ある男の手記

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ある男の手記

 ある時、といってもそれももう数百年も前のことであるから、今となっては知る人も稀だが、その日世界から文字が消えた。  その日を境に人々の記憶からは文字は消え失せてしまい、だれも羊皮紙に残されたインクの染みの意図を理解できなくなり、文明も次第に衰えを迎えるようになった。  しかし一方で、言葉に不思議な力が宿っていることにも人々は気づいた。想いを強く込めた言葉によって、これまでの人間の人体からは生み出すことも出来ないであろう力が宿るようになっていた。まだほんの一握りの者にしかできなかったが、それでもこの力を使えれば再び文明を興せる、そう感じたものは少なくなかった。  そうして言葉による力に何かしらの名前を付けて、それを人々に見せることで崇拝と畏敬を勝ち取り、支配者としての地位を確立させていった。かくして太古の共同生活へと戻ろうとしていた人類の文明レベルを封建社会の成立する中世レベルで留めることに成功した。中には自分の欲望のままに人間を人間と思わないままに暴政に明け暮れる者もいた。だがどれだけ自分が欲しいままに暮らそうとも、どれだけ民を想い、己に無理を強いたとしても、支配者たちは己の寿命に気づかされた。この力をもってしても命は刻一刻と終わりを迎えている。そしてこの力に遺伝性はなく、血の繋がり一つでは何の役にも立たないことも気づいた。このままでは邪知暴虐を極めようとも、共同体第一の僕を務めようとも、いずれも自分の命が尽きて終わってしまう。そのことを恐れた者たちは、それぞれ弟子を探し始めた。  何しろ文字のない世界だ。かろうじて遺った言葉によって生み出された噂を頼りに、顔も知らない未知の後継者を探そうとしても、中々思うように進まない。そのためそれぞれ優秀な後継者を探すために支配下をくまなく探させて、見つけ出した金の卵には、実の子よりも甘やかすように、もてるすべてを与えるようになった。  この記録は言葉の無くなったこの世界に、私がどうしても遺したかった記録だ。誰かが読むためではない、世界のために遺すのだ。
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