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「ねえ、まだ、あなた覚えてるよね。」
マリコは、鏡に映った自分の目を見つめて呟いた。
鏡のマリコは、ただ、実体もなく、そこにいるだけだ。
無言で、マリコを見つめている。
「ま、いいか。そんな大したことじゃないわよね。」
柔らかなエンジのルージュを引いた。
今から、弟の葬式に出席するために支度をしている。
「これで、あのことを知っている人はいなくなったのね。」
マリコは、少しほっとした気持ちでいた。
ジリジリと焦がすような日差しの照り返しの中で、街路樹の影を探しながらアスファルトの坂道を上って行く。
一瞬、コンビニのドアから漏れた冷たい空気が、マリコの首筋を撫でた。
丘の上の小さな葬儀会場には、久しぶりに見る親戚の顔が並んでいる。
棺を覗くと、弟のリョウタが、力無げに横たわっていた。
「あの時は、ありがとう。もう、あのことは忘れて、ゆっくり休んでね。」
マリコは、誰にも聞こえないぐらいの声で、リョウタに言った。
「お義姉さん。来てくれて、ありがとう。」弟の嫁のリカだ。
「リカちゃん。大丈夫?」
「ええ、もう諦めるしかないものね。でも、リョウタが、息を引き取る前に、お義姉さんに、会いたがってたのよ。何か、お義姉さんに、言いたいことがあったみたいなの。あれ、何だったのだろう。」
「そうなんだ。何だったんだろうね。」
マリコには、何となく解るような気がした。
きっと、あの時の事だ。
マリコとリョウタには、誰にも言えない秘密があった。
誰にも言えないというか、言ってはいけない秘密だ。
「それより、リカちゃん。今まで、ありがとう。看病も、みんなリカちゃんに押し付けてしまったみたいで。」
「いえ。最後の最後まで、リョウタと一緒にいられたのが、唯一の救いかもです。」
もう1度、リョウタの顔を見た。
少し荷が下りたような表情にも感じられる。
「ごめんね。リョウタには、あたしのせいで、ホント、死ぬまで、罪悪感を抱かせてしまったわね。それだけは、ホント、謝る。でも、不思議なのよね。あの時の事、現実だったのかな、なんて思うことがあるのよね。うん、勿論、現実だって解ってるよ。その現実で、リョウタを苦しめてしまったんだもんね。でも、だんだん、他人事のような気になってきているの。あたしって、悪い女なのかな。」
葬式も無事終わって、遺骨をリョウタの家まで持って帰った。
そして、リカとコーヒーを飲みながら、遺影を見ている。
「ああ、終わっちゃった。」リカが、ポツリと吐き出した。
「そうだね。終わっちゃったね。」
「やっぱり気になるなあ。最後に、お義姉さんに言いたそうにしていたこと。」
「本当に、あたしに何か言いたそうだったの?子供のころの話でもしたかったのかな。」
「子供のころの話、、、そんな風じゃなかったわ。もっと、真剣な感じ。何か知らないけれど、一言、伝えたいみたいな。」
「ふうん。何だったのかな。というか、気のせいじゃない。だって、リョウタとも、ずっと会ってなかったし。」
「そうなのかな。勘ちがいなのかな。」
「きっと、そうよ。それか、遺産をあたしに全部あげる話とか。」
「あはは。それは、ないない。っていうか、遺産なんて、あるのかな。もう、治療代に、貯金使っちゃったしな。」
「あ、ごめん。そうだよね。でも、あたしに言いたいことっていうのは、あったとしても大したことじゃないのよ。きっとそうよ。」
しばらく、たわいもない話をして、マリコは、リョウタの家を出た。
帰り道に、リョウタが何を言いたかったのか考えていた。
リョウタは、死ぬ間際まで、あの事に罪悪感を抱いて、悩んでいたのだろうか。
その罪を考える毎日。
