪そうにメルから視線をそらすと、何度か頬を指で撫で下ろす。
「待っててくれる?」
「わかったから、早く支度しておいで」
メルはその言葉に頷くと、土筆が卑怯だと叫びたくなるように表情を変え、せっせと身支度を始めるのだった。
「ほんと敵わないな……」
「ん?何か言った?」
「いや別に……早くしないと置いてくぞ?」
「意地悪はダメだよぉ」
「はいはいのはいはい」
「あぁぁっ、聞き流したぁ」
「そんな事無いって……ほらっ、手が止まってるぞ?」
「あわわわわぁっ」
取るに足らない二人の会話は途切れる事もなく続き、身支度が済んで部屋を出る頃には山盛りの料理がテーブルの上を埋め尽くしているのであった。
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