八神さんの不思議な台詞

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八神さんの不思議な台詞

1 「」  しっとりとした艶のある肌、長い黒髪と上向きのまつ毛、やや切れ長な眼と澄んだ瞳、そしてモデルのような均整の取れたスタイル。「美人」という表現をそのまま形にしたような女性は俺と目を合わせ、唐突にその台詞を述べた。  俺は何も答えられなかった……。「ねぇ、覚えてる?」という台詞は俺に「何かを覚えていて欲しい」という期待があるからこそ出てくるものだ。だが、俺には全く心当たりが無かった。  さて、ここで状況説明を。俺は勧学院大学の社会学部三回生で推理小説研究会の会員。周りの人間からは「N先輩」と呼ばれている。で、目の前に居る女性は八神叡瑠(やがみえいる)。俺と同じ三回生で推理小説研究会の会長である。  今、俺が居る場所は鴨川の納涼床。「京の焼肉処 弘」という京都では有名な焼肉専門店だ。一応、「納涼床」の説明もしておこう。5月から9月にかけて鴨川に沿って並んだ飲食店が高床式の座敷を作る。それが納涼床で、京都府民は高床式の席で食事をしている人達を三条大橋の上から見かけると「夏になったなぁ」としみじみ感じる。そんな夏の風物詩だ。  俺みたいな貧乏大学生は橋の上から眺める程度の事しか出来ず、納涼床に足を踏み入れる機会なんて全くない。納涼床は基本、予約制。予約が必要になる店ということは、値段もそれなりに覚悟がいる店ということでもある。少なくとも、ファミレス感覚で入れるようなお店ではない。現に床のメニューはコースのみで、値段は一番安いコースで5400円。今、俺の財布の中に津田梅子(五千円札)は一人も居ない。それどころか、渋沢栄一(一万円札)までもが俺の財布から家出をしてしまっており、残ってくれているのは北里柴三郎(千円札)が数人のみ。本来なら、俺はこの場に居なかった筈の人物だ。  では、何故、俺がこんな高級店で料理に舌鼓を打てているのか? 答えは簡単。今朝、八神会長から電話で呼び出しがあったからだ。 「N、ちょっと良いかしら? 私は経済学部で昨日から夏休みだけど、社会学部も同じスケジュールよね? 今日、暇かしら? 暇だったら、今夜、一緒に食事でもどう? 高級なお店、予約してるから。勿論、私の奢りね。じゃあ、楽しみにしてるわね」  一応、台詞の語尾には「?」が付けられているが、上記の問答は俺の答えを待たずして行われている。つまり、俺の意思は無視されて予定を入れられたということである。  まぁ、特に用事は無かったし、断るつもりもなかった。美人と一緒に食事が出来て、喜ばない男性はこの地球上には存在しない。さらに奢りともなれば、断る選択肢は有り得なかった。  俺は黒のテーラードジャケットに黒のテーパードパンツとディナーデートに相応しいお洒落をして、待ち合わせ場所の京阪電鉄「三条駅」へ鼻歌交じりのスキップをしながら向かった。丁度、俺が待ち合わせ場所へ着いたと同時に八神さんも到着したので、俺達は軽くおしゃべりしながら店へと向かった。  思えば、最近、八神さんは妙に気前が良い。先週も何故か、推研の部室で俺に手作りの弁当を差し入れてくれた。弁当箱の中身はハンバーグだった。 「それ、黒毛和牛の挽肉で作ったの。Nに食べて欲しくて……。お口に合えば良いけど……」  黒毛和牛! 俺は驚いた。そんな高級な国産牛で作った物を、わざわざ俺に作ってきてくれるとは! しかも、八神さんのような美人が!  美人の手作り&高級食材というダブルパンチに俺は昇天しそうになる程、感激した。ナイフとフォークのような気の利いた物は部室に無かった為、偶々、近くにあった割り箸で口いっぱいに頬張った。 (う……美味い! ジューシーな肉汁! 口いっぱいに牛肉の旨味が広がる!)  俺は手作りハンバーグの美味さをじっくりと味わった。丁度、金欠でそうめんばかり食べていたということもあり、俺はこの最高の美味さを噛み締めていた。 「どう? 美味しい?」  