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◇◇◇
「アンリ様、お話があります」
「なんだい、ミレーユ?」
「あ、あの、実は私達の婚約のことなんですが……」
「うん。結婚式まであと3年5ヶ月と10日だね?」
「そ、そうなんですか?凄く計算が細かいですね?」
「嫌だな。ミレーユは忘れてたのかい?僕は結婚する日を毎日指折り数えて待ってるのに……寂しいなぁ。」
「あ、いえ、あの、私も指折り数えて待ってました!」
「待ってた?なんで過去形なのかな?」
「えっと、あの……」
「もしかして婚約破棄したいとか言わないよね?」
「えっ!?なぜそれを!?」
「言うつもりだったのかい?」
先程までにこやかな笑みを崩さなかったアンリの顔に突如凄みが増す。
「そ、そうです!アンリ様との婚約を無かったことにしてほしいんです!」
「理由を聞こうか?」
アンリから見たこともないような冷たい視線を受けて、ミレーユは倒れそうになる。いや、でも、ここで引くわけにはいかないっ!なぜならこの婚約破棄にはミレーユの命が掛かっているのだ。
ミレーユは先日庭で転けて頭を打った拍子に前世の記憶を思い出した。そして今生きている世界が、前世プレイしたことのある乙女ゲームの世界であることを知ったのだ。
アルサイト公爵令嬢ミレーユ=ド=ラ=アルサイト。この乙女ゲームの悪役令嬢にして、バッドエンドしかない可哀想な当て馬令嬢。それが転生したミレーユの役どころだ。
そしてこのまま婚約を続行すれば、本来結婚式をあげる予定だった18才の誕生日に、ミレーユは死んでしまう。理由は簡単。ヒロインに心を奪われたアンリから結婚式直前に教会のてっぺんから突き落とされるのだっ!
そう、ここはげに恐ろしきヤンデレ系乙女ゲームの世界。自分の恋のためには他人を蹴落とすことはおろか、命を奪うことさえなんとも思っていないような魑魅魍魎が跋扈する世界なのだっ!
この乙女ゲームに転生したと知ったとき、ミレーユは泣いた。プレイしたことある数ある乙女ゲームのなかでなぜよりにもよってこのゲームに転生したのかと。
普通の乙女ゲームに飽きて手を出した完全なる色物物件。ああでも、これが今のミレーユの現実世界なのだっ!
ミレーユの婚約者のアンリとは、アンリ5歳、ミレーユが3歳のときに婚約を結んだ。幼いうちはまだお互いに婚約者などわかるわけもなく、実の兄と妹のように仲むつまじく過ごしてきたのだ。
14歳になった今では、大好きな兄的存在であり、初恋の相手であり、将来の結婚相手として疑うこともなく純粋な愛情を捧げていた。
正直、アンリから殺されるなんて想像もつかない。でも、だからこそ恐ろしいのだ。
「アンリ様、アンリにーさまは、私のことをいつかきっと邪魔に思うときがくるからです」
「僕が?ミレーユを?有り得ないね」
「有り得るのですっ!他に好きな人ができたら、私のことをゴミみたいに捨てるんです!」
「ミレーユには僕がそんな男に見えるの?」
悲しそうな顔をするアンリを前にすると罪悪感で胸がはちきれそうになる。でも、これはアンリのためでもあるのだ。このまま婚約を続けてしまえば、アンリは殺人者になってしまうのだから。
「アンリにーさまは私を殺したいくらい憎むんです!」
「……そうだね?殺したいくらい憎むかもしれないね?」
「ひっ……」
「だって、こんなにミレーユのことを愛してるのに僕を捨てるんでしょ?」
「ち、ちがっ、アンリにーさまが私のことを捨てるんです」
「そんなこと有り得ないって言ってる」
「で、でもっ!」
「じゃあ、今すぐ選んで?今僕を捨てて殺されるのと将来僕に殺されるのとどっちがいい?」
「どっちも死ぬじゃないですかっ!」
「ミレーユの言うとおりだったらそうなるね?でも僕はこの先ミレーユのことを殺す気なんてないよ?愛してるからね」
「ほ、ほ、本当に?」
「本当に」
「私のこと愛してる?」
「愛してるよ」
「アンリにーさまぁぁぁ!」
「よしよし。ミレーユはおばかで本当に可愛いね?」
「ば、ばか……」
「馬鹿だよ。だって僕は君以外を愛すことなんてないからね。でも、君が僕を拒むなら……」
「こ、こ、拒みませんっ!私はアンリにーさまを愛してます!」
「そう。愛してるよミレーユ。ところでさっきの話、もっと詳しく教えてくれる?なんで突然あんなことを言い出したのかな?」
