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空は茜色の上に紺色が重なり、カーテンのように暗い影を落としている。日中よりも涼しくなってきた風を受けながら、自転車が歩道のすぐ横を走り去っていった。大学の近くに高校があることからも、すれ違う人々の中にはジャージや制服姿の高校生が目立つ。
「できれば俺も、明るいうちに帰りたいんですけどね」
大学の門をくぐりながら、戸来は苦笑した。ここまで黒樹とともに歩いてきたが、特にこれといった事件はなく、喉かな夕方だった。
「そういえば、トキさんは何を勉強されているんですか」
戸来の言葉を受け、黒樹が尋ねる。戸来は鞄から教科書をちらりと覗かせた。
「専攻は心理学です。まぁ座学でも実験でも、なかなか時間通りに終わるってことがなくて……曜日にもよりますが、遅くなるのは大体、心理学の講義をとっているときですね」
「ははぁ、大変なんですねぇ。それでもとるということは、心理学、お好きなんですか」
「……まぁ、そうですね。興味があるから、勉強しています」
言ってすぐ、戸来は「あっ」と声を上げた。向かいの建物を指し示す。
「あそこの、A棟の教室で講義を受けるんです。一階の端、ちょうどあのベンチがある横です」
クリーム色の四角い建物を見ながら、黒樹は頷いた。
「なるほどなるほど。絶好の見張り場所という訳ですな」
じゃ、お願いします。腕時計を見ながら、戸来が駆け足で向かっていく。他の学生に紛れていくその背を見つめ、黒樹は顎に手を当てた。
ベンチに腰掛け、それとなく辺りを見回す。始業のチャイムが鳴って十分ほど経つと、構内の灯りが点き始めた。すれ違う学生の視線を適当に交わしながら、黒樹はそれとなくベンチに居座り続けた。
十九時半を過ぎる。百舌女の姿は、気配すらもない。欠伸を噛み殺していると、散歩に来たのであろう小型犬に吠えられた。すみません、と頭を下げる老婦人に、いえいえ、と苦笑を返す。
ふと、ベンチの向かい側にある掲示板が目に入った。教室を確認しつつ席を立つ。窓際に座っている戸来は、真面目にノートをとっていた。隣では友人らしき若者が欠伸をしている。
学生掲示板には、各学部の講義スケジュール、休講情報、お知らせ、といったプリントがそれぞれガラスケースの中に張られ、蛍光灯によって照らされていた。その中でもお知らせというコーナーを見てみると、健康診断の呼び出しや自転車点検の実施場所といったものが見受けられる。他には、無灯火運転はするなだとか、個人情報の管理には気をつけろだとかいったくらいの注意があるくらいだ。
不審者情報は、現状見受けられないか──。
考えていると、ふいに後方がぱっと明るくなり、賑やかな声が流れ込んできた。講義が終わったらしい。扉から出てきた人の波が分かれ、それぞれの方向へ散っていく。
「お疲れさまです、今日はちょっと早く終わりました」
友人と別れたのだろう。後方に手を振りつつ、戸来が駆け寄ってくる。友人と話していたときの余韻があるのか、人の良さそうな笑みが明かりに照らされていた。
「いや、お疲れさまです。見張ってはいましたが、特に異変はありませんでしたよ。さ、お疲れでしょうし、帰るとしましょう……ご自宅まで行っても大丈夫ですか?」
黒樹がにこりと笑うと、戸来は頷いた。
「もちろん。もちろん、お願いします。不安なので」
緩やかな坂を下り、大学の後門を出る。空はすっかり暗くなり、針で突いたような小さな星が瞬いている。左手に民家、右手に大学が見える細い道を歩いていると、夕飯らしき煮物の匂いが風に運ばれてきた。
「良い匂いですねぇ……。そういえば、お腹が空きました。どうも匂いに弱くて」
苦笑しながら、黒樹は戸来を一瞥した。
「ああ、ちょうど夕飯時ですもんね。……せっかくですし、安物にはなりますが、野菜炒めでもパックに詰めますか? 余りがあるんです」
