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「ねぇ、紬。覚えてる?」
眼鏡の奥の瞳を輝かせてそう訊いてくる目の前の男にため息をつく。本当に鬱陶しくてしょうがない。だけど、一応あたしの彼氏で、もうすぐ夫になるんだ。二十歳の誕生日にプロポーズされた。世間一般からしたら随分早いんだろうけど、あたしたちにとってはやっとこの日が来たという気持ちだ。
「覚えてない。忘れた。だから、何のことか知らないけど倫太郎の記憶からも消して」
「えー。いやだよ。紬からの愛の告白。おれ、すっごく嬉しかったんだから」
放っておくとまたあたしの『愛の告白』をリピート再生しかねないから、倫太郎の口を物理的に塞ぐ。手のひらに感じる倫太郎の唇と、ちくちくとするこれは……髭?
「うわ、なに」
思わず倫太郎の口から手を放すと、倫太郎は少し驚いた顔をした後、にやりと笑ってあたしの手を掴んでもう一度髭に触れさせる。
「髭、生えてるの見るの初めてだっけ?」
手の甲に髭を擦り当てられて、肌が荒れたらいやだな、と思う。でも、意外と柔らかいその感触はちょっとやみつきになりそう。倫太郎とは何年も健全なお付き合いをしてきて、昨夜ようやく結ばれた。ふたりで初めて迎えた朝は、気恥ずかしさはあるけど、想像していたよりずっと普通で、平凡で、とびきり幸せだった。
最初に会ったときは『近所のお兄ちゃん』だったんだ。あたしが小学一年生で、倫太郎は六年生だった。同じ小学生だというのに、すっごくしっかりして見えて、憧れた。
「髭は置いといてさ、やっぱり紬覚えてるじゃん」
「覚えてない。なんのこと」
恥ずかしさから倫太郎に冷たく当たってしまうあたしは、まだまだどうしようもなく子どもだ。倫太郎は早々にランドセルを卒業して、真っ黒な制服に身を包んだ。あたしがやっと中学生になったころには、倫太郎はもう大学受験に向けて勉強していた。追いかけても追いかけても、あたしたちの差は縮まらなくて。倫太郎がどんどん知らない世界に行ってしまうのが辛かった。だから、こんな日が訪れるなんて、夢にも思わなかった。
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