ミレーユはアンリの怖い笑顔に怯えつつたどたどしい言葉で今までのことを白状した。ここが乙女ゲームの世界であること。ヒロインが別にいてアンリはそのヒロインの攻略対象者であること。どのルートを選んだとしてもミレーユが邪魔者としてアンリに殺されてしまうことを。
「ふーん?面白い話だね」
「えっと、もうヒロインさんはアンリにーさまと出会ってるはずなんです」
「名前は?」
「えっと、バレン男爵家の庶子として16歳で引き取られた……」
「ああ、あの女か」
「ご、ご存知ですか?」
「ああ知ってる。最近学園内でやけに目につくとは思ってた」
「やっ、やっぱりその人に心を奪われてっ」
「違う違う、頭が空っぽで下品な女だよ。あんなの好きになるなんて有り得ない」
「え、可愛らしい人では?」
「全然?」
(どういうことなの……)
「ミレーユはなにも心配しなくていいんだよ?」
「アンリにーさま……」
アンリはミレーユを優しく抱きしめながらこれからのことを考えていた。まずはミレーユを不安にさせるあの女の存在をミレーユが学園に入学する前に消さなければならない。
ずいぶん男好きな女のようだから適当な男をあてがって亡命させればいいだろう。この国には二度と立ち入れないように入国禁止処分にしよう。
アンリはミレーユを幼いときから愛していた。乙女ゲームの悪役令嬢であるミレーユはテンプレどうりなら鼻持ちならない傲慢女だが、中身が変われば性格も変わる。
転生したミレーユは完璧な外見をもちながら明るく素直で優しい少女だった。ちょっとドジでおっちょこちょいなところも微笑ましくて可愛い。公爵令嬢でありながら屋敷に侵入してきた子猫を内緒で飼ったり、街で見かけた孤児の子供を何人も公爵家で保護したりしていることも知っている。
先日は転んで頭を打ったと聞いて慌てて駆けつけたら、なんでも散歩中年老いた庭師が重い肥料の袋を持っているのを見て、思わず自分が持とうとして手を出したらしい。いざ持とうとしてあまりの重さに転んでしまったとか。
こうしたエピソードのひとつひとつがアンリにとって実にツボだった。おばか可愛い婚約者は見ていて可愛いし飽きない。小さい頃から猫可愛がりするアンリのことを「アンリにーさま」と呼ぶのも可愛い。結婚後自分が優しい兄の殻を脱ぎ捨て、本能のままに愛したとき、どれほど驚き戸惑うだろうと想像するのもまた楽しかった。
それなのにだ。「アンリ様」と初めて呼ばれたその日に婚約破棄を申し出られるとは夢にも思わなかった。計画がだいなしである。ミレーユには自分なしではいられないほど時間をかけてじっくり落としてきたというのに。
「僕はミレーユを心から愛しているよ。だから婚約破棄なんて言わないでおくれ。ショックでどうにかなってしまいそうだ」
「ひっ……」
「わかったね?」
「は、はい……」
◇◇◇
その後ミレーユは無事アンリと結婚式を迎えた。いつ豹変して教会のてっぺんから突き落とされるかとドキドキしていたが、皆に祝福されながら式を終えたとき、あまりの安心感から号泣してしまったほどだ。
バッドエンド回避のために走り回ると言うこともなく、ただただ幸せな結末になったことに首を傾げつつ、アンリの胸に顔を埋める。これからは優しい兄のようなアンリと共に穏やかな人生を送っていけるのだ。あのゲームのアンリと現実のアンリは別人に違いない。そう信じることにした。
「アンリにーさま……」
「おや?だめだよミレーユ。もうにーさまは止めておくれ?」
「いけない。私ったら……」
「アンリだ。そう呼んで?」
「アンリ様」
「その呼び方はやめてくれ。あのときのことを思い出すから」
「アンリ……」
アンリは満足そうに頷くと、ミレーユに深く口づけた。初めての口づけのあまりの激しさに目を白黒させるミレーユ。誓いのキスですらおでこにチュッだったのに!?
「んー!んんーーーーー!!!」
「ああ、ミレーユ。この日を待ってたよ?もう、僕のものだ」
アンリから立ち上るヤンデレオーラ!
「絶対に逃がさないからね?」
こうしてミレーユはヤンデレ王子に身も心も愛され、とろかされ、すっかり骨抜きになってしまうのでした。
おしまい
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