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「ねえ、覚えてる?」
テレビ画面越しに僕達は目が合う。そうしてあの頃から見間違える程垢抜けた彼女から、そう尋ねられたような気がした。
………
……
…
話は小学六年生の頃に遡る。
「タマキの隣の席の子、あの子は将来大層なべっぴんさんになるだろうね」
授業参観があった日の夕食中、母がふとそんなことを言った。
鈴木さんは、当時は別に取り立てて男子から人気のあるような子ではなかった。いや、いまや信じられないかもしれないけれど寧ろその反対ですらあったのだ。ヒョロヒョロとしていて、確かに顔こそ小さかったけれど却ってそのせいで目のギョロっとしている感じが際立っていて。
それでも、密かに僕は彼女に恋をしていたものだから思わず変な声が出そうになった。そして授業中チラチラと盗み見てしまう癖が側からみればあからさまだったのかもしれないと思い至り、顔を熟れたリンゴのように真っ赤にさせた。母はそんな僕を見てニヤニヤと笑い、我が息子ながら中々見る目あると思うよなんて揶揄った。
何に惚れたかと訊かれたら、その佇まいに惚れたのだと言うほかなかった。もっと言うならば、髪を書き上げた時にだけ見えるすらりと長い首筋の白さに最も心をどぎまぎとさせられ、その妖艶な感じに本当は人じゃなくて竜の末裔なんじゃないだろうかと馬鹿げたことを考えたりさえしていたが、ともかく他の奴らが彼女の美しさに気付いていないことに対し僕は少しだけ優越感を抱いていた。何故少しだけなのかと言うと、気付いていたことが仇となって結局気軽に話しかけることが中々出来ないでいたからである。
でも、それから暫く経ったある日のこと、帰りのショートホームルーム中、
「ねえ、どうして最近わたしのことをチラチラ見てくるの?」
と、僕はついに、彼女から小声で質問されてしまった。少しの間、考えて、
「この間授業参観があっただろう。あれ以来、僕のお母さんが言うんだよ。鈴木さんは将来ぺっぴんさんになるって。だからつい気になって」
などと何食わぬ顔をして答えた。すると何だか彼女は嬉しさを隠しきれないみたいで、目を大きく見開き口元のあたりなんかプルプルと震えている。
「ねえ、君はどう思うの?」
「うん。僕もそう思うよ」少し緊張したけれど、でも割合淀みなくそう言うことが出来たと思う。
それ以来僕たちはよく話すようになって、一月後には何とデートをするまでに至った。その日、僕たちは二人きりで電車に乗って水族館まで出かけた。入場料と電車賃は今思えば安いものだったけど、月のお小遣い二千円でやりくりをしていたあの頃の自分にとっては結構な金額で、それでも鈴木さんの要望を何とか叶えてあげたくて捻出したのだ。
大小様々な水槽に入れられた色とりどりの魚たちを見て鈴木さんは目をキラキラと輝かせた。僕はイワシの大群が渦を作るのを眺めても何だか美味しそうだなとしか思わなかったけれど、それでも来て良かったなと強く思った。
ゆらゆらと漂う神秘的なクラゲの水槽の前で、
「鈴木さん、手を繋いでみても良い?」
と勇気を振り絞って尋ねてみた。その日は最高気温三十度を超える猛暑であったけれど、その場所は驚くぐらいに冷んやりとしていた。
彼女の返事は対照的にあっけらかんとしていた。
「双葉って言うんだよ、わたしの名前。知ってた?」
そう言うと鈴木さんは舌をベーっと出して無邪気に笑った。そんなところに臆病心が出てしまっていたとはなあと僕は深く反省し、また手汗が尋常でなかったことも相まって、その日はとりあえず、手を繋ぐというミッションは終日見送ることにした。ただ、結局これが最初で最後のデートであったために、僕たちが手を繋ぐ日というものは終ぞ来なかったわけだけど。
館内のレストランでお昼を食べた後、丁度良い時間にイルカショーをやっていたので、僕たちはそれを見てから帰ることにした。彼女に促されて僕たちは一番前列に座ることになり、正直その言葉の響きから僕は始まるまで舐めていたのだけど、実際間近でピョンピョンと何メートルも飛び跳ねるイルカの躍動感は凄まじく、何なら僕は鈴木さんよりも終いには興奮した様子で眺めていたらしい。
「タマキくんってさ、意外とああいうのは好きなんだね」
「ああいうのはってどういう意味だよ」と僕は笑いながら問いかける。
「安心したんだよ。だってさ、結局今日も殆ど水槽じゃなくてわたしのことばかり見てたでしょ。だからつまらないのかなって最初はちょっとだけ不安だった」
「そんなことないよ。ちゃんとイワシの大群を見て美味そうだなって思ったりもしてたよ」
「それは楽しんでると言うの」と彼女は呆れ顔をした。
