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「ねぇ、覚えてる?」
しんしんと降り続ける雨を教室の窓ガラス越しに眺めながら、彼女は俺にそう語りかけてきた。
「忘れたよ」
「嘘だ。その言い方は絶対覚えてる」
長く伸ばした髪を翻して彼女は振り返った。整った輪郭に収まる綺麗な黒い瞳が批難するように俺を見詰めてくる。
「バレたか。ああ、ちゃんと覚えているよ」
俺は誤魔化しは通用しないと諦め、短く息を吐いてから教室に立てかけられている時計を見上げた。
「今日は近所のスーパーの特売日だ」
「なんの話?」
「卵が十六時からお一人様一パック四十円だぞ忘れるわけないだろう! 学校が終わり次第ダッシュする! 俺んちの食事情を支える重大なミッションだからな!」
「だからなんの話よ!? あんたんちの食事情なんて知らないわよ!?」
「貴重なタンパク源なんだよ馬鹿にするな!」
「別に卵は馬鹿ないしてないわよ!? そうじゃなくて、もっと前のことよ!」
もっと前? 彼女は一体なんのことを言っているんだ?
彼女とは高校に入ってからのクラスメイトで、別に付き合っているわけでもない。だから俺たち二人の記念日がなにかあったわけじゃないと思う。
「ほらアレよ! アレを見て思い出しなさい!」
彼女が窓の外を指差した。そこには学校の花壇があり、雨に打たれて風情を増している紫陽花が綺麗に咲いていた。
「紫陽花か……あっ」
「ふふん、思い出したみたいね」
勝ち誇ったかのように胸を逸らす彼女。紫陽花と言えばもう答えはわかったようなもんだな。
「紫陽花は有毒だから食べちゃダメだぞ」
「なにを思い出してんの!? 食べないけど!?」
「この前ドリンクにして飲んでみたら吐き気と眩暈と腹痛で死にかけた」
「経験者は語る!?」
「この辺に生えてる食える植物は網羅してるからいつでも聞いてくれ」
「こんなサバイバルしてる人初めて見た!? 網羅してるんなら紫陽花飲むな!? ――って違うわよそういうことじゃなくて!」
なに? 以前に俺が紫陽花で中毒起こした話じゃなかったのか。だとすればますますわからなくなってきたぞ。
「こうなったらもう最大のヒント! これを見たら流石に思い出すでしょ!」
そう言って彼女は自分のロッカーから大き目のケースを持ってきた。ケースを開けて取り出したものは――ヴァイオリンだ。彼女は確かオーケストラ部に所属していて、子供の頃からヴァイオリンを習っていたとかなんとか。
「そのヴァイオリン……まさか!」
彼女の体格に合った少し小さ目のヴァイオリンを見た俺に天啓が閃く。
「丁度こんな雨が降ってたあの日だったわ。紫陽花の公園であんたが私の――」
「それストラディなんちゃらっていうめっちゃ高いやつなんじゃ!」
「その辺に売ってる五千円くらいの安物だけど!?」
「なんだ……」
違ったか。残念。
「あからさまにがっかりしてる!? ストラディバリウスだったらどうするつもりだったの!?」
「俺を婿にしてくれとお願いしようかと」
「ほぇっ!?」
彼女がそんな伝説級のアイテムを所持しているお嬢様だったらなにがなんでも結婚を前提にお付き合いしたいです。顔を真っ赤にして自分の髪を指で弄る姿もなかなか可愛いし。
「あ、あんたがあの時のことをちゃんと思い出して、私が聞きたい言葉を口にするまでは絶対許さないんだから」
彼女はどこかもじもじした様子で上目遣いにそう言ってきた。
どうやらこのままのらりくらりと話題を逸らすことは難しそうだ。俺は諦めて肩を落とし、バツが悪くなって頭の後ろを掻きながら謝罪する。
「悪かったよ……」
本当は、覚えている。
ただのクラスメイトだった俺と彼女が、こうして普通に会話できるきっかけとなった出来事。
忘れるわけがない。忘れていいはずもない。
なんだかんだ照れ臭くて言い出せなかった言葉も、彼女が求めているならしっかりと伝えるべきだ。
覚悟を決め、俺は――両手両膝を床につけて綺麗な土下座を披露した。
「あの日、お前が公園のトイレの前に置いてたヴァイオリンを捨てられてたもんだと勘違いして勝手に持ち去って売ろうとしたことを謝ります!! 本当にすみませんでしたぁあッ!!」
「ようやく『ごめんなさい』が聞けたわ! あんたがクラスメイトじゃなかったら被害届出してたんだからね!」
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