1.百舌鳥と秘密

4/7
前へ
/45ページ
次へ
 心臓の音がうるさい。背中を伝う汗が冷たい。先輩は大丈夫なはずだ。付け狙われているとは言え、先ほど会ったばかりなのだから。  戸来は黒樹の顔を窺った。 「まだ分かりませんよ。姿が見えるまで、警戒を」  黒樹が頷く。と、その目が大きく見開かれた。 「なん、です……」  疑問を言いかけ、戸来は息を飲んだ。首筋を生暖かい風が撫でる。  人の息だ。  理解した瞬間、肌が粟立つと同時に、戸来の両肩に固い掌が触れた。  汗が頬を伝う。戸来はゆっくりと、目線のみを後ろへ向けた。  長い髪。白い肌。大きな黒い目が、じっとこちらを見ている。  しゃくるような声が、戸来の口から漏れた。  咄嗟に振り向き、手を振り払おうとする。黒樹の声が聞こえたが、何を言っているかまでは分からない。  とにかく、どうにかしないと。  戸来はがむしゃらに百舌鳥女から離れようとしたた。が、女は素早く、確実な動きで戸来の抵抗を躱していく。  腕を掴まれた。突き飛ばそうとした瞬間、鳩尾に衝撃が走った。  息が詰まる。視界が霞み、暗くなっていく。 「あれ、倒れちゃったの」  瑠莉の不思議そうな声が、遠くに聞こえた。  戸来を止めようとしたすんでのところで、彼の体が傾いた。拳を握った女が、目を見開きながらもその体を支える。手早く肩に担ぐと、黒樹を一瞥し付近の建物の屋根に飛び移った。 「トキさん!」  百舌女がそのまま構内の林、その下闇の中へと駆けていく。黒樹はそれを追いかけようとした。 「あれ、戸来くん? ノート返そうと思ったのに……」  と、ふいに聞こえた声に、黒樹は動きを止めた。見れば、自転車をひいてきた男子学生が、不思議そうにしている。  先ほど戸来が言っていた「先輩」なのだろう。すぐに分かった。  黒樹は眉を顰め、戸来が連れ去られた林の方へ走り出した。  裏門を抜け、人気のない道路に出る。閑静な住宅街を突っ切る道路の先に、相手の影が見えた。凄まじい速さで遠のいていくそれをめがけ、走る。  女が民家の屋根に飛び移った。黒樹もそれに続き、道路を突っ切ろうとする。  瞬間、辺りが明るくなった。甲高いブレーキ音がつんざく。 「あ」  目を見開いた黒樹の眼前に、自動車のヘッドライトが迫っていた。  草の匂いがして、戸来は呻いた。体中が痛い。薄目を開けると、灰色の壁がぼんやりと見えた。  何があった。  ぼぅっとする頭をおさえる。と、腕の痣が目に入った。そうだ。百舌女に掴まれて、そのあと、意識を失ったのだ。  百舌女。  戸来は辺りを見回した。草地。灰色の壁の隣に見える夜空。目線をさらに遠くへ向けると、ひとけのない土手があった。その向こうにはホテルや電気店の看板が小さく見える。  駅向こうの郊外だ。大学からはだいぶ離れ、市内でもはずれの方へ来てしまったらしい。 「ユウくん」  囁きかけるような優しげな声がした。瑠莉の声だ。這いつくばったまま、体が強張る。  どこだ。 「ねぇユウくん。ユウくん。どうしたの。泣いてるの」  辺りに人気はない。土手の上、車道を走る車の音も一切なかった。  草を踏む音が近づいてくる。戸来は這ったまま、声がする方とは反対側へ逃げようとした。が、足音と瑠莉の声は迫ってくる。音の間隔はゆったりとしているのに、逃げる自分へ確実に追いついてくる。戸来の肩を、伸びてきた細い手が掴んだ。視界の端に女の顔が映る。  そのままもう片方の手で仰向けにされ、戸来は尻餅をついた。長い髪が鎖骨に触れる。相手の姿を直視できず、戸来は首を竦めた。その体に乗りかかるようにして、女が顔を近づける。生温い息と長い髪が、首筋を撫でた。抱き寄せるようにして、足や腕、背中、と冷たい手が体に触れていく。戸来は目を瞑った。 「ユウくん、大丈夫だよ。いいよ。ね」  嘘だ。全て、本物ではない。  戸来は薄目を開けた。女の黒い目が、じっとりとこちらを見つめている。その白い手が頬をするりと撫で上げ、額に触れた。  女の目が細められる。「ユウくん、ユウくん」と言いながら、何かを探るように、指先が蠢く。 「……やめろ」  戸来は呻くように言った。じっと体を竦め、女を睨み付ける。重たい腕をどうにか動かし、じりじりと女の腕へ近づけていく。  あと少し。あと少しで、相手の腕を掴める。戸来が息を詰めたところで、女の唇が動いた。 「優佑」  しわがれた男の声が、その口から発せられる。戸来の腕が、止まった。  祖父の声だ。紛れもない。去年亡くなった、祖父の声。  戸来は目を見開いたまま、女を呆然と見つめた。 「優佑、来い」  毅然とした口調。有無を言わせない響き。  過去の記憶が、フラッシュバックした。瑠莉の微笑。祖父の軽蔑した眼差し。  前髪を掴まれる。視界が滲む。女の顔が近づいてくる。手をかざして避けようとすると、掌に熱い、べちゃりとした感覚が這った。女の舌が掌を舐めている。そのまま、あのときのように手を掴まれ、恋人のするように掌を重ねられる。 「ユウくぅん、ねぇ、ふふ」  再び、瑠莉の声がした。  戸来の中で、何かが、切れた。 「……やめろ!」  叫び、戸来は女の肩を突き飛ばした。倒れた女に馬乗りになり、掴みかかる。 「何なんだよ! ずっとずっと、なんでその声で話しかけてくるんだ! どこで聞いた! どこで知った! 何がしたいんだ!」  女の唇から「ユウくん」と瑠莉の声が漏れる。戸来は歯噛みした。女の頬を殴りつける。「ユウくん」と細い声が出る度、殴った。女の髪が乱れ、頬が腫れる。それでもその唇は「ユウくん、ユウくん」と言葉を紡ぎ続ける。 「やめろ! 黙れ、黙れっ!」  吐き気を堪えながら、戸来は女を殴り続けた。笑みを刻む女の唇も、普段は閉じ込めている記憶を引きずり出す声音も、忌々しかった。とにかく、やめさせたかった。女の声がどんどんか細くなっていく。 「ユ……ん……」  やがて、言葉が聞き取れないほどになった。囁くような言葉の断片が、夜風にさらわれる。 「ね……」  瑠莉の声は、止まなかった。  肩で息をしながら、戸来は女を見下ろした。頭が痛い。目眩がする。  戸来は振り下ろそうとした拳を、だらりと下ろした。 「……やめてくれ」  顔を覆い、草地に倒れ込む。息が苦しかった。体中から血の気がひいている気がする。  腰に女の足の柔らかな感触が触れた。女が覆い被さってくる。長い髪が垂れ、戸来の視界を狭めた。女の息が、近づいてくる。
/45ページ

最初のコメントを投稿しよう!

28人が本棚に入れています
本棚に追加