「でも僕の方こそ、双葉があんなに魚好きとは知らなかったな」
「好きっていうか、羨ましいなって思うの。ほら、わたし水泳やってるからさ」
やっぱり双葉って変わってるよねと僕が言うと、そんなことないよと言って彼女ははにかんだ。そうして、
「来週、そこそこ大っきな大会があるから是非来て欲しいな」
と今までに見せたことのない表情を作って僕を誘った。あんな表情で何かを誘われて断れる男は世にいないと思う(彼女がそれを誰か知らないヤツに向けているところを想像すると、いまでも少し憂鬱な気持ちになるけれど)。
実際僕もその時は二つ返事で承諾したし、行く気も俄然あった。でもとある事件が僕の身に起こって、泣く泣く断念することになった。
ここまで来て勿体ぶってもしょうがないから恥を忍んで打ち明けると、間の悪いことに僕の身体はそのたった一週間の内に子供から大人への変貌を遂げてしまったのだ。事件が起こったのは水曜日から木曜日にかけてだった。その夜、口に出すのは憚られるくらいの不埒な夢を見て、朝目が醒めるとパンツの中に不快な感触があった。幸い、直近の保健体育の授業でそのことは学んでいたため変な病気なんじゃないかと焦ったりすることはなかったけど、メンタル面においてとても学校に行けるような状態ではなかったので適当に理由を見繕って休んでしまった。次の日、登校すると早速鈴木さんから体調の心配をされて死にたくなるほど心苦しかった。顔を見るのもダメなくらい。
そして、僕はあろうことか鈴木さんに招待されていた件の水泳大会を当日になってドタキャンしてしまったのである。いまの自分が水着姿の鈴木さんを見て、プラトニックな気持ちを保っていられるかほとほと怖く思った故の決断であった。今考えると非常に馬鹿馬鹿しいけど当時は至極真剣であった。そして、責めて何か言い訳なりを考えてメールで送れば良かったものを、破滅願望に押し切られて、甘んじて罰を受けることが誠意であるとして何も策を講じたりはしなかった。当たり前に僕たちの仲は冷え切って、挽回出来る機会が訪れることなく無情にも席替えは訪れて、結局そのまま僕たちは小学校を卒業してしまったのだった。
卒業後、僕は地元の公立中学校ではなく都内の私立中学に入学したため彼女の顔を見る機会すら無くなった。そこでは殆ど皆が初対面であったために一年の頃はよく休み時間などに皆でワイワイと結構大っぴらに己の武勇伝やら恥ずかしいエピソードなどを持ち寄って盛り上がった。また男子校であったため、僕のその話は割合ウケが良かった。はじめは深い心の傷のように感じていたけど何回か話している内に気が付けば案外あっけなくかさぶたになってポロリと剥がれ落ちた。
しかし三年後、高校一年生の時分、僕は思わぬ形で鈴木さんと再会することとなった。
再会と言っても、彼女はテレビ画面の向こう側に居た。夕食後、リビングで何とはなしに点いていた音楽番組を見ていると、とある売出し中のアイドルグループの中に見覚えのある顔があることに気が付いた。それで目を凝らして見てみると、あの頃よりも成長して洗練された顔付きになってはいるものの、そこには僕の恋した鈴木さんが居たのだ。
鈴木さんはそれから更に数年を経て、雑誌のモデルや女優などアイドル以外にも活動の幅を広げて行って、今やすっかり手の届かないところにいるお方になってしまった。友人たちに昔あの子と付き合いかけたことがあると言っても誰も信じてくれないぐらいには。
母だけが、未だに鈴木さんがテレビに映るたび、
「逃した魚は大きかったねえ」
と僕をイジる。確かに逃した魚は大きかった。でも一方で、あのとき逃していなかったら魚はこんなにも大きくなってはいなかったことを僕は知っている。
とある雑誌のインタビューで芸能界に入ろうと思ったきっかけを問われた際、鈴木さんはこう答えていたのだ。
「——こんなこと言うと、ファンの方に怒られちゃいそうだけど、小学生の頃、わたしには好きな男の子が居たんです。当時のわたしは水泳一筋の女の子で、ファッションだったり身だしなみには全く無関心だったから正直全く可愛げがなくて、でもそんなわたしのことを唯一キレイだって言ってくれる男の子がクラスに居たんですよね。それでわたし、のぼせちゃって、その子を自分の出る水泳大会に招待したんです。でも結局彼は来てくれなくて。その時、ああ、わたし変わらなきゃなあって思って、……これって回答になってますかね? うーん、あとは彼を見返してやりたいという気持ちも少しはあったと思います。ごめんなさい。全然美しい理由じゃなくって」
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