5.「この木に実るのは」

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 まさか、と思ったことほど、起こってしまうものなのかもしれない。  女将がこちらを見る。黒樹はそれに対し、説明するような素振りを見せていた。本来なら、少し休憩してから旅館の中を案内される、という流れのはずだが、少し工程を加えなければならなくなったらしい。  戸来は黒樹たちの方を向いたまま、口を開いた。 「えっとね……前に行っていたアルバイト先の、所長さんなんだ。旅行のことは伝えていたし、ここに来るなんて、聞いてなかったんだけど……」  言葉を選びながら説明する。知世が「嘘」と声をひそめた。 「少し、変わった感じの人なのね……前のお昼のときみたいに、ここまでアルバイトなんて言わないわよね?」  まさか、と戸来は笑った。 「大丈夫だよ。ただちょっとだけ挨拶してくるから、知世さんは先に案内して貰ってて」  後ろを見れば、さっき話していたのとは別の仲居が二人、こちらの様子を窺っている。知世は振り返り、会釈した。それからすぐ、戸来に向き直る。  その目線が、ゆっくりと彷徨った。 「……嫌よ」  小さく俯いた恋人は、やがて、しっかりとした声で拒否した。 「えっ」 戸来は目を丸くして恋人を見た。  恋人の整った眉が悩ましげに顰められている。目をそらしたまま、知世はぽつりと言った。 「せっかく二人で旅行に来たんだもの、ロビーの別の席で待ってる」  彼女にしては珍しい、拗ねたような声音だった。大人びた声に、可愛らしさが滲んでいる。 「……うん、確かにその方がずっと良いね。すぐに終わらせるから、一緒に案内してもらおう」  戸来は頷いた。  知世が仲居に案内され、やや離れた席ソファソファに座る。容器に入ったカラフルな飲み物を紹介されているのを一瞥し、戸来は黒樹の方へ足を運んだ。 「こんにちは。まさか、クロさんがここに来ているなんて思いませんでしたよ」  黒樹が「いやぁ」と頭を掻く。 「ここには毎年来ているんです。ただ、滞在するのがトキさんと同じ日に重なっていた、ということを、うっかり忘れていたもので」  女将を一瞥し、「アルバイトのトキさんです」と笑う。戸来は咳払いし、女将に頭を下げた。 「戸来と申します。……今日はアルバイトじゃなくて、普通に、旅行に来ていました」 「女将の智子といいます。偶然というのもあるものなんですね。それはそうと、着いたばかりでお疲れでしょう、ご苦労様でした」  女将は柔らかく微笑んだ。切れの長い目尻に皺が浮かぶ。整ってはいるが、親しみやすい顔立ちだった。  ありがとうございます、と戸来は頭を下げた。 「お世話になります……ええと、それで……」  黒樹を見る。相手は悠々と、赤紫色のジュースを飲んでいた。  コップを置き、口を開く。 「私は毎年、こちらに来ているもので。仕事とは……微妙なところですが、まぁ、トキさんに手伝いを求めるようなことはしませんよ。お隣にいらっしゃったのは同行の方ですかな」 「恋人です。というか、もしかしてここ、何かいたりします? 彼女にも悪いですし、流石にここでまでアルバイトはできませんよ……あと、口の端が真っ赤になってますよ」  黒樹の吊り上がった口角が、僅かに染まっている。声をひそめつつ指摘すると、相手は目を丸くした。女将が差し出した紙ナプキンを受け取り、ゆったりとした動作で拭う。 「ありがとうございます。大丈夫ですよ、私だっていつも通り、泊まりに来ただけですしねぇ。しかし、あれですな。あの、早く入れる……」 「……アーリーチェックインですか?」 「恐らくそれです。通常よりも早く来られるとは、よほど旅行を満喫したいようで」 「そりゃあ、折角のデートですから」  戸来の言葉に、ふむ、と黒樹は目を細めた。 「そうですねぇ。ではそろそろ、解散としましょうか」  そうそう、と言葉を付け加える。 「このジュース、美味しいですよ。料理も自然も素晴らしいところなので、存分に満喫してくださいね」  光栄だわ、と女将が笑う。明るいやり取りに、戸来も「へぇ」と顔をほころばせた。 「ありがとうございます。それじゃあそろそろ、失礼します」  頭を下げ、ソファに腰かけている恋人の方へ向かう。  小洒落た後ろ姿が離れていくのを見つめ、黒樹は口を開いた。 「いやぁ、本当に偶然なんですよ」  笑みを含んだ言葉に、智子は「そうなんでしょうね」と頷いた。 「大学生ですか? お若いようで、微笑ましいですが……」  目線を移す。戸来が恋人らしき黒髪の女性と話していた。互いにやわらかな表情を浮かべており、仲が良い者ならではの甘い時間が流れていることは明白だった。それでいて近すぎず遠すぎず、行儀の良い付き合いに見える。 「良い人ほど、あなたのようなお化けの餌食になるものなのかしら」  智子が呟く。  手厳しいですな、と黒樹が言った。 