真面目なリョウタにとって、それは耐えがたい毎日だったのだろうか。
そして、あたしのために、その罪悪感について、悩まなくてもいいと告げたかったのだろうか。
或いは、ひょっとしてだけれど、その罪を償えと言いたかったのだろうか。
死というものが、すぐ近くに見えてきたときに、罪に対する償いという行為というか、償いと言う思いが、必要であると感じるようになってきたのだろうか。
罪を背負ったまま死ぬことは、しちゃいけないという。
でも、あたし自首なんてしないわよ。
だって、わるいのは、彼なんだもん。
というか、最近、あの時の事が、それほど重要な事に思えなくなってきているのよね。
もう25年も経っているでしょ。
記憶が、だんだん曖昧になってきてるのよね。
残酷な女だと思うでしょ。
あたしも、そう思う。
人は、誰かにヒドイことをされたら、いつまでも覚えているんだろうと思う。
でも、誰かにヒドイ事をしても、それは、少しずつ忘れていくものなんだなあと、最近、感じるのよね。
人間って、身勝手な生き物だよ。
実際、あの時の事の記憶が、25年前の当時と比べて、遥かに希薄になっている。
それって、あたしの倫理観というか、道徳観と言うか、そんな人間としての物差しが、欠如している証なのかもしれない。
自分のしたことの重大さを忘れてしまって、今のあたしの時間を楽しんでいる。
普通に友達と仕事帰りに、今流行のお店でお茶したり、旅行にも行って、そうだ、この前は金沢に行って蟹を食べたのよね。
あれは絶品だったわね。
ああ、生きてて良かったなんて、幸せな気持ちになったな。
まだまだ、これから恋もして、まあ、もうすっかりオバサンだけど、もう1度ぐらい花を咲かせてみてもいいんじゃない。
そうだ、この前に行ったカフェの店長さん、パワースポット巡りが趣味だって言ってたわね。
今度、誘ってみようかな。
年下だけど、あたしの好みなんだなあ。
そんな楽しい希望の陰に、あの時の罪悪感なんて、微塵も存在しないのが不思議だなと感じる。
人間の一生なんて、記憶で存在しているようなものよね。
覚えてなければ、存在しない。
あの時の事だって、記憶が薄れていく今にあっては、その存在が、あたしのなかで曖昧になっている。
本当に、あったことなのか。
本当に、あたしは罪を犯したのか。
「まあ、いいじゃない。そんな大したことじゃないわ。」
今は、素直に、そう思えるマリコがいる。
でも、弟のリョウタは、そう言う訳にはいかなかったのかもね。
そう考えると、あの事件に弟を巻き込んだのは悪かったと思うよ。
ごめんね、リョウタ。
そんなに、悩まなくても良かったのに。
「あれは、大したことじゃなかったのよ。」
リョウタが生きていたなら、そして、リョウタの最後の言葉に間に合っていたなら、そう伝えたかった。
悩まないでと。
薄れていく記憶をマリコは思いだしていた。
《25年前の出来事。》
マリコは、夫のタクミに、モラハラを受けていた。
毎日、毎日、マリコの行動を監視して、そして批判をする。
そんな毎日に耐えられないでいた。
そんな新婚生活が続いた時、マリコは離婚を切り出した。
逆上したタクミは、マリコを部屋に監禁して、更に、そのモラハラはエスカレートしていったのだ。
四畳半の部屋に鍵を掛けられ、ただ薄暗い中で、1日の大半を過ごす。
部屋から出ることが出来るのは、タクミの監視の下で、掃除や洗濯の家事をするときだけだった。
そんな生活が1年ぐらい続いた或る日、マリコは、正常な心理状態を逸して、タクミの後ろからナイフで背中を刺した。
「助けてくれ。」
そう言ったタクミの胸を、今度は正面から、何度も何度も差し続けた。
ふと我に返ったマリコは、自分のしてしまったことに、どうしてよいか、それを考えることも出来ないでいた。
