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1.百舌鳥と秘密
大学の講義が終わり、アパートに着く頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。街路灯の下に群がる蛾の姿がぼんやりと白く浮かび上がっている。
「うん、そうなんだよ。あの教授、ブザーが鳴っても喋り続けるからさ」
自転車を押しながら、戸来優佑は片方の手でイヤホンを押さえた。虫の声が時折聞こえる中、恋人のよく通る声が響く。
「戸来くんの専攻してるとこは大変ってよく聞くし、お疲れさまね。まぁそれにしても、私たちは学生で、あとちょっとでテストって期間なんだから。講義はちゃんと聞かなきゃ」
恋人の大真面目な言葉に、戸来は苦笑した。
「さすが手厳しいなぁ……そりゃそうなんだけどさ」
「そうでしょ。でもここさえ乗り切れば夏休みなんだし、終わったらちょっとした旅行にでも行かない?」
「いいねぇ。何か美味しいもの食べられるとこ、調べようかな。楽しみだなぁ」
寝る前の挨拶をして、会話を切る。恋人との通話画面を一瞥し、戸来は駐車場に自転車を留めた。部屋への鉄骨階段に差し掛かったところでふと、足を止めた。隣のアパートとアパートの隙間、暗い影が溜まっているところに、気配がある。
汗が頬を伝う。じっとりとした夜風がシャツの隙間から入り、体の火照りを撫でた。
閑静な住宅街で、辺りにひとけはない。民家の明かりは、他人事のように夜の闇を照らしている。
気づいたら息を潜めていた。砂利の音を立てないよう、一歩一歩、近づいていく。陰の中の輪郭が、徐々にはっきりとしてくる。
誰かが座り込んでいる。
肩にかかる長い黒髪。細かな模様のワンピース。俯いていて、顔はよく見えない。
「ねぇ」
ふと、声がした。ややあって、自分に話しかけているのか、と理解する。
「何か……」
返事をしかけ、戸来は口を噤んだ。聞き覚えのある、声だった。
「ユウくん、こっちに来なよ」
ユウくん。記憶の中にある、懐かしい声。呼び方。言葉が重ねられるほど、次々と記憶が蘇ってくる。 少し低いその声は、どこかくだけた響きのあるそれは、三つ年上の従姉妹の、瑠莉の声だ。
背中を冷たい汗が伝った。
あり得ない。確かにその声は従姉妹のそれだが、彼女は去年、死んだのだ。
「ほら。ユウくん」
もう一度、声がする。
悪戯にしてはタチが悪い。悪戯、ならば。
縫い付けられたかのように、動けない。目が離せない。女はゆっくりと顔を上げた。
黒い、大きな目。小さな鼻と口。整っているが、どこかのっぺりとして感情の感じられない顔。二十代前半ほどに見える。全く知らない、顔だ。
誰だ。なんで、あの声を。
悪夢でも見ているのだろうか。何か、とんでもない場所に来てしまった、という気がする。
戸来は後方を一瞥した。すぐ傍にはアパートがある。頑張って走れば、自分の部屋に戻れる。
寒気を堪え、戸来は足に力を込めた。と。
「おい、返事をしろ!」
突然野太い男の声が響き、戸来は走り出した。転びそうになりながらも手すりを掴み、階段を上る。震える手を押さえ両手で鍵を回す。押し開けてすぐ、戸来は鍵を閉めた。目を瞑り、扉に背を預ける。息が荒い。首筋が汗で濡れている。心臓が、体を内側から叩くかのように激しく鳴っている。
扉のひんやりとした感触を背に感じながら、戸来は薄く目を開けた。
あの声。あの女が発したとしか思えない、男の声。
あれは、死んだ祖父の声だった。
「ははぁ、それをきっかけに何かとその女性に出くわすようになり、困っている、と」
黒い目を細めながら、男がズズ、と珈琲を啜る。
神妙な面持ちで、戸来は頷いた。
「大学構内でも、講義を受けているときにふと外を見ると立っていたり、買い物へ出掛けたときにすれ違ったり。何だかつけ狙われているみたいで、不気味なんです。講義やサークルには一応行ってるんですけど、何かあったらって思うと恋人とも迂闊に会えないし……」
戸来は腕を摩った。通された席は冷房の真下で、しかもカフェ内の冷房は効き過ぎと言えるほどよく効いていた。上着を持ってくれば良かった、と心の中でため息をつく。
ふぅむ、なるほど……。向かいのソファに腰掛けたスーツ姿の男は、指の腹と腹を合わせた。考え事をしているのか、そのまま長い指がくるくると回る。その様はさながら、蜘蛛の足が蠢く様を彷彿とさせた。
上下の黒いスーツに、少し曲がった黒いネクタイをしめ、足下はぼろぼろの黒いスニーカーという出で立ちの、痩身長躯の男。年齢は二十代後半から三十代前半、といったところか。染めているのか、髪は白く、男にしてはやや長い。
戸来は目の前のテーブルを一瞥した。未成年だから、と不思議な理由で勝手に注文されたオレンジジュースの隣には、先ほど貰った名刺が置いてある。「クロキ怪異相談所 所長 似内黒樹」と印刷されたそれは、何度見ても、やはり胡散臭い。
