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けれども侑李は今目の前に横たわっている。耳元にそっとコーヒーを置く。ふうわりと漂うインスタントな芳しい香り。私と侑李が何千回も淹れあった飲み物。これで少しでも記憶が喚起されれば。頬を撫でる。
今の侑李は植物状態。脳自体は劣化しないけど、新しい外部刺激がないからシナプスはどんどん痩せ細っていく。
私が好きだった侑李のこころがどんどん薄れていく。
そう、私は侑李が好きだった。色々な意味で侑李がとても好きだった。侑李にとって私は妹みたいなものなのだろうけど、朝から夜まで研究室で二人きりで一緒に過ごして、その毎日の半分以上を共有していた。たくさん話をした。休日もよく一緒に出かけた。買い物やカフェ、まるでデートみたいに手を繋いで。侑李の暖かな手のひらに触れる。この感触は変わらないのに、握り返されたりはしないのだ。
侑李は脳神経学、私は工学博士だ。最初に会ったのは共通語学で他に共通科目はなかったけど、その存在に一目惚れした。だから風にゆられる木の葉のように私は侑李を追いかけた。侑李は最初はどこか迷惑そうな様子だったけど、そのうち諦めてつき合ってくれるようになった。一緒に映画を見たりとかご飯に行ったりとか。侑李の趣味は食べ歩きと、それから絵。大学のサークルには入らずに、休日は公園やカフェで風景を描く。
「つまらなくない?」
「全然つまらなくないよ」
本当に? それならいいけど。
言葉とともに再現された記憶風景。
手元に街並みを描いたクロッキー。少し若い私が正面にいて侑李の視点で私との会話が進む。今までより記憶が少し長い。喉に流れるブラックコーヒーの苦味。苦手だけど、これが侑李が好きな味。そう思うとなんだがその酸味すら愛おしい。ふっと全てが消え失せた。再び広がる暗い闇の海。これが今の侑李。侑李により潜り入り込む。深いというのはイメージで、正確には『広い』かな。
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