ただ、罪悪感は無く。
ほっとした気持ちが、マリコの胸を温かく巡りだした。
「どうしよう。タクミを殺しちゃった。」
マリコが、相談できるのは、弟のリョウタだけだ。
その電話を聞いたリョウタは、今まで姉が受けてきたモラハラを考えると、仕方がないことだったと思った。
そして、このままマリコを警察に引き渡してはいけないと思った。
苦しい思いをさせられたものが刑務所に入れられるということが理不尽に思えてしかたがなかったのだ。
リョウタが提案したのは、夫のタクミを、失踪に見せかけて、近くの山の中に埋めてしまう事だった。
マリコも、それを承知した。
誰も通らない山道から20メーターほど下った山のなだらかな斜面に、タクミを埋めた。
そして、その上に、赤いチューリップを植えた。
埋めた場所の目印でもあり、せめてもの手向けの気持ちでもあった。
そして、頃合いを見計らって、警察に夫がいなくなったという理由で、捜索願を提出した。
やっと普段の生活が戻って来た瞬間だ。
その後、7年経って、失踪届を提出して、既に、夫とは死別したも同然だと認定してもらい、今は、家も財産とは言えない少ない貯金も引き継いで生活をしている。
誰にも束縛されることのない自由な生活。
今までにない充実感を感じる日々。
マリコにとって、今が1番幸せを感じる時であった。
勿論、夫を殺してしまったという罪悪感は、多少はあったが、それよりも、夫のモラハラから解放された自由が、そんな罪悪感なんて消し去ってしまう。
法的に殺人を犯してしまったという罪は、時効の制度が廃止された今では、これからもずっと続いていくだろう。
でも、この殺人の事実を知っているのは、マリコと弟のリョウタだけだ。
2人が黙っていれば、バレることはないはずだ。
殺した夫に対しても、申し訳ないという気持ちよりも、ザマーミロという気持ちが勝っていたのかもしれない。
《現在のマリコ》
あたしって、異常なのだろうか。
夫を殺しておいて、罪悪感も感じないで、自分のちょっとした日常の楽しみを味わっている。
でもさ、あなたがいなくなって、誰か泣いた人がいる?悲しんだ人がいる?いないよ。
まあ、あなたの母親は、あなたがいなくなって、当時は、狼狽えていたけどさ。
それは見ていて、ちょっと可哀想だったよ。
あなたの母親が愛した息子を、あたしは殺したんだもんね。
それを知ったら、あの人、卒倒するよね。
そんな殺人の記憶も、その時は、ハッキリと覚えていたよ。
でも、時間って言うのは残酷というか、悲しいね。
毎年、毎年、少しずつ、少しずつ、記憶が薄らいでいくのよね。
今じゃ、もう、当時の5分の1ぐらいな感じになっちゃったんじゃないかな。
記憶も罪悪感もね。
事実というのは、記憶に依存してるよね。
記憶が無くなってしまえば、事実も無くなる。
事実が無くなってしまえば、それらに纏わりつく存在も消えてしまう。
あたしの中では、もうあなたの記憶は希薄になっているの。
だから、あなたを殺したって言う事実も、そんなに切実に感じない。
大したことじゃなかったなんて、ごく自然に思えるの。
それに、そんな事実も消えてしまったら、今度は、あなたの存在も消えつつあるのよ。
本当に、あなたと結婚生活をしていたのだろうかとかさ。
その時、あたしは何を考えていたんだろうかとかさ。
そして、あなたは、存在したのかなってね。
考えてみれば、あなたにも、子供の時代があって、高校生になって、初恋も経験したんでしょ。
大学生になって、友達もできたのかな。
そして、就職して、あたしと結婚した。
その人生って、あなた幸せだった?
うん、あたしが、あなたの思うように、あなたに従ってたから、あなたは、幸せだったかもしれないわね。
ねえ、もっと生きていたかった?