「私のことはともかく、彼のことなど、初めて会ったあなたには分からないでしょう」 「それはそうですけど。少なくともあの子たちは、私が丹精込めて作ったジュースを飲んでくれているようですよ。素直な子たちなんでしょうね」  穏やかに、ゆっくりと言葉をつむぐ。あくまでにこやかに話しながら、智子は黒樹を見た。  黒樹は「む……」と唇を曲げ、自身の手にあるコップへと目をやった。濃い赤色のジュースが揺れ、透明なコップを薄く色付けている。 「しかし、私の好きなザクロは今の季節ではないですし……そう、季節に合ったお手製のジュースから季節外れの果物のジュースまであるということじゃないですか。ここがお取り寄せの品も置いていただける、心づくしのおもてなしがある旅館だからこそでしょう。その、アーリー何とやらというのもありますし、あなたもここも年月と共に進歩しているということです。私はその恩恵を受けているだけですよ。それこそ素直にね」 「あらいやだ、お口が上手くなりました?」  智子が笑う。その目には、含みのある光が宿っていた。 「素直かどうかはともかく……あなたの方こそ、変わったようじゃないですか。……人を、傍におくなんて」  つぶやくような声音に、黒樹は智子を一瞥した。彼女の目の先には、恋人とソファに腰かけて談笑する戸来の姿があった。  まさか、と黒樹が笑う。 「私はずっと、変わっていませんよ。ただ少し、気まぐれなだけです」 「気まぐれ、ですか」  智子の声音が鋭くなる。  笑みを浮かべたまま、ええ、と黒樹は頷いた。  智子はしばし考え込む素振りをしたが、ややあってぱっと顔を綻ばせた。 「……そろそろ、打ち合わせの時間だわ。失礼します」  頭を下げ、黒樹の前から去って行く。  その後ろ姿を眺め、黒樹はまた、コップに口をつけた。そして、今度はきちんと口元を拭った。  「ねぇねぇ、戸来くん。これも飲んでみて」 「これ……プラムかな? ちょっと炭酸が入ってるんだ、さわやかで美味しいね」  ロビーにあったジュースの容器は、果物と野菜とでそれぞれ分けて置かれ、机上をカラフルに彩っていた。赤や黄色、オレンジ、緑と並び、それぞれから少しずつ紙コップに移していく。仲居の女性から紹介されたそれらは女将お手製のものらしい。素材の味が活かされており、旅の疲れを癒やしていった。が、それ以上に、知世は恋人の笑顔が嬉しかった。  アルバイト先の上司だという、白髪の男。彼を目にしたとき、知世は困惑した。以前は昼食を邪魔され、今度はせっかくの旅行先で、また恋人を取られるんじゃないかと、そんな風に思ったのだ。  趣味も仕事も相手を構成する要素として大切なものだし、「仕事と私、どっちが大事なの」などと食ってかかるつもりはない。迷惑も掛けたくないし、できれば我が儘も言いたくない。それでもなんだか得体の知れない不安を感じて、戸来から離れたくないと思ってしまう。彼の優しげな笑みを見つめていると、ますますそんな風に感じた。 「……知世さん? どうしたの、ちょっと疲れた?」 「えっ。ああ、ううん。大丈夫よ、何でもないの。どれも、とっても美味しいから、つい味わっちゃって」  気づけば、恋人が心配そうにこちらを覗き込んでいる。流行りのゆったりとした服に、普段よりも上げられた前髪。どきりとしたのは、急に声を掛けられて驚いただけではないだろう。  落ちついて。落ちついて、ちゃんと楽しむのよ、知世。  心の中で唱えながら、知世は笑みを浮かべた。そして思い出したように、言葉を紡いだ。 「そうそう。果物で思い出したんだけど、旅館の大桑も今、見事に実が成ってるんだって。仲居さんが教えてくれたの。いつも季節外れに花を咲かせて、本当の季節の初夏じゃなくて、夏真っ盛りに実を結ばせてる。今日の桑の実も、青空に合ってきれいだって。  普通の桑なら大学にも生えてるけど、もう実は落ち終わってるじゃない。願いを叶えるって話もあるみたいだし、やっぱり不思議な何かがあるのかしら」  何てことはない話だった。どうせ、迷信じみたものなのであろうことは分かっていた。  それなのに。 「……うん、歴史もあるみたいだしね。何か、特別なものがあるのかもね」  恋人が浮かべた笑みは、薄いものだった。抱えているものを隠しきろうとしているような、どこか遠くに行ってしまう前のような。彼がたまに見せる、不思議な表情だ。 「戸来くん」  思わず、恋人の名前を呼ぶ。  なんだい、と彼が訊いた。きょとんとした顔はどこかあどけなくて、普段の彼に戻ったようだった。  彼はちゃんと、ここにいる。  ほっとして、知世は微笑んだ。 「……何でもない。ただ、二人で旅行に来られたんだなって。改めて、思ったの」 「ええ? まぁ、でも確かにそうだね。せっかくの旅行なんだし、楽しもうね」  恋人のやわらかな笑みに、知世は笑って頷いた。
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