あの時の手紙

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あの時の手紙

「先生、覚えていますか?」  隣の席が空いたと思いきや、入れ替わりに滑り込んできた相手に、僕は思わず体を強張らせた。 「私です。根本聖子。先生にいっぱい本を貸していただいた」 「あ、あぁ、もちろん。覚えてるよ」  きゅっと締こまった喉にハイボールを流し込み、平静を装う。当時かけていた眼鏡はなくなり、化粧で彩られた顔は別人のように大人びているものの、かつての面影は随所に残ったままだった。正面から僕を真っすぐに見つめる真摯な瞳は、十五年という長い月日が経っても変わる事はない。  目のやり場に困りつつ差し出したグラスに、彼女は乾杯、と自分のグラスを合わせた。カチリという小さな音が、鋭い破片のように僕の胸に突き刺さった。 「今も、本は読んでるの?」 「はい、お陰様で。今は色んなジャンルを読みますけど、本屋さんに推理小説の話題作が並んでたりするとやっぱり気になっちゃいますね。完全に先生の影響です」  聖子は屈託なく笑った。 「それは良かった。小中学生までの間に身についた読書習慣は、大人になってからの読書量に大きな影響を与えるらしいからね。ライトノベルであれ推理小説であれ、活字に慣れるって言うのは大事な事だよ」 「本当に。今の職場でも、全然本なんか読まないっていう人を見ると、ちょっと可哀想になっちゃいます。面白い物語ってすごく沢山あるのに」 「とはいえ本ばかり読んでるようでも困ってしまうけど。現実の出来事にもちゃんと目を向けるようにしないと」 「そうですね。私もあの頃は、本を読むのが楽しいって言うよりは、先生とやり取りする方が楽しかったし」  ぎくり、と身をすくめる僕を見て、彼女は急に声を潜めた。 「……あの時の手紙って、ちゃんと読んで貰えました?」  僕を試すような挑発的な視線を向ける彼女に、言葉を失う。  全く身に覚えのない話だった。  いつ? どのタイミングで? 必死に頭の中を探るも、それらしき記憶はどこにも見当たらない。 「ごめん、手紙って……」 「最後にお借りした本をお返しする際、一緒にお渡ししたんです。面と向かっては渡しにくかったから、黙って本の間に挟んだだけだったんですけど……もしかして、気づきませんでした?」 「いや、そんな……」  慌てて取り繕おうとしたものの、頭の中が混乱して言葉が続かなかった。そんな僕に見切りをつけるように、根本聖子は寂し気な笑顔を浮かべた。 「いえ……いいんです。気にしないで下さい。ただ、どうなったのかなぁってずっと気になってただけだったから。すみません、急に。忘れて下さい」  根本聖子が元いた席に戻って行った後も、僕は呆然としたままグラスについた水滴を見つめていた。  根本聖子からの、手紙。  卒業式を終えたその日――ずっと貸しっぱなしになっていた本を根本聖子が返しに来た時の事はまざまざと覚えている。でもあの本に手紙が挟まっていただなんて。  単に見落としただけなのか。それとも、僕が忘れてしまっただけなのか。いや、そんなはずはない。彼女から貰った手紙があったのだとすれば、そんなに簡単に忘れられるはずがないのだ。  わいわいと盛り上がる同級会の席上で、僕の周囲だけ音が消えたように感じた。  僕の頭の中は、今も自宅の書斎にあるはずのあの時の本でいっぱいだった。
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