そりゃ、そうよね。
誰でも、長生きはしたいものね。
それを、あたしは全部、奪っちゃったのよね。
でも、仕方がないじゃない。
あなたが、殺されたって事も、そんな大したことじゃないのよ。
そう思いなさいよ。
だって、人生ってさ、いくら長生きしても、80年とか90年だよ。
短いんだからさ。
その短いのが、ちょっと更に短くなっただけなんだって。
そうでしょ。
だから、あたしが、罪悪感なんて、抱く必要ないよね。
なんて、死んだあの人に言ってみたけど、死んじゃったんだから意味ないか。
というか、死んじゃったんじゃなくて、殺しちゃったんだよね。
そんなマリコでも、タクミを殺したという事実は、脳内に覚えていて、時に、化粧で鏡に向かう時に、鏡に映った自分自身に、「ねえ、あの時の事、覚えている?」と呟いてしまうのだ。
それは、まだ罪悪感というものを感じているんだというマリコの中の善人を確認する儀式のようなものでもあった。
大したことじゃないと感じながらも、でも、罪を犯したことを反省はしているという善人の部分を確認する作業。
ただ、その善人であることを確認することも、ある意味、うわべだけの事だったのかもしれない。
覚えていなくてもいいし、覚えていても構わない。
その問いの答えには、意味が無いんだ。
ただ、毎年、その問いに対する答えが、曖昧になってくる。
記憶が曖昧になってくるのと並行して、殺人の記憶も曖昧になってきているのだった。
「ねえ、あなた、覚えている?」
そう言った後に、マリコは、「あはは。もう、いいじゃないの。忘れちゃってもいいことなのよ。だって、大したことじゃないもの。」そういって、笑った。
その笑いには、何か晴れやかなものが含まれていたかもしれない。
「そうだ、新しいモンブランのお店が出来たのよね。誰か誘って食べに行こうかな。あはは、充実してるね、あたし。」
《その15年後のマリコ。》
マリコは、軽度の認知症も出始めているのか、物忘れが酷くなっていた。
あの事件と言うか殺人の事も、今は、覚えている時間の方が短い。
覚えていると言っても、果たして、それがマリコ自身の事だったのか、何かのテレビドラマの事だったのかさえも、判然としない。
マリコの中では、40年前に、タクミと結婚をしていた事も、そして、タクミを殺したことも、記憶から消えかけていた。
記憶が消えてしまえば、その事実も消えてしまう。
マリコは、夫のタクミを殺してはいなかったのかもしれない。
いや、マリコは、タクミと結婚していなかったのかもしれない。
タクミという男は、この世に、存在していなかった。
それが、事実になりかけていた。
記憶が無ければ、存在しないと同じ。
今、仮に、この場に、殺人の証拠を持って警察官が訪ねて来ても、果たして、マリコに罰を与えることは出来るのだろうか。
殺人の記憶の無いマリコに、罰を与えることに意味があるのだろうか。
マリコの罪を、どうやって、マリコに自覚させることができるのだろうか。
マリコ本人にしてみれば、やってもいないことで、逮捕されて罰せられる。
自覚のない罪によって罰せられるというのは、マリコにとっては、正しく、理不尽というものだろう。
それに、罪の意識のない人間を刑務所に入れて罪を償わせても、罪を償ったことになるのだろうか。
反省どころか、その意味さえ理解できない拘束。
さらさらと、砂が潮風に吹かれて、子供たちが立てた海辺の城を崩していく。
虚しくもあり、清々しくもあり。
やがて、ただの砂浜に戻ってしまう。
その跡には、恨みの波動が、ただぽつりと残されている。
そして、その残された恨みの波動も、やがて、恨みを知る人の記憶から消えていく。
何も無かったかのように。
マリコは、化粧台の鏡に向かって、鮮やかなピンク色のルージュを引いた。
でも、鏡に映った自分自身に対して、「覚えている?」とは問わなかった。
ふと、鏡に映っているマリコの後ろに一人の男性が立っていることに気が付いた。
その男は、やせ細って青白い顔をして、それでも、ギラギラと恨むような眼で、マリコを睨みつけている。
紛れもないマリコに殺されたタクミの亡霊であった。
マリコは、その男を見て、首を傾げた。
そして、鏡の男に向かって言った。
「あなた、誰?」
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