クロキ怪異相談所。インターネットでホームページを見つけ、貯金でどうにか払えそうな金額だったのがこの相談所だった。到底人では説明がつかないような心霊現象や、人か怪異かは分からないがとにかく不気味な怪現象の調査といった内容を扱っているとあった。ポルターガイスト現象の調査から行方不明のペットや人捜し、怪しい人物の身辺調査、と様々なものが調査内容に書かれており、どうも何でも屋に近いらしい。このテクノロジー時代に怪異なんて信じたくないが、妙なスピリチュアルめいた文言が少ないだけ、まだマシに思えた。
そして待ち合わせ場所のカフェに姿を現したのが、所長を名乗るこの男。所長とは言っても、他に社員はいないとあったから、自営業でやっているのだろう。
「それでその女性に、見覚えはないんですよね……トキさん」
名刺代わりに差し出した学生証を確認しながら、黒樹は言った。
「へらいです」
頷きながら、戸来が訂正する。黒樹の呼び方では、新潟県を象徴する絶滅危惧種の鳥になってしまう。依頼を電話でする際も名乗ったはずなのだが。
「……ゆう……ゆうさん?」
「アイドルのニックネームかよ……」
戸来は眉間に皺を寄せ呟いた。名字を諦めて名前で呼ぶことにしたようだが、「優佑」が読めなかったのか、ふざけているのか。
「あの、そういうの、やめてもらえませんか」
指の腹でテーブルを叩きながら、戸来は黒樹を睨んだ。
「そういうの、とは?」
黒樹がきょとんと首を傾げる。
「そういうふざけた態度ですよ。こっちは本当に、気が気じゃないんです。真面目にやって貰えませんか」
私はいつだって真面目ですよぉ。黒樹が怒ったように言う。けれどもそれがポーズであることは明白だった。そうかと思えばすぐ、また指をくるくると回し始める。
どうにも掴み所のない男だ。
苛立ちを通り越して、いっそ呆れてくる。金のない学生という身で当たれる限界ということで、やはり藁にもすがるしかないのか。そもそもホームページからして、蛍光色の画面が目に痛い、やけに古臭いものだった。
気持ちを落ち着かせようと、戸来はオレンジジュースを飲みきった。話題を元に戻さなければ。
「先ほどの質問ですが、全く知らない女性です。親戚も皆、ほとんど高齢ですし、あんな若い女性がいるという話は聞いたことがありません。従姉妹と祖父の両方の声を知っていて真似ることができる、若い女性なんて……全く心当たりがないんですよ」
だから気味が悪いんです。言って、戸来は黒樹を上目で見た。
「あの、専門家から見て、僕の依頼内容ってどうなんでしょうか。不審者なのか、それとも、……その、あんまり信じたくないんですが、幽霊とか、そういう超常的なものなんでしょうか」
ふむ、と黒樹は腕を組んだ。その白い前髪が冷房に揺れている。その隙間から覗く目は、真正面に座る自分を通り越してどこか虚空を見つめているようにも思えた。
ややあって、その目の焦点が戸来に合わせられた。
「そうですねぇ。声、というなら、様々な声音を出す技術というものは聞いたことがあります。ですが見ず知らずの相手の、しかも既に亡くなっている人の声を真似るというのはどうも……嫌がらせと言うには、奇妙です」
黒樹は自分の喉に手を当てた。古風な口調で話す声は、見た目の割に渋い響きを持っていた。おどけた声音の端に、本物の真面目さが覗く。
「他者の声を真似る、ということで……件の女を鳥の百舌鳥になぞらえ『百舌女』とでも呼びましょうか、私が得意とする案件だという予感がします」
漸くのまともな返答に、戸来は目を丸くした。
「じゃあ、本格的に調査を引き受けて貰えるんですか」
戸来の言葉に、黒樹は目を細めた。
「ええ。勿論、引き受けさせていただきます。そのために来ましたし、何より専門家なので」
はぁぁ、と戸来は深い息をついた。ソファにもたれ、手で顔を覆う。
「真面目に出来るなら、最初っからそうしてください……いや、良かった。本当に」
「私はいつだって真面目だって言ってるじゃないですか」
「まぁ確かに、そうでしたけど」
戸来は黒樹の言葉を受け流しつつ、テーブルの下でこっそりとガッツポーズをした。
「じゃあ早速、一緒に来て欲しいんです。今日この後も大学の講義があるんですけど、終わるのがほぼ二十時頃で……よろしくお願いします、似内さん」
「こちらこそよろしくお願いします。あ、私のことは、親しみやすく『クロさん』と呼んで下さい」
カップの珈琲を飲み干し、黒樹が微笑む。ところで、と黒樹は言った。
「百舌女はおじいさんと従姉妹の声を発していたということでしたが……なぜそのお二人なのか、去年亡くなっている以外に心当たりはありますかな」
黒樹の目が戸来を見据える。ややあって、戸来は口を開いた。
「……いえ。特に何も、ありませんね」
空のグラスに目線を移す。氷が崩れ、音をたてた。
そうですか、と黒樹は相槌を打った。
「では調査も必要ですし、護衛を兼ねて向かいましょうか、トキさん」
戸来は曖昧な笑みを浮かべ、同意した。
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