八神さんが天使のような笑顔で味の感想を聞いてきた。俺はすぐさま首を縦に振り、頷いた。 「最高ですよ、八神さんの手料理! しかも、黒毛和牛なんて! でも、どうして俺に? 八神さんに弁当を作ってもらえる程の何かをした記憶は無いのでちょっと怖いんですけどね……」  俺の台詞に八神さんはいたずらっ子のような可愛い笑みを浮かべると 「気にしないで」 と空の弁当箱を鞄にしまいながら、部室から出て行ってしまった。    俺達は納涼床の座敷に腰を下ろし、5400円のコースを二人分頼んで、鴨川の景色を楽しんだ。時刻は丁度、午後8時。京都の街明かりと月夜、そして三条大橋と鴨川の河原に座る若者たち。京都では見慣れた風景だ。  しばらくすると、前菜が来た。俺達二人は牛タンの塩茹でやうぐいす豆腐を味わいながら、ミステリー談議に花を咲かせた。  そして、俺はふと気になる。何故、八神さんは俺に弁当を作ってきたのだろうか? そして、今日は何故か、5400円もする焼肉のコースを奢ってくれる。確かに、八神さんは部内では結構、お金に余裕がある人だ。部室に備え付けられているテレビも彼女のポケットマネーで購入した物だ。だが、流石に何の理由もなく奢ってくれるような気前の良すぎる人では決してないことは長年の付き合いで知っていた。何か裏があるんじゃないかと不安になってしまう。 (まさか、美人局とかの類じゃないよな……。後で壺とかサプリとか絵とか買わされたりして……)  急に不安になり、疑いの視線を目の前の八神さんに向ける。 「どうしたの?」  八神さんが首を傾げたので、俺はすぐに目を逸らした。 「何でもないです!」  何処かぎこちない俺の様子に、八神さんがフフッと笑う。 「変なの。別に貴方をどうこうしようなんて考えてないわ。ただ、貴方と一緒にご飯を食べたかっただけ。それだけで呼びつけるのは迷惑だったかしら?」  何度も言うが、八神さんは超の付く美人だ。美人の女性にこんな台詞を言われたら、例え裏があろうとも付いて行くのが男の性だ。 「お待たせしました~」  ようやく肉が来た。皿には値段に見合う豪華な牛肉がキラキラと輝いて見えた。 「おぉ、凄い! 本当に食べても良いんですよね?」  俺が不安そうに尋ねると、八神さんは呆れた表情で頷いた。俺は遠慮なく、金網で肉を焼き始める。  ジュウゥゥゥゥゥ  肉から良い音がする。油が弾ける音。肉の色が赤から焦げ茶色に変化し、香ばしい匂いが鼻腔を刺激する。 「そういえば、この店のお肉、厳選した黒毛和牛を使っているって聞いたわ。じっくり味わいなさい」  おぉ、まさか、ここでも黒毛和牛を味わうことが出来るとは……。先週の件といい、八神さんは俺に高級牛肉を食わせたいらしい。だが、その理由はやっぱり見当がつかない。 (まさか、俺に惚れているとか……。だから、肉で機嫌を取っている? いや、まさかね……)  冗談8割、期待2割の考えが頭を過ぎる。だが、八神さんのような才色兼備の女性が俺みたいなちゃらんぽらんな男を相手にする筈が無い……と、すぐさま判断し、無駄な希望は捨てることにした。(自分で言いながらも、悲しくなってきた……)俺が彼女と一緒に居るのは、あくまで推理小説研究会の腐れ縁。それ以上でもそれ以下でもない。  そんな事を考えていると、肉が良い感じの焼き加減になる。端が少し焦げ、赤身の部分は完全に茶色くなっていた。 (これが二度目の黒毛和牛……!)  俺はタレを付けた肉を口に放り込んだ。 (……!)  この味は言葉では表現できなかった。美味い。この三文字以外で思い浮かぶ言葉が無い。よくグルメレポーターはそれらしい雰囲気の言葉をカメラ越しに伝えているが、本当に美味い物は一流の小説家でさえも言葉で表せないものだと、この肉を食べた今なら分かる。  すると、じっくりと味わっている俺に対し、八神さんは冒頭の台詞を投げかけてきたのだ。 「」と……。    
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