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「姉ちゃんは、俺が最高だと認めた男が選んだ女なんだ。もっと自信持てよ。もっと……全力でぶつかってみても大丈夫! ……だって、相手は楠先輩だよ?」
ビシッと親指を突き立てた弟に目が点になる。安堵して頷くことができたら、どんなにかいいだろう。わからないのだ。
楠がどうして元気がないのか?
いま、どうしてこんなに不安なのかが。
「全力でぶつかって……玉砕したら?」
「いいじゃん、木端微塵! へたにヒビが入って壊れるかどうか、やきもきするよりスカッとするだろ」
なにそれ――思わず噴き出した百合香に、佳良もホッと頬を緩ませた。最近、「今日の楠くん」報告を休止していたために、彼も心配していたのだろう。
「佳良は好きな子いないの?」
「俺、モテないんだよ。いっつも、かわいーとか言われるだけで終了! ……この夏、俺は俺を改変するぞ。二度と女子からカワイイ呼ばわりされないよう、男の中の男になるんだ」
ぐっと拳を固めた弟の腕は、すんなりと細く色も白い。その腕に自分の腕を絡め、並んで歩き出す。「がんばれよ、少年」「おう!」――なんら気遣いのない、佳良らしい率直な励ましに、不安は薄い影となって消えていく気がした。
グラウンドは、真夏の太陽の下で人工芝が青々と輝いていた。
簡易な観覧席も設けたサッカー専用グラウンドには、佳良の説明通り、父兄や後輩らしき観客がそこそこ入っている。サッカー部でもなんでもない写真部の部員其の一の姉、という微妙な立場でも目立つことはなかった。
「俺、最高のアングルを探してくるから!」
言うなり駆け出した弟は、興奮に顔を紅潮させている。「熱中症に気をつけて」と、声をかけたが聞こえてはいないだろう。
(あっついなー)
すでに試合が始まっているピッチ上の選手たちはもっと暑いだろうと、素人らしい感想を抱く。ルールがさっぱりわからない百合香にとって、本日の標的が縦横無尽に駆けまわるフィールドプレイヤーでないことは大いに救いである。
グラウンド一体に響き渡る彼の声は、最近の様子を吹き飛ばすかのような溌溂としたものだった。
(キーパーって、ただゴール前に突っ立ってるだけじゃないんだ……)
楠が守るゴールポスト斜め後ろに座る百合香は、ピッチから一時も目を離さない大きな背中に釘づけとなった。深緑色のユニフォームに身を包んだ楠の後ろ姿は、普段の頼もしさを超えた、気迫以上の鬼気に近いピリピリとした波動が感じられるほどだ。
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