もしかしたら、料金が安くなるかも知れない。淡い期待を抱いた戸来の提案に、黒樹は首を振った。
「いえ、ありがたいお話ではありますが……。そこにまで仕事を持ち込むというのも気が引けますので。それに私、空腹な方が、力が出るんです」
にこにこと言う。戸来は「そうですか」と返した。
黒樹は調子っぱずれな鼻歌を歌っている。その芝居がかった言動にも、慣れ始めていた。癖はあるが、悪い人間ではないのだろう。
百舌女のことを考えると、気持ちはざわめくが。
「あ、あのアパートです」
自宅アパートが見えてきたところで、戸来は表情を和らげた。このままいけば、無事に帰れるのかもしれない……。
「ねぇ」
ふと、前方から声がした。柔らかな響きの、女の声。
瑠莉の声だ。
足が止まる。後退ろうとした矢先、ふいに体がガクンと止まった。
「待って」
黒樹が腕を掴んでいた。非常に強い力で、びくともしない。その黒い目は、前方をしっかりと睨んでいる。
戸来は彼の目線の先を、ゆっくりと辿った。コンクリートで舗装された道は途中から闇に飲み込まれ、真っ黒な陰に包まれている。
目を凝らし、戸来は「ひっ」と声を上げた。
いた。
女が一人、立っていた。白いパンプス。ほっそりとしたふくらはぎ。項垂れていて顔はよく見えないが、その姿形には、十分すぎるほどの見覚えがある。
と、俯いていた顔が、ゆるりと動いた。長い黒髪の下の目が、戸来の目を見据える。その目はまるで二つの火の玉のようで、ぎらぎらと輝いている。
戸来は思わず、一歩後退った。女の顎がぴくり、と動く。
女は獣のように呻き、地面に手をついた。地の底を這うような唸り声をあげ、四つん這いのまま戸来に飛びかかってくる。
悲鳴を上げるより早く、黒樹が飛び出した。戸来の目の前で、黒樹の肩に女が噛み付く。
「……く、黒樹さん」
戸来はへたり込んだ。街灯に照らされた女の歯は、黒樹の肩に食い込んでいる。噛みちぎらんとするばかりの勢いは、とても人間とは思えない様だった。
化物、だ。
呆然としていると、黒樹が女の鳩尾を素早い動作で殴った。途端に女が咳き込み、腹を押さえながら離れる。
「……邪魔……するな……!」
恨めしげな目が黒樹を睨み付ける。黒樹は女を一瞥すると、座り込んだままの戸来へ腕を伸ばした。素早く戸来の足を小脇に抱え、前転した勢いで担ぎ上げる。黒樹は走り出した。後方を見る。凄まじい表情の女が迫っていた。
「だ、大丈夫なんですかっ」
「舌噛まないように、黙ってて下さい」
戸惑う戸来に、黒樹は小声で言った。曲芸師のようにアパートの壁を踏み、屋根を上ったり下りたりしながら女を撒いていく。
揺さぶられながら、戸来は女の方に目を凝らした。血だろうか、一瞬、生臭い匂いが鼻を掠める。が、気にする間もなかった。黒樹の肩越しに、女は執拗に追ってくる。
黒樹は民家が密集する地帯へ降り、すぐ角を曲がった。傍の民家と民家の隙間に身を寄せ、戸来の頭を押さえ座らせる。目線のみで落ち着くよう伝え、自身もしゃがみ込んだ。
と、足音がした。
「ユウくぅん……ねぇ、おいでよぉ。聞こえてるんでしょう? 分かってるんだから」
瑠莉を真似た女の声が、夜風に混じって聞こえる。戸来は口元を手で押さえた。落ち着かせるように、黒樹がその肩を摩った。
額に汗が滲む。鼓動が激しく、胸が痛い。
戸来は深く息を吸い、吐いた。心臓の音が、ゆっくりと静まっていく。
女の声は夜道を漂うように響いていた。戸来たちのいる場所を通り過ぎ、やがて遠ざかっていく。
完全に女の気配が消えたところで、黒樹は立ち上がった。頭上を確認する。
電線と民家の隙間からは、いつも通りの夜空が覗いていた。戸来を気にしつつ、辺りを見回す。民家や畑、それらに挟まれた夜道を、静寂が包み